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慶光院がなければ伊勢神宮は存続しなかった(旧慶光院見学記)
<慶光院(けいこういん)を訪れるべき理由>
11月3日の文化の日、この一日だけ一般公開される旧慶光院客殿を見学してきました。ちょうど全国大学駅伝の日で、大歓声と各大学の応援歌をまじかに聞きながらの見学です。
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伊勢神宮が創建からの長い歴史の中で、断絶せずに現在に続いているのは、ここにあった慶光院という尼寺のおかげと言っても間違いではありません。伊勢神宮に関心を持つすべての方は必ずここ慶光院を一度は訪れていただきたいと願います。
伊勢神宮の多数の祭祀の中でも最も重要なのが式年遷宮、つまり20年ごとの神様のお引越しです。正宮(本殿)などの建物や鳥居といった構築物をすべて新しく建て替え、ご神宝や装束もすべて新しく作り替えられるという大規模な行事です。神様を常に若々しい場所でお祭りするという、宗教的な意味で重要な行事でもあります。
この式年遷宮は、記録によれば飛鳥時代の持統天皇4年(690年)に内宮で、同6年に外宮で斎行されたのが始まりであり、以後、社会情勢により間隔の長短はあったにせよ、基本的に20年に一度のサイクルで現在まで連綿と続いています。直前の式年遷宮が平成25年(2015年)に行われたことを記憶している方も多いでしょう。
<式年遷宮は100年以上断絶していた>
しかし、この式年遷宮は室町時代の中期になると実施が滞るようになってしまいます。時代が戦乱と混沌に陥り、全国で武士が覇を争うようになって、現実問題として式年遷宮に必要な木材や資金を調達することは、権威の低下した朝廷はもちろん、統治能力を失った室町幕府にも困難になってしまったからです。(式年遷宮には莫大な費用がかかります。ちなみに、前回平成25年には558億円がかかっています。)
このため、内宮では寛正5年(1464年)を、外宮では永享6年(1434年)を最後に、ついに式年遷宮は行われなくなりました。正宮や宝庫の千木や鰹木、萱は朽ち、建物は傾いて雨が漏る、無残な状況の中で、小規模な修繕(仮遷宮)を重ねながら祭祀を続けなくてはならなかったのです。
もちろんこうした困窮は、ひとり伊勢神宮だけではありませんでした。天皇の内裏や各地の神社仏閣も、時代の混乱の中で、程度の差はあれ荒れるに任せざるをえない状況に陥っていたそうです。
<勧進聖という救世主が現れた>
ここで活躍が目立ってきたのが、勧進聖(かんじんひじり)、勧進比丘尼(かんじんびくに)という人々です。
僧や尼、あるいは山伏などで、諸国を巡って人々に神威・仏徳を説き、普請の費用を集めた宗教者たちのことです。
伊勢神宮においても窮状を見て、何人かの勧進聖たちが名乗りを上げ、神宮側の許可を得て、社殿の建て替えなどの募金活動(勧進)を行う例が出てきました。ほとんどが無名の市井宗教者であったこれら勧進聖たちのうちで、最も成功し、そして最も高名になったのが、後世に朝廷から慶光院という院号や、上人の称号を賜った慶光院の勧進比丘尼たちだったのです。
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このあたりの話は大変長くなるし、複雑になるので結論を先に書くと、慶光院の初代住持(住職)である守悦(しゅえつ)が精力的に勧進活動した結果、洪水に流されていた宇治橋(内宮前にかかる橋)の再建にまず成功します。永正3年(1506年)のことでした。
守悦の次の次の代、3代目の住持となった清順(せいじゅん)も各地を精力的に勧進し、京にもたびたび上洛して朝廷の信頼を得、ついに永禄3年(1563年)、外宮の遷宮が実現しました。断絶以来、実に129年ぶりの正遷宮でした。
清順の次の代、4代目の周養(しゅうよう)も勧進に努め、織田信長など有力武将からの援助を得て、天正13年(1585年)に内宮の正遷宮が斎行されます。これも123年ぶりのことでした。
この努力と苦難はいかばかりであったか、敬意を表さずにはおれません。
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ただ、復興といっても、120年以上の断絶とは、以前の正宮や式年遷宮を知らない世代が3世代以上続いたということです。写真も設計図もない時代、いかに正確に考証したとしても外観などは120年前とはかなり変わってしまったのが実態なのでしょうが、それはまた別の機会に。
<伊勢神宮は神仏隔離であったはずだが>
慶光院の各代の上人(勧進比丘尼)たちの活躍は、神仏隔離、つまり祭祀や執行に仏教を関与させないことを厳格に貫いていた伊勢神宮において、重要神事の主導権を仏教者が握ったこと、しかもそれが女性であったこと、という異例中の異例なことでした。慶光院からの勧進の申し出に対し、ほかならぬ伊勢神宮の禰宜たちが強く難色を示し、容易に許可を与えなかった事実がそれを物語っています。
しかし、たびたび私がこの仏都伊勢で書いてきたように、この当時は神仏習合が社会常識であり、日本の神々にはそれぞれ本地仏がいることを疑う人はいませんでした。神仏習合の一大拠点である熊野比丘尼の流れをくむ慶光院も当然にその前提だったはずで、だからこそ各地の大名から勧進も多く集まったのです。これは疑う余地がありません。
そうした社会思潮の中で、伊勢神宮の高級神官たちだけが神仏隔離に強くこだわり続け、いつしか社会から取り残され、結果として正遷宮すら斎行できないまでに凋落してしまっていたのです。「身内の常識は社会の非常識」、「決断を先延ばししているうちに事態はますます悪化する」、がいつの世にもあったことは銘記すべきと思います。
<その後も慶光院は存在感を発揮し続けた>
遷宮を成功させたことで、慶光院は朝廷や徳川幕府とますます親密な関係となり、内裏や将軍家の御師、つまり彼らからの負託で伊勢神宮への祈祷を行う特別な宗教者、として隠然たる権威を持つようになります。慶光院上人には仏教者として最高位を示す紫衣の着用さえ認められていました。
尼という法体であり、寺に居住しながら、伊勢神宮の御師(神職)としてだけの活動をするという、まさに神仏習合を体現した存在でした。(やがて、その特権は伊勢神宮の巻き返しによって徐々に剝奪されていきます。)
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<旧慶光院は重要文化財となって現存している>
本日見学したのは旧慶光院でも伊勢神宮の祭主職舎として現存し、重要文化財となっている客殿や勝手所ですが、江戸時代初期には釈迦弥陀を本尊として、観音堂、弁財天堂、鎮守天神社、方丈などいくつもの建物があり、境内も100m四方と、現在の倍以上ある広大なものでした。伊勢神宮・内宮にすぐ近い場所にあって、威容を誇っていたことでしょう。
創設以来、伊勢神宮はほぼ男社会でありつづけました。
その中で、混乱の戦国期に伊勢神宮を再興した慶光院の勧進比丘尼たちは、日本の歴史で今後も燦然と輝く存在だと思います。慶光院の話はこれからも不定期で続けていきます。
せっかく伊勢に来られたら、ぜひこうしたあまり有名ではないけど歴史のある場所にも訪れていただければと思います。ただし、旧慶光院は非公開で、11月3日のみ有料で一般公開されます。