抱負がかってに舞い降りる
明けましておめでとうございます。この一年が皆様にとって素敵なものとなりますよう。
年明けて2日、昨年末に行ったオンラインのお能のワークショップのメンバー+αでお能パーティがありました。もちろんオンライン。ロシア、スペイン、イギリス、日本、アメリカなどから参加者がつながりました。
いがらっしにとっては自分の頭が毒されていると知る機会になりました。というのは、「お能」という語を聞いただけで、多少なりともいわゆる「お能」を踏襲しようとしたものが繰り広げられるであろうと想定していたからです。
大間違い。
世界は、自由、 すぎる。
いがらっしははっちゃけ足りない。全然足りん!枠にとらわれすぎている。
大きな魚をかぶって舞う人。
白塗り、白いドレス、電飾で舞う人。この人はバックのクリスマスツリーに同化して、とてもイイ感じでした。
逆に言うと、「日本」の文化の外から「お能」を見る人にとっては、これらの演出が融合できるほど、お能は十分に怪しいものなのでしょう。お能=幽玄などと思うのは金輪際やめます。まあ、幽玄ってのにも妖しさは含まれるはずなので、あながち間違いではないんでしょうが、ザ・幽玄とかザ・伝統とか思った瞬間に日用品に成り下がってしまう。
私がbravoと思ったのは、エレナさんの「羽衣」とナタリアさんが夫のグレゴリーさんの弦楽器演奏に合わせて舞ったもの。
エレナさんのパフォーマンスはいつも通りのスペースで行われましたが、タンスや壁に白い服や布がたくさん吊るしてあり、いつもとは違う空間演出がなされていました。
坊主刈りのエレナさんですが、つばの広い黒い帽子を深くかぶり、赤いドレスを着て、真ん中に置かれた丸い回転椅子に座っている。彼女は結構お能を学んでいる人らしく、リハーサルでは型通りに移動して「羽衣」を舞っていました。でも、今回は始めから終わりまで座位のままで、回りながら舞いました。なんてなんて素敵。
ナタリアさんは扇ではなく流木をもって舞いました。謡ではなく弦楽器の演奏に合わせて。穏やかで、なんとなく、ドルイドだかケルトの儀式をおもわせました。私はそんな儀式を全く知らないのですが、組織化していない宗教というイメージですかね。自然崇拝というか。
これもまた、いつものWSに参加してくるスペースで舞っていましたが、こんなに空間は変わるのか、という驚きをもって見ることができました。
桂勘さんは「これに詩の朗読を合わせたらもっと面白くなるのでは」とコメントしていました。
このパーティ全体として、いがらっしが得た気づきは、いがらっしは身体そのものへの興味が強すぎで他のことが見えていない、普段の練習も身体中心になっている。けれども、いざパフォーマンスする段になったときには、空間演出というものがもしかすると身体以上に重要な要素である。いがらっしはパフォーマンスにおける注意力全体の中での身体に関するものの割合を下げ、身体以外の要素にもっとエネルギーを使う必要がある、ということ。
いうまでもなく、ダンスは空間芸術であり、総合芸術だった。そうだった。思いだしました。いまさら。
よーし。今年の、少なくとも直近数か月の課題が見つかったぞ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?