2024/7/13 ミスドのたまご炒飯
3連休の朝。
すごいが1〜6まである。頬がやわらかい〜耳の触り心地がいい。6つも褒められるのは初めて!
飲み会で酔った上司。やたらしばいたるを連呼。日頃抑圧されたストレスが溜まっているんだろうな。
今週末のテーマは、臨床心理士という仕事と、男性の孤独死について勉強する。
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心理臨床と政治
コロナ禍で、もはや資本主義は経済制度ではなく、社会全体を統治する秩序観であると看破したナンシーフレイザーは、こうした資本主義の在り方を「共喰い資本主義」と名付ける。
資本主義という社会秩序のなかで、利益第一の活動を機能させるためには、非経済的な支えが不可欠である。ーしかも、消費したものを補充したり、損害を回復したりもしない。資本にとってもっとも貴重な労働力を生み出す人を、疲弊させ、苦しめ、息の根を止める。
人は自分より弱い存在を支配することで有力感を得ることがある。丸山眞男が抑圧移譲と名付けたこの残酷な現実を、大きな災害の被災地で、戦争の地で、そして家族において突きつけられることがある。
トラウマ被害がさらなる加害に連なるのは、このような仕組みによるものだ。母娘問題における母の支配は、彼女たちの弱者性や母性信仰によって不可視にされがちだった。家族の聖域化(公私二元論)もそれに加担してきた
信田さよ子
子供の安全やwellbeingにとって明らかに看過できないと判断されるとき、児相は児童福祉の理念に基づき、一時保護という公的権限を発揮する。
「そのとき、権力は硬い腕である。制度の持つ強制力は、叩かれても簡単に砕けないからこそ、暴力に苛まれ、暴力が暴れだす子どもを、抱っこすることができる」
心理療法に対する批判。
・「人の悩みを聞く」という営みを専門家が独占してしまう。
・面接室での心理療法が、閉鎖的で非日常的なつながりでしかない。ドロドロとした生活総体と向き合うわけではない。
・臨床の場で生じている様々な社会的な問題を、個人に回収する作業となってしまっている。
堀智久
米国の国家資格化は、臨床心理学のイデオロギー的パワーと合致して進んだ。
科学者ー実践者モデル。
一方、日本は、カウンセリングモデルのイデオロギー的なパワーが趨勢を占めている。
「国家資格かは権力とつながるもの。弱者である患者への共感を重視するカウンセリングは国家資格を持つべきではない。」よって、国家資格化は冬に時代へ。
1982年日本心理臨床学会の成立。個人心理療法が重視。社会との接点を避ける心理療法モデルのイデオロギー的なパワーに基づいて「心の専門家」として国家資格化を目指す。e.g. 河合隼雄
そこに医学モデルのイデオロギーパワーが待ったをかける。
結局、「臨床心理士及び医療心理士法案要綱骨子」(二資格一法案)を提出したが、医療団体からの反対で頓挫。心理療法モデルによる国家資格化の試みは失敗。
日本の精神医療は、旧式の医学モデルからの脱却が進まず、精神科病床数がダントツに多い。多剤大量投与傾向。
行政と医療団体の要望から、心理色の国家資格化へと繋がり、公認心理士制度が成立した。
下山晴彦
学派概念が力を持っていた一昔前は、『心理療法の交差点』のような、「学派を超えた事例検討会」と言った類の企画がよく催されたものであった。ここでは、クライアントそっちのけで自陣営の正当化と優越性を示し、訓練生を獲得するための時間である。
しかし、どんなに学派を否定しようと、政治から逃れることはできない。学派概念は、臨床における判断の基盤になる。「自分の頭で考える」ことは、「自分の頭だけで考えることではない」
どのように学派を活かせるかを考えなければならない。
>世界中の学者が50年以上も研究をしてきて、いまだに統合失調症もうつ病も、発達障害すらバイオマーカーがないのです。こんなに研究しても見つからないということは、もう無理だと思っています。
精神症状の説明に、主観的な社会的判断が関わるのであれば、本人や家族、そして多様な専門職の各々の主観的な判断を、お互いがその者として聴き追うことが大切ではないか、ということである。
現場における、反・対話の可能性を変えること。
野の医者は笑う
「スピリチュアルの治療と僕が学んできた臨床心理学とは、そこが違うように思ったんです」私は続ける。「たとえば精神分析は悲しいことをしっかり悲しめるように消化することを目指します。だけど、スピリチュアルの人は悲しいことを取り除いて、元気になることを目指しているように思ったんです」
「この世界では、精神医学が言う軽い躁状態を、一番元気な状態だと見ますね。だから、ニュートラルではないんです。軽い躁状態を、よくなる、と言います」
治療とはある文化の価値観を取り入れて、その人が生き方を再構成することなのだ。 だから、臨床心理学と野の医者は親戚だ。
野の医者と臨床心理学は違う道を行っている。目指すべき治癒が違うからだ。臨床心理学と野の医者が呈示する生き方は違う。野の医者が思考によって現実が変わることを目指すのに対して、臨床心理学は現実を現実として受け止め、生きていくことを目指す。
私たち臨床心理士の仕事は、心を病んだ人を復調させる仕事ではない。臨床心理士もまた、病んだ人にある生き方を与える仕事なのだ。私たちもある生き方をいいものと信じていて、そこにクライエントを巻き込んでいくのだ。ならば、その生き方とは一体何なのか。
笑いは楽しくなるためだけにあるわけではない。馬鹿にするためだけにあるものでもないし、現実逃避するためだけのものでもない。苦しい場所で、一瞬自分から離れて、そこに逞しく留まり続けるためにあるのだ。
野の医者というのは資本主義の鬼子なのだ。 思えば、彼らが盛んに唱える「自分が変われば世界が変わる」というニューソートの考えもまた、そもそもアメリカ資本主義が育んだものだった。