疾風怒濤精神分析入門
第1章
・精神に関する治療には、精神医学、臨床心理学、精神分析の3領域がある。
・精神医学は、投薬治療が中心となっている。臨床心理は、患者の治療ではなく、クライエントの援助を目的とする。
・精神分析の目的はそのどちらでもない。精神分析には、神経症者、精神病者、倒錯者、自閉症者の4類しかいない。「健康」という概念はない。人間の生き方として、健康よりも狂気の方が本源的。
・精神分析は、病気を治したり、歪んだ人格を正すということをしない。患者自身が、自らの抱えている悩みや生きづらさを主体的に解決していくことが主軸となる。
第二章 自分を救えるのは自分しかいない
・自由連想→分析の場ではどんなことも言っていい。やってはいけないのは、言うことを選ぶこと。
・精神分析が目指すものは、患者(=分析主体)の特異性。
・精神分析にとっての主体とは、自我の抑圧をはみ出すような無意識の主体。
・例えば、書類を送らないといけないのに送れない、というミスが繰り返されるとする。それは本当は、送りたくないのだ。
→自分でそう思っている自分とは別の<自分>が作用していたことに気づく。
・一般性とは、「世間の人々は、このようにうまくやっているのだ」といういわばあるべき論や常識。
例:「このような欲望は決して世間様には受容されない。なんて酷いことをしてしまうんだろうか?バレてしまったら破滅だ。」
→しかし、実際は特異性を認めることでしか、症状の治癒はない。
第三章 想像界、象徴界、現実界
・想像界…イメージの領域 身体は諸々の機関から得られるイメージを統一する機能
・象徴界…言語の領域 シニフィアンは、他のシニフィアンと連結されることで意味を持つ。例;「猿」「木」「落下」→3つで初めて、達人もたまに失敗するという、という意味を持つ。
我々の世界は、言語で成り立っている。したがって、想像界のイメージも象徴界に統制される。
・現実界…言語を通じて世界認識をする以上は、現実界そのものの取り扱いは不可能である。しかし、ラカンは、象徴的なものを取り扱いながらなんとか現実界を見ようとした。
第四章 私とはひとりの他者である
・言葉のわからない母親の世話がなければ死んでしまう幼児
→人間は何を考えているかわからない異質な存在に生殺与奪の権を握られている。根源的に不穏な生き物。
・「シニフィアンの戯れ」=ダジャレ・言葉遊び 分析の場においては、言語を意味によって使用することを中断し、言語のシニフィアン的性が現れることを目指す。
・意識と無意識の領域との間には自我がある。なんらかの出来事が起き、そこで受け取ったシニフィアンが受け入れ難いものだったとする。すると自我はそのシニフィアンは忘れたことにする。「抑圧」
しかし、抑圧されたシニフィアンは再び意識の領域に浮かび上がってこようとする。自我はそれを防ぐ。だが、シニフィアンは無意識の領域で、こっそりと別の形式に姿を変える。そうすると、意識の領域への侵入を許してしまう。
第六章 不可能なものに賭ければ良いと思ったら大間違いである
・欲望はシニフィアン的に構造化されていて、象徴界の法にしたがっている。
・欲動とは、むしろ言語の<法>をはみ出すような過剰なもの。「享楽」とは、欲動の満足を指す。人間の最終目標とは享楽を得ることである。
・快とは、緊張の度合いを下げること、リラックスすることで得られる。一方で、享楽は、緊張の度合いを高めることによって得られる。
▪️私たちはなぜ死の欲動に突き動かされるのか
・生まれて間もなく、「もの」を体験する。(例:初めての授乳や、初めて乗る車など)その原初体験を経たために、死の欲動に動かされ、享楽を求める。
・反復しても、原初の満足度には及ばない。「もの」の体験は一度きり。子供は、母との出会いにおいて、「他者」という「もの」の原初体験を経る。そして、その享楽をもう一度得たいと思う。しかしそのままでは、子供は母親に与えられることを望むだけの「もの」に落ちぶれてしまう。(=死)享楽は死とほぼ同義。
・父は、逆に、法によって、子供を享楽から遠ざける働きをする。
・「無理なことは無理だ」と思い知ってから生まれる何かに賭けるのが、精神分析。
・我々は、高カロリーのものを食べたり、深酒をすることによって、<プチ死の欲動の満足>のようなものを得ている。ラカンは「対象α」と名付けた。
・欲望の根にあるのは、これを手にすることで、ものの享楽が戻ってくるかもしれない、という「もの」の享楽を取り戻したいという欲望。
・しかし、欲望は、肝心な時に、象徴界による「法」に負け、妥協をして享楽を諦めてしまう。
・享楽は人を生かす。仕事に成功した気持ちよさ、大切な人といる気持ちよさ。享楽こそが人生の意味の支えになる。
しかし、享楽は両義的であって、人生を破壊しもするということ。あまりに過大な気持ちよさを得ると、死に至ってしまう。享楽が破滅的になりすぎないためには、常に「余裕」がなければならない。「まだ最高の気持ちよさにいたっていない」という余地のこと。そうした空白があるからこそ、いろいろな新しいことにチャレンジできる。
①どういった形で自分が享楽を得ていくかということ。
②欲望による変化を生み出すために、どういった余白を持っていくかということ。