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禅の公案の答え(3)

縁起の悟り

さて、この「縁起の悟り」とは何でしょうか。縁起の悟り、それはお釈迦様が菩提樹の木の下で坐禅をして、八日目の明けの明星を見た時に悟ったというお悟りです。
そのお釈迦様のお悟りを覚悟のある人には誰でも学べるようにしたのが禅宗という宗教です。
今、私の机にはスマホ、パソコン二台、電卓などの電気製品の他、目薬、色えんぴつ立て、ポケットティッシュなどが置いてあります。今挙げたものの中で、自分一人で作れるものがあるでしょうか。ないですね。電気製品はもとより、目薬は調合の仕方がわからないし、色えんぴつはどうやって芯を作ればよいか知らない、ポケットティッシュのような薄い紙をすくことも不可能です。お金を出して買った、と言えばそれまでなのかもしれませんが、その品物にはたくさんのご縁が絡み合って出来上がっているということを忘れてはなりません。それに、いくらお金があったって売り切れでは仕方ないのです。新型コロナウィルス騒動で一時マスクは全く買えなくなりました。問題の本質はお金ではないのです。例えば今、ここに目薬がある奇跡、どれだけのご縁で今この机にあるか。それに思いを馳せれば目薬一滴にでも合掌したくなる気分に私はなります。

この「縁起の悟り」を目指して禅宗では坐禅をするのですが、そこへ至るステップに禅問答(公案)というものがあります。これが1701則あると言われています。師家と呼ばれる禅宗の指導者は、この公案を用いて修行者を悟りへと導いてゆきます。
修行には、出家して専門道場へ入って修行する道と、野にあって在家のまま、生活の中で禅の境涯を高めようとする居士禅の二系統があります。専門道場の良いところは家族に迷惑をかけないところ、選べる修行の場、師匠の選択肢が豊富なことです。一方で居士禅は歩みは遅くなってしまうもののおだやかに指導されるので、専門道場が務まらない人でも境涯を磨けることがメリットと言えるでしょう。
私はお坊さんを志望したこともあったのですが「坐禅道場か相撲部屋か」という過酷な世界を知る和尚から止められ、悔しくもありましたがそれを糧にして居士禅のまま根性で「縁起の悟り」を師家に認めてもらうことが出来ました。

このnoteは約9年間、私が仏教で体験し、学んだことの中から、心のままに書き綴ったエッセイ集です。原始仏教で、粗末な布を縫い合わせて一枚の袈裟(糞掃衣)としたように、原稿は主にFacebookの非公開テキストを切り貼りして一つの文章としての体裁を整えています。
拙い文で恐縮ですが、末永くお付き合いいただければありがたく存じます。

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