西加奈子『サラバ!』を読む~欲望の三角形的解釈~

1人の男性が、苦しみもがき続けながら自分自身の信じるものを見つけていく過程を描いた物語。


子供の時から、癇癪持ちの姉に悩まされ、共感性が高く、内省的な性格となった主人公は、常に周りを気にしながら、そして自分自身の見られ方を考えながら生きてきた。そのような中で、学生時代は狂人の姉と言う存在を煙たがりながら、一定の地位を築いてきた。その間、カイロへの引っ越し、父母の離婚と日本への帰国、姉の新興宗教通い、阪神淡路大震災、父の出家など、目まぐるしく環境は変わっていく。上巻や中巻では、常に自分自身が「クラスの中心人物の親友」という「上の中」のようなポジションで謳歌するのであるが、フリーのライターとして無目的に生きていく中で、ついに下巻では、主人公の思う自分自身の社会におけるポジションも落ちぶれていく。気づけば、彼女にせよ、仕事にせよ、自分自身の才能や容姿に不釣り合いな(と主人公が感じている)人々との生活になる。そして、髪の毛も抜け始め、自信を持っていた容姿にも陰りが見え始めたときに、狂人であり、海外放浪を続けていた姉が夫を連れて帰国する。


主人公は、癇癪持ちの姉、自分の見え方を全くコントロールできない姉と一緒にいるために、常に自分がどう見られるか、親から愛されるかを意識して生きてきており、そうした姉を見下してきた。そんな姉が、つきものが取れたようにすっきりとした顔と、社会性を持ち合わせ、さらには子供の時からあれだけ苦しめた母と仲睦まじく話をしている。その中で、主人公は最も見下していた姉から、「あなたが信じるものを他人に決めさせてはいけない」と諭され、同時に(主人公にとってはレベルが低いと見下している)彼女の浮気も発覚し、自暴自棄になる。最後に、自分自身が少年時代を過ごしたカイロで、かつて親友だったヤコブと出会い、自分自身が素のままで愛されている存在であるということ、そして、自分自身が信じるものを自分が選び取るということを知り、帰国の途につく。本書は、帰国の際に自分自身が苦しみもがき続けながら、信じるものを見つけていく過程として、描かれた主人公の私小説であったことがクライマックスで明かされる。


あらすじはこんなところであるが、本書は三角関係のもつれ(『こころ』的解釈をするならば、ジラールの欲望の三角形)や、信仰とは何なのかということを丁寧に描いているようにも感じられた。


三角関係のもつれは、驚くべきことに、本書では下巻で3つの相似形をもって描かれる。

一つが、父と母の結婚秘話の中で、もともと父がお付き合いしていた母の親友であるK(『こころ』のオマージュ?)という女性と、そこから略奪愛によって結婚に至った母の三角関係。この関係性の構図は、親友から彼氏を奪い、結婚した自分自身の負い目から、「なんとしても幸せにならなくてはならない」という母の生涯の呪いを生み出し、父自身にとっても一生の後悔として生き残る。父母はKの存在を極力考えないで生きていくことで、幸せを手にしようとするが、カイロに届いた末期がんのKからの手紙により、一気に過去のその一点に引き戻される。後悔にさいなまれ、過去を清算するために出家しようとする父と、Kのためにも幸せにならねばならないと未来に執着する母の間で関係はもつれ、最後には離婚に至る。この修行僧のような父と、幸せに執着する母は、過程が明かされていない主人公にとっては極めて歪に見え、その不可解さは主人公の人格形成に大きな影響を与える。


次の三角関係が、主人公の親友である須玖と、大学時代唯一の女性の友人である鴻上、主人公の三角関係である。男女関係に奔放な鴻上は、主人公が所属していた文化系サークルをクラッシュした張本人であり、誰とでも肉体関係を持つ彼女を主人公は軽蔑していたが、最終的にはお互い孤高の存在として、肉体関係を持つことはないが、何度も2人で飲みに行くような関係となる。主人公は、本心では自分自身と同じ「暗部」を持つ鴻上を一番の理解者であると感じ、自分でも無意識に好意を寄せていたのであるが、サークル時代の鴻上の奔放さを前に、そのような感情があることを押し殺して、交友を続けていた。須玖は対照的に、中学時代の優等生であり、主人公を文化的なるものに惹きつけた憧れの親友である。感受性が高い須玖は、阪神淡路大震災以降、不登校になってしまい、主人公の人生から退場してしまうのであるが、紆余曲折の結果、売れないお笑い芸人として主人公と再会する。
奇跡的に、3人が近所に住んでいることが発覚してから、貧しいながらもファミレスで3人で集まる生ぬるい第二の青春を謳歌するのであるが、主人公が実家に帰った際に、その二人が付き合い始めたことを知る。その二人の関係性を知った主人公は、初めて自分が鴻上に明確な好意を持っていたことに気づき、あろうことか、その好意を押し殺していたトラウマ的過去である、学生時代の彼女の奔放さについて、二人を目の前に確実な悪意を持って伝えるが、そんなこと意に介さない須玖の鷹揚とした態度を前に、主人公は立ち上がれなくなるほどの敗北感と脱力感を覚える。


最後に、母、姉、主人公である。一見見過ごされがちであるが、主人公は母と姉の競争関係の中で、常に中間者としてのポジション取りをしてきた。圧倒的な両者の間で、自分の意思と殺して存在していきた彼は、最後までその生き方が癖になってしまう。そんな中で、下巻になってつきものが取れたような安寧に至った姉と、母はついに蜜月の関係となる。中間的なポジションが不要となった三者関係において、主人公はついに自分のアイデンティティを失い、最終的に日本と飛び立つきっかけにもなる。このような構図を考えたとき、国際関係における、アメリカと中国と日本の関係にも近いものを感じる。戦後レジームの強大な創始者であるアメリカによりつつ、問題児の中国を軽蔑することで、東アジアにおける一定のポジションを築いてきた日本にとって、険悪な米中関係は実は簡単にアイデンティティ形成をしやすい構図になっている。そして、日本が最も恐れるシナリオは米中関係の良化である。険悪で、強大な二者間の磁場において、どっちつかずのアイデンティティ形成をしてきた人間にとって、両者の蜜月は、手っ取り早くアイデンティティを失わせる状況となる。こんな形で、母と姉の関係性の良化は、主人公を日本から出させる上で、決定打になったものであるとみなせる。


1つ目の三角関係に、主人公は存在していないが、父母に内在するも、別々に作用するKの呪いは、確実に主人公の分離症的な人格形成に影を落としている。そして、その分離症的な人格に存在意義を与え続けてきた母と姉の関係性と、その良化、そしてここでも生ぬるい中間者の位置取りを与えてくれていた須玖と鴻上の関係と、その交際という、2つ目、3つ目の三角関係の破綻が、ほぼ同時に起きることで、主人公のアイデンティティの足場は完全に崩壊する。


しかし、ここで徹底した人間不信を味わうことにより、「あなたが信じるものを、他人に決めさせてはいけない」という姉の言葉の意味を知ることになる。主人公は、いとも簡単に手に入れてきたアイデンティティの基盤を一度粉々に砕かれたことで、その基盤を自分自身の過去から有機的に積み上げる作業を、ここで初めて行うことを試みるのである。そうして、彼は、これまで緩い呪いであった過去の人間関係のあれこれを、一冊の小説にすることで、自分自身の半生を救い出す過程に入るのである。誰しも、人から裏切られることはつらく、恐ろしい。しかしながら、そのつらさ、恐怖感は、自分自身が生きる意味を積み上げるためのスタート地点なのかもしれない。


蛇足であるが、今レビューを書いている私自身も、バレーボール部に所属している際に、中学の顧問から「君は背が低いから、誰よりも筋トレをしなさい」と言われ、高校に進学した際に、高校の顧問から「君は筋トレをしずぎた結果、身長が伸びなくなったんだね」と言われたことで、一定の人間不信となり、自分が試合にでるための戦略や過程は自分で考えなければいかないと強く思ったことを思い出した。ある意味で、この瞬間は自分自身が精神的に大人の階段を上った時だったのかもしれない。

最後、少々脱線してしまったが、人間関係の機微と、アイデンティティ形成の過程を、三角関係ともとにグロテスクに描く本書は、ぜひとも人にお勧めしたい。

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