【対談】加来耕三&舩井勝仁/先人と暦が教えてくれる温故知新の成功法則
【特集】
いま、一人ひとりの決断が歴史を動かす
先人と暦が教えてくれる
温故知新の成功法則
舩井 今回は、歴史家・作家で、テレビなどでもご活躍の加来耕三先生にお話をうかがいます。私は歴史が好きで、大学の入学祝いに何が欲しいか父に聞かれ、山岡荘八先生の『徳川家康』(講談社、全26巻)をねだったのを覚えています。
加来 そうでしたか。山岡先生は、私の文章の師匠である杉田幸三先生の師匠です。山岡先生の小説は名作揃いですね。私の講演会でも、『徳川家康』は読むべきと経営者の方には勧めています。
舩井 私の家康解釈は山岡先生の作品に多大に影響された自覚があるのですが、大河ドラマ「どうする家康」では、また新たな解釈の家康が描かれていますね。
加来 あれは今の時代の「頼りない平成生まれの若者像」がそのまま反映されている気がします。なんでも「どうする、どうする」と右往左往してなかなか決断ができない。
舩井 加来先生の『家康の天下取り』(つちや書店)も大変おもしろく拝読しました。先生は、家康をどう評価されますか。
加来 信長や秀吉のようなリーダーはどこの国のどの時代でも存在しますが、家康タイプのリーダーは特異です。完璧なリーダーであったわけでは決してなく、長所が10あれば、短所も10ある。どちらに目を向けるか次第です。短所に目を向ければ「島国根性」を作ったのは家康だといえる。
日本人全体の最大公約数というか「平均的な人」を考えると、家康になるのではないかと思っています。
それなりにいいところも悪いところもある中でどうするか考えるべきであって、まったく形のないものから何らかの人物像を作ろうとするのは無理ですね。
私は、歴史は日常生活に活用してこそ意味があると思っています。役に立てられない歴史の知識なんて、学んでも意味がないと思います。
舩井 普通の歴史家の先生方や歴史好きの方たちと加来先生の視点はかなり違いますね。加来先生の作品は、読みやすくともただのフィクションではありません。
加来 いわゆる「ファクション」を書いています。ファクトとフィクションの間ですね。史実関係については嘘は言ってはいないけれど、自分の解釈は加えている。ファクションは、「あり得る世界」の話だととらえて、読んでいただけるといいかと思います。
似たようなことや、誰かの発表の後追いを書いても意味がないので、論文には多少、目を通します。でも人の作品は基本的にはあまり読みません。私は、日本人が日本人である限り読み継がれるであろう、歴史を扱い、全作品が残り得る作家は三人しかいないと思っています。一人は、『大菩薩峠』の中里介山。中里介山の作品には、シャーマニズムを感じます。それは、「嫌だけど日本人だよな」というか、鼻の先に血の臭においがするような「嫌だけどしょうがないな」と思える共感的なものがある。
二人目が、『宮本武蔵』の吉川英治。吉川作品には、歴史学的に見ると間違いというか、明らかなフィクションも多くあります。しかし、それを差し引いてもなお、込められた仏法的な救いが圧倒的だと感じます。
三人目は、大佛次郎です。大佛作品には、ホワイトカラーの思想というか、儒教の思想がある。いろいろな作家がいますが、一番作品の幅が広かった作家は誰かと考えたら、やはり大佛次郎ではないでしょうか。『鞍馬天狗』から始まって、最後は『パリ燃ゆ』ですからね。
もちろん他にも素晴らしい作家の方はたくさんいます。池波正太郎もおもしろいし、司馬遼太郎も文章は抜群にうまいです。マスコミの文章、新聞の書き方なので、読みやすくて説得力がある。ただ、全作品が残り得るかというと、『竜馬がゆく』『坂の上の雲』以下いくつかの作品は読み継がれていくでしょうが、商人ものなどは消えていくと思いますね。
日本人は、不思議なことに、自分たちを武士に重ねて歴史小説を読んでいる人が多い。でも普通に考えたら、ほとんどが農民ですよね。今の世の中で言うなら、一部の国家公務員、地方公務員が武士で、その他のビジネスパーソンは農民の区分です。
ちなみに、好きな歴史小説家を挙げるなら、私は藤沢周平ファンですし、中学生の頃、心底感動して読んだのは富田常雄の『姿三四郎』でした。
歴史は小説に作られた?
舩井 日本の歴史は小説家の先生方が語ることによってつくられてきた側面は大いにあると思います。一番典型的なのは、宮本武蔵伝説ではないでしょうか。巌流島の戦いは完全にフィクションなのだそうですね。
加来 おっしゃる通りです。宮本武蔵は剣術使いなので日本の歴史形成に関係したわけではないのですが、今や歴史上の大人物のような扱いです。
吉川版『宮本武蔵』がさらに特殊なのは、2度ベストセラーになっていることです。普通、本というのはそれぞれの時代背景があって成立するものですから、1回しかベストセラーにはなりません。ところが、『宮本武蔵』は戦中と戦後、それぞれの時代に合わせて大幅に書き直されているのです。
舩井 どんなところが修正されたのですか。
加来 例えば戦中版は、「天皇の御為に」と書かれていた部分が、戦後版では「村の名誉のために」に変更されている。著者はそもそも大日本帝国の報道記者をしていたので、読者をおだてるのはお手の物でした。
舩井 でも小説はつい楽しく読んでしまいます。私もご多分に漏れず司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は大好きで、あの作品を通じて幕末に興味を持ったといってもいいくらいでしたが、加来先生が「坂本龍馬伝説がいかに嘘か」をご著書やYouTube などで伝えておられるのを見て、驚いた方も多いかもしれません。
加来 司馬さんも「竜馬」と「龍馬」を分け、フィクションとして描いたとされてはいますが、物語の面白さに引っ張られて、小説が史実であると思い込んでしまっている人が多いのが問題です。
司馬さんが30代の頃、私の父を取材に来られたことがあります。「難波村の仇討」という短編を書かれました。
取材された立場、歴史を学んできた立場、はるか後輩の物書きとして——この三つの立場から見ても、やはり功罪相半ばと言わざるを得ません。司馬遼太郎作品は、歴史に興味を抱かせるという「入口」としては申し分ないのですが、読者はそこで完結してしまう。
作り話を読んで歴史を学んだ気になって「おもしろかったね」では、何の意味もありません。「小説家」の枠に収まっていればよかったのですが、自分は小説家だと言いながら、司馬さんは歴史学の話をよくしていたために、「司馬史観」などと呼ばれるまでに至ってしまった。これは罪深いですね。
まともなビジネスパーソンなら、司馬史観が何かおかしいということは気づくわけです。ただ、夢から覚めたくないという人たちがいるのも現実問題としてある。小説は小説として楽しむ分には問題はないのですが、それによって実際の人物の、本来評価されるべき部分が評価されなくなってしまうのも問題です。史実の坂本龍馬は何をしたかではなく、何をしようとしていたのか、彼が持っていた可能性と未来こそが重要であったと私は考えています。
舩井 加来先生は、龍馬については、薩長同盟や「船中八策」に関して、実際はこれまで言われてきたような功はない、とされています。でも、その場に龍馬がいたからこそいろいろなことが動いた、というのは認めておられるのですね。
加来 はい。歴史学の良くない面は、結果論で物事を見ることです。例えば「坂本龍馬は薩長同盟の立役者であった」「坂本龍馬のおかげで大政奉還が成った」、こんな結果として語られてしまえば「全部嘘じゃないか」と判断されて、高等学校の日本史の教科書から消える事態になってしまいました(龍馬ファンの陳情で残りましたが)。そうではなく、龍馬という人が一体何をしようとしたのかを見ることが重要です。その面で、彼は非常に孤独で、誰からも理解されない人物であったと思います。だからこそ、誰に殺されてもおかしくないくらいに、彼を暗殺したとされる黒幕の候補が大勢いるわけです。
司馬史観にせよ吉川版『宮本武蔵』にせよ、物語のおもしろさにはまりこみすぎてしまうと、歴史本来の魅力が見えてこなくなってしまいます。読者は、登場人物がおもしろい、魅力的だ、というところで思考が止まってしまい、歴史から学ぶところまでいかない。それが問題なのです。
舩井 歴史はただ出来事を知るだけでなく、生き方に活用していかなければ意味がないのですね。近著『教養としての歴史学入門』は、歴史に「IF」はないが、もしあったとしたら、というテーマです。
加来 歴史の世界ではIFは未練学派と呼ばれます。「もしも~」は未練だというわけです。私はそれは違うと思います。新説の発見だって、最初は仮説から入るのですから。
お読みいただきありがとうございました!
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加来耕三 著
『教養としての歴史学入門』
なぜ歴史はくり返すのか?
第1章 仮説で読み解く日本史
第2章 比較することで現れる本質
第3章 歪められた結果
第4章 歴史はくり返すのか
第5章 歴史を動かしたのは誰か