金がねえ、生きていく術がねえ
やべえ、金がねえ。社会人生活も5年目を終えようとしている年度末、預金残高14,000円。
は!?まじで!?140,000円だとしてもまあまあヤバいのに、14,000円!?!!?!?
12月にほぼ満額ボーナス出たはずなのに、14,000円!?!!?!?(焼豚女は8月から休職をしているのでほぼ満額ボーナスが出るなんてめちゃくちゃありがたいことです)
なんというか、わたしはどうしてもお金を保持していくことができないみたいで、強制的に積み立てに突っ込まれている金以外はあればあるだけ使ってしまう上に、クレカの月ズレ攻撃を未だに読みきれずに毎回真っ正面から食らってしまう。
10月後半頃になるとソワソワし始め、「今カードで買えば引き落としはボーナス後だから実質ボーナスを得たようなもの」という理論で散財を始め、ボーナスが出たら出たで「ボーナスが出たから○○買おう」と自分を甘やかし、引き落としの月ズレでまだまだ余裕のある口座を見てシメシメとウーバーでイーツをしてしまう。ボーナスが絡むと知能が異常に低下するのだ。
更に厄介なことに、わたしは元来何故か太っ腹で羽振りのいい性格。金がないのに何故!?と思うのだが、本当に子どもの頃からそうなのだ。好きな友だちへのプレゼントとか、旅先でのお土産とか、そういうのを選ぶこと自体がたまらなく好きだし、そもそも「せっかく旅行してるんだからケチケチせずに」とか言って見境なく有金全ツッパしてしまう。
そんなわたしが2022年9月ストリップにハマってしまったせいで、推しがいれば可能なかぎり写真を撮ったり(写真代1枚1000円が推しへのお布施になる)、誕生日にはプレゼントをモリモリ渡してしまったり、もう相性が良いんだか悪いんだか、格好の餌食なのである。推しが出る回を観に行ったとして、推し以外の踊り子さんからも素晴らしいパフォーマンスはどんどん繰り出されるわけで、その度に「めちゃくちゃ良かったです!」ということを伝えるためにポラを撮りに行く。感動した気持ちを現金に変換してチップを渡す。そうしなければいけない、曲がりなりにも自分もステージに上がったことがある人間として、エンターテイメントいや芸術としてのストリップに少しでも敬意を示し、力になりたいと思ってしまうのだ。だって、そういう声に励まされて頑張れることを何より自分がよく知っている。だからそうしたいと心の底から思うのだ。自分に金がねえことをすっかり忘れて…
ストリップは何ら悪くない。女性は2000円やら3000円やら特別安い料金で入場でき、丸一日楽しめる。本来であればコスパ最高の芸術空間。しかしである、あの空間、いくらなんでもお金を落とすための条件が整いすぎている。誰にも中抜きされずに推しに直接お布施ができるというのは、ファンとしては最上級の喜び。写真撮影の際にはお喋りもたくさんできる(行列の長さにもよるが)。"""推し事"""として言えばこの上なく楽しく、恐ろしくやり甲斐のある活動なのだ。
まあストリップの話はいいや。今度ちゃんとまとめて書きます。
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わたしの貧困は決してストリップだけのせいではない。分かっているのだ。身の丈に合わない高級な服をオーダーしてしまったこと、金継ぎという習い事を増やしたこと、使いたいと思える化粧品を買って自分が着たいと思える普段着も買い揃えた。髪の毛も緑にしたり赤にしたり、普段の倍高いメニューを頼んだ。食欲がないときは、唯一食欲が向くクレープを何本もウーバーしてイーツした。
とにかく休職してから自分を取り戻すのに必死だった。
入社してからの4年間とちょっと、毎日好きでもない服を着て、好きでもない髪色で好きでもないメイクをした。機能性だけで選んだリュックを背負い満員電車に詰め込まれて、イヤホンで耳を塞いで通勤した。リュックの中には完全栄養食パンのベースブレッドと箱買いしているモンスターエナジー。席に着いて「プシュ」とエナドリの缶を開ける音が周囲に漏れるたびに「また飲んでるの〜?」と色んな人に絡まれた(まあそれはただの面白エピソードだけど)。
そんな限界会社員生活を上書きするように、休職してからは、好きな服や持ち物を買い集めて、鏡を見て自分で勝手にウンザリしないような見た目に整えていった。空腹感はあるのに食欲が湧かない日々が続いたが、昨年末からやっとクレープにモチベーションが向き、ひたすら好きなクレープばかりを食べた。その行為自体は滑稽に思われるかもしれないけど、あのときのわたしにはどうしても必要に思えたし、そうせずにはいられなかった。
今は、海に行ってシーグラスや陶器のカケラ、貝殻、良い感じの石を拾うビーチコーミングに心を奪われている。楽しいとかを通り越して、取り憑かれていると言ってもいい。でもそんな強い気持ちが自分の中に残っていたことに気づけたのも、上記の「自分取り戻し大作戦」の功績の一つだ。
ちなみにヘッダーの写真も大磯の海岸に石拾いに行ったときのもの。エモ。
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冬のボーナスは、わたしを取り戻すために消えたのだ。そう思うようにしている。
新しく始めた習い事は、わたしの生き方まで問うてくる。先生から「今まで何をやっていたの?」と聞かれて、何も答えられなかった。わたしはずっと何かを作りたかったのに、そんなことは無理だとリミッターをかけて、誰でもできる仕事をするために一般企業の一会社員になった。そうするしかないと本気で思っていた。
わたしが作り出すものに価値はなく、それはあくまで"""趣味"""であり続けるべきで、下手の横好きだと苦笑いしながら日陰でこっそりやらなくてはいけないと信じて疑わなかった。それは幼少期に好きなことで褒めてもらえなかったり、ピアノを弾いてるとうるさいと怒られたり、そういうもろもろが堆積してどうしようもない卑屈精神がギュウギュウに固まり、もうわたしの一部になってしまっているということでもある。
多分そのクソみたいな堆積物を発破して自分から取り出すのはむずかしい。どんなに誰かがこれからわたしを褒めてくれたとしても、斜に構えてしか受け取れない。
ただ、昨日、わたしが作った金継ぎの作品を、先生が1000円で買い取ってくれた。わたしが「今口座に14,000円しかなくてwww」という自虐トークをしたことが発端ではあるけれども、わたしが自分の手で作り出した何かに価値がつけられたことには変わりない。
何だか、たったそんなことに驚いてしまった。
先生はわたしの作り出すゴミを「個性的な作品だ」と言ってくれた。わたしは、何の個性もない平凡なものを、練習と割り切って淡々と作ったつもりだったのに、だ。
誰かが「自分が当たり前だと思ってやったことが世間の当たり前とズレていたら、それが才能だ」と言っていた。才能だなんて言葉を自分に適用しようとすると、どうしても卑屈精神がひょっこり出てきて「焼豚女にwww才能とかwww」と嘲笑してくるのだが、一方でたしかに自分の当たり前が世間とズレていることを感じることは多々ある。
それはわたしがADHDだからとかメンタル的に色々と拗らせていて厄介だからとか、そういう部分から来るものだけだと思っていたけれど、それもまた才能だとしたら、それを含めて良いと思ってくれる人がいるとしたら、、、と少し楽観的な妄想も浮かんでくる。ここを信じきれる人が強いんだろうな。
これから何か新しいことをしようとか、それこそ仕事を辞めて手に職をつけてみるとか、今はそんな思い切ったことを考えられない(というか実行するバイタリティがない)のだが、「わたしには何もないから復職しか道がない!ヤバい!早く復職!ああああ!」とパニックになるのは不毛だと思えるようにはなってきたように感じる。
まあそれとは別に、今の会社でやり残したこと…というか今の会社で成し遂げたいこともあるにはあるのだが、それはまた別の話…
休職のタイムリミット自体はまだ先だけど、一旦の診断書の区切りは今月末。金のなさ故に3月復職に目が眩みそうだが、前回の診察ではクスリが増やされる始末。一体どうなっちゃうの〜!?ということで、今後ともみなさんわたしのことを見守っていただけるとうれしいです。
つづく
追記
キットも売ってるけど習ったほうがたのしいよ!