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どうしても勝てなかった曹洞宗居士のライバル

 平成二十二年頃の話である。
 私は二十代の頃、壮絶な仕事人間だった。そのために精神を病んだ。
 病気がひどくなり会社を売却し、働けない状態となったが、世の中というものは面白いもので、捨てる神あれば拾う神ありである。
 その、会社で無茶苦茶頑張ったことは、禅の修行の厳しさに通じるということを今の円覚寺派管長、横田南嶺老師(当時は僧堂師家)に認められたのである。つまり君は禅僧が向いていると。
 そういうわけでだいぶ僧侶にスカウトされた。しかし当時管長であった横田老師の師匠、足立大進老師に、坊主の世界は窮屈でかなわんから、君は出家はせずに仏道を歩みなさいと言われたのである。
 普通は、横田老師、足立老師クラスの人間と、一介の若者が話をするということは、よほどのご縁がなければないことである。その時私は円覚寺の居士林という一般人向けの泊まり込み坐禅道場に通っていたが、たった二ヶ月で「無字の公案」という、修行僧でも三年かかるという初関の禅問答を解いて有頂天になっていた。会社を辞め、精神を病んでいた絶望の淵から一転して我が世の春である。
 そして私は臨済宗だけが本当の仏教だと思っていた。
 曹洞宗の坐禅会にも参加したことがあったが「ただ坐る?禅問答がわからなくて逃げている人の集まりじゃないか?」という、愚かな考えを、若気の至りで持っていたのである。
 出家していない一般人(在家)の修行者を居士と呼ぶ。そんな、調子に乗っていた時、曹洞宗の居士、M氏と出会ったのである。
 彼とは臨済宗や曹洞宗の坐禅会をまわる仲間の一人であった。十才ほど年上だったようだが、彼も仕事でこっぴどくやられたらしい。その彼には、ある点で絶対に勝てなかった。
 それは、彼が必ず背中から私に声をかけてきたことである。私はその時弓道もかじっていたが、武道では相手に背中を取られることは死を意味する。剣禅一如、余程神経を研ぎ澄まして坐禅会に向かっても、どうしても彼の後ろを取ることは出来なかった。
 それは単に彼の修行が私より進んでいたという理由ではなかった。なぜなら彼は「無字の公案」を解いていなかったからである。理由は他にあった。
 答えを言ってしまうと、それは、私が曹洞宗を馬鹿にしていたというのが原因だったのである。私はその時まだ、相手の信仰を尊重する、ということを出来ないでいた。相手の立場と、自分の立場と、同じ目線でものを考えるということが出来ないでいたのだ。それに気づき考えを改めた時から、私は自由自在に彼の背中を取ることが出来るようになっていたのである。
 曹洞宗ではこのような教えを同事(どうじ)という。おなじこと。相手の立場を尊重して、相手を思いやって接するということが曹洞宗の教えだったのである。これに気づいてから私は曹洞宗に対しても臨済宗と同じく敬意を持って接するようになった。そして全ての伝統仏教にも。
 臨済宗という宗教は、個の宗教、個人プレーの宗教だと私は思う。その証拠に、十五もの異なる本山がある。それに比べて曹洞宗は永平寺、総持寺の二つだけが本山なのである。曹洞宗は個よりも、その個々の調和、全体を重んじる教団だと私は理解している。禅で有名な歴史上の和尚は調べると大体臨済宗の僧侶である。曹洞宗では、あまり個性を出すと怒られるのである。
 ただ、個性と似た言葉だが、家風というのはそれぞれの教団が持っている。臨済宗十五派にはそれぞれ家風があるし、永平寺には永平寺の、総持寺には総持寺の家風があると私は感じる。しかしながら禅という立場からすると、この家風でさえも余計なものではないかと私は思ってしまう。無色透明、ただ坐る。これが一番気持ちがいい。そういう坐禅会を提供してくれるお寺は、意外と名もなきちまたの末寺であったりする。
 本当に修行の出来た和尚は一般人と見分けがつかない。そういうところを我々も目標としたいものである。

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