『ザ・フナイ』通巻200号記念大特集 / 舩井幸雄の心を受け継ぎ、百年企業を育てる
2007年に創刊した月刊『ザ・フナイ』は、2024年5月1日発売の6月号で通巻200号になりました。
読者の皆さま、いつも『ザ・フナイ』を
ご愛読いただきありがとうございます!
月刊『ザ・フナイ』vol.200(2024年6月号)では創刊主幹の舩井幸雄氏を大特集!この記事では佐藤芳直氏と舩井勝仁氏による巻頭対談と、副島隆彦氏による記事の内容を抜粋して公開いたします。
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舩井幸雄の心を受け継ぎ、
百年企業を育てる
舩井 私は親不孝なのかもしれませんが、あまり父のことを振り返ったりしないのですが、今回は『ザ・フナイ』200号ということで、さすがに考えないわけにはいかなくなってきました。
この節目に、巻頭対談をお願いするなら佐藤芳直社長しかいないと思っていました。息子である私から見ても、舩井幸雄の精神を一番受け継いでくださっているのは佐藤社長であり、S・Y ワークスさんだと感じています。
船井総研(株式会社船井総合研究所、以下船井総研)は、決して悪い意味ではなく、舩井幸雄がいたころとは似て非なる会社になったと思っています。大変お忙しい中、時間を取っていただきありがとうございます。
佐藤 わざわざ仙台まで来ていただいて光栄です。船井総研は確かに私や勝仁さんがいたころとはもうずいぶん変わりましたが、時代に合わせて変化していけることも大切ですからね。
舩井 S・Yワークスさんのセミナーに行かせていただくと、かつての船井総研の昔からのお客さんがずっといらっしゃることに驚かされます。お客様を大事にして、ずっと関係を築き続けてこられたからこそですよね。そんな佐藤社長の思想や、舩井幸雄との思い出などを今回は改めて聞かせていただければと思っています。佐藤社長と舩井幸雄の出会いがどんなものだったか今一度教えていただけますか。
佐藤 初めてお会いしたのは、1980年11月17日のことでした。当時からあらゆる予定を手帳に書き込む癖があったので、よく覚えています。
大学生だった私は、本当は簿記学校の講師になる予定で、大学の就職部へ就職表を提出しにいきました。その日はたまたまひどく混んでいて、行列に並ぶのが嫌いなので帰ろうとしたのですが、そこに就職していたサークルの先輩が「今俺のところの窓口を開けてやるからちょっと待ってて」と優遇してくれた。なので先輩を待つ間、当時は壁にたくさん貼ってあった求人票を眺めていたんです。細かいところを見るのは途中で飽きたので、賞与のところだけを流し見していました。
そうしたら求人票の中に「賞与8カ月」と書いてあるものがあった。ずいぶん景気のいい会社だなと思ってよくよく読んだら、経営コンサルタントの会社と書いてある。当時はコンサルタントなんて、三大詐欺職種の一つなんて言われていたのでこれは危ないと思った(笑)。しかも所在地が大阪です。東北人の私から見たら、怖い会社という感じでした。
そうこうするうち先輩がやってきて何を見ているのか聞かれたので「この日本マーケティングセンターってどんな会社なんですか」と訊ねたら、中堅のコンサルタント会社だと教えてくれた。私はまったくコンサルタント業界のことを知らなかったので「このセンイユキオさんってのは有名なんですか」と聞いたら「お前ね、勉強してないのは知ってるけどこれはフナイユキオと読むんだよ。有名な人で、生協に本も売ってるよ」と教えてくれました。
そんな話をしながら、就職表を提出して就職部をあとにしたものの、どうにも「賞与8カ月」が気になってしまって(笑)。私は数字を覚えるのが得意で、記載されていた電話番号を暗記していたので、部屋の外に置いてあった公衆電話でさっそく日本マーケティングセンターへ電話してみたんです。そうしたら、当時の舩井先生の秘書の方が出られた。「残念だけど、うちはもう採用試験は終わっちゃったの。でもよかったら遊びに来ない?」と誘ってくれました。
じゃあ、と訪れたのが、11月17日16時でした。オフィスに行くと、その秘書の方が出てきてくれて「あなた運がいいわね、今日は舩井幸雄がいるのよ。会って行きなさい」と言われ、舩井幸雄先生とはじめてお会いしたのです。夕方で、西側に窓がある部屋だったので西日が反射して先生の頭を綺麗に染めていて、私の先生に対する第一印象は「綺麗な頭だなあ」でした(笑)。
舩井 神々しく見えたのでしょうか(笑)。
佐藤 今思えば、11月なんていろいろな締め切りが忙しい頃でしょう。そのときの先生も何か書き物をされていました。座るよう促されてしばらくすると、第一声で「君、何のために働くの?」と聞かれました。何のために働くか考えたことがなかったので、ちょっと考え込んでしまいました。
賞与8カ月が魅力的で電話してしまいましたというのも間抜けだし、父親の会計事務所を継ぐ勉強のためと言おうか、とかいろいろ考えたのですが、これといっていい答えが浮かばなかった。私は今もその気がありますが、わからないことはニコニコして黙るタイプだったので、そのときも結局黙っていたのです。
そうしたら先生が「人間に生まれたからには、皆役割を持って生まれてくるんだ。働くというのはその役割を果たすことだよ。覚えておきなさい」とおっしゃった。私はオウム返しに「じゃあ私みたいな人間も役割を持って生まれてきたんですか」と質問しました。「そうだよ。でもそれは、働くことによってしか果たせないんだ」と言われて、感動したのです。当時の私は非常に純粋無垢な青年でしたから、自分にも役割があるということが衝撃だった。
舩井 学生時代の佐藤社長は純粋無垢だったのですね(笑)。
佐藤 ええ、今と変わらず(笑)。それで舩井先生に「一生懸命働くと、自分の役割が見つかるまでの時間も短くて済む。3倍働けば、他の人の3分の1の時間で役割にぶつかるし、4倍働けば4分の1の時間でぶつかる。自分の役割が見つかったら、素敵な人生だろ」と言われて、それは確かに素敵な人生だ! と打ち震えるように感動して、その晩のうちに簿記学校には断りの電話を入れました。
舩井 採用されたわけではないのに、既に就職が決まっていた簿記学校を断られたのですか。
佐藤 そうなんです。翌々日に改めて面接をしてもらえることになっていました。そのときの質問で「君は動的貸借対照表は知っているかね」と聞かれたので「シュマーレンバッハの動的貸借対照表ですね」と答えたらすごく驚かれた。きっと、ちょっと厳しいところを見せてやろうとしての質問だったのでしょうが、私が答えられてしまった。そうして無事採用になりました。
舩井 当時の日本マーケティングセンターでそんなことをわかっていた人は本当に一握りだったと思います。創業が1970年で、10年目の節目にそうして佐藤社長が入社された。ちょっとした気まぐれで訪問した1日が、佐藤社長の運命を大きく変えたのですね。でも、結果論かもしれませんが、コンサルタントは佐藤社長の天職でしたね。
佐藤 天職かはわかりませんが、日本マーケティングセンターでの仕事はすごく楽しかったです。1年目には13日連続徹夜をしたこともありました(笑)。
舩井 当時、コンサルタントは調査業務がとても重要でした。要は競合店に行って、販売価格などを調べてくるのです。佐藤社長の逸話はいろいろあるのですが、この調査の新しい手法を編み出されたのですよね。
佐藤 コンサルタント会社に就職して最初の仕事は調査がほとんどでした。例えば、とある百貨店に分館をつくって、家電専門店にすると決まったときのことはよく覚えています。私と先輩たちの3人での調査だったのですが、「佐藤は新人なんだから1人でやってこい」という。でも調査する家電量販店は4階建てで、だいたい4000アイテムくらいありました。2日以上かけると怪しまれて捕まりますから、時間勝負です。
1階だけは先輩方にお願いして、2階から4階を調べました。でも、とても間に合わないと思って、作戦を考えました。まずカタログを端から全部貰い、品番をあらかた覚えてしまう。最初のアルファベットを覚えておけば色違いなどはあとから調べればわかりますから、例えばラジカセなら「TKZのツースピーカーで、ウーハー付きで、真ん中は何色」のように、全部テープレコーダーに吹き込みました。
そうしたら1日で全部終わってしまった。適当なことを言っているのじゃないかと先輩に疑われたのですが、吹き込んだものを文字に起こして提出したら全部合っていて驚かれました。品番を覚えてから調査する形式にしたことで、時間は三分の一に縮まりました。
舩井 過酷とも思える調査業務をすることに疑問などは感じませんでしたか?
佐藤 舩井幸雄先生の「量・数・幅で包み込み」の考え方にすごく感銘を受けていたのです。入社して間もない頃の会議で、舩井幸雄先生が「包み込んだらええだけや」とおっしゃいました。隣に座っていた先輩に「包み込みってなんですか」と聞いたら、「それはな、競合相手が持っているものは全部持つ、それに加えて相手が持っていないものも持つってこと。そうしたら絶対勝てるだろ」と教えてくれた。
それはそうだと納得したのです。相手を包み込むのが基本戦略だと思ったので、まったく疑問は持ちませんでしたね。それにいろいろな商品を見て回るのも楽しくて、毎日ワクワク仕事をしていました。
舩井 粗利ミックス(利益率の高い商品と低い商品が存在する場合に、トータルで利益を確保しようとすること。粗利率の低い目玉商品で集客をする手法)などを体系化したのも、とにかく激しい安売り競争を主導したのも、日本マーケティングセンターが業界初でした。SPU(セールスパワーアップ)の調査の手法を世界で最初に編み出されたのも佐藤社長ですよね。デパートが家電量販店になったり、小売店がコンビニになったりといった時代の変わり目に、新しいノウハウをどんどん提唱されました。
当時の上司は、コンサルタントの寿命は15 年とよく言っていました。皆15年で燃え尽きてしまう。実際、辞めてしまった方もたくさん見ました。でも、ここまで続け、世界に通用する超一流になられた佐藤社長は、うちの父が目指していた姿そのものなのではないかと思っています。父は超一流にこだわりがあり、一流を知ることが成功への近道だというのが持論でした。
佐藤 一流だけ知っていれば良いとよく言われましたね。二流や三流を経験する必要はないと。その通りだと思いました。どうせ経験するなら一番いいものや、いいところ。それが難しいとしても、それなりに一流の香りがするものを選ぶ大切さを教えていただきました。
◇共感性の時代に重要なのは「文化」
◇AI時代にも必要とされるコンサルタントの条件
◇百年企業を目指して
◇日本存続のために必要な神話への回帰 へ続く
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舩井幸雄先生は「スピリチュアルにあまり向かわない方がいい」と言った
今月号は、本誌200号を記念して舩井幸雄先生について語る特集である、と編集部から言われた。それで私も、舩井先生とのあれこれの思い出を書くことに決めた。だが、それよりももっと私は、緊急で書かなければいけないことがある。
それは、舩井先生がお亡なくなりになる13日前(2014年1月6日)に書いた文章である。そこには舩井先生自身の言葉で次のように書かれていた。この文章を読んだ人たちの間で当時、話題になった。それは次のとおりである
舩井先生は、このように書いた。それで舩井先生の周りにいた人たちの間で議論になった。「舩井先生は、私たちにずっとスピリチュアルを教えてくださったのに。先生はあまりスピリチュアルの方に行ってはいけない、と言う。これが私には理解できない。何故、舩井先生は、私たちがスピリチュアルに夢中になることを批判するのだろうか」と。
私は、この時、「そうか舩井幸雄先生は、自分の思想と所謂スピリチュアリズムは異なるのだ、ということを私たちにはっきりと教えたのだ」と分かった。先生は前記の言葉を死の13日前に書いてお亡くなりになった。だからこの一文は舩井幸雄の遺言のように私には思えた。
舩井幸雄が逝去してあれから早いもので丁度10年が経ったのである。この10年間に、私自身は舩井幸雄から何を学んで来たか。このことを考え直すことが多い。舩井幸雄の霊魂(スピリット、ガイスト)が、深夜の私の前に現れることがよくあった。だいたい真夜中の3時か4時くらいである。私はその時、目が醒めて、ふと舩井幸雄の姿が私の枕元近くに現れることに気づく。
そのとき舩井幸雄がどのようなことを私に語りかけたか、については今日は書かない。私が今、解き明かしたいのは、何故、舩井幸雄が「スピリチュアルの方にあんまり向かわない方がいい」と書いたのか、だ。日本でずっとスピリチュアリズム Spiritualism の大家だと思われていた舩井幸雄が、欧米が発祥のスピリチュアリズムと自分の思想をどのように分けて考えていたのか、である。
舩井幸雄の周りに多く集まっていたスピリチュアリスト(Spiritualists 霊魂重視主義者)たちを舩井幸雄本人は、本当はどのような眼でずっと見ていたのか、という問題である。この問題はかなり奥が深い。だから私はここで急いで急に答え(解)を出すことをしない。もっともっとその前に考えなければいけないことがたくさん有るからだ。
ちなみに、私はスピリチュアリズムを、以後、霊魂重視主義と訳すべきだと思う。△精神世界(主義)も、△自己啓発(主義)も、どうも訳語としてよくない。スピリチュアリズムはやはり、私が決断して命名した霊魂重視主義がよい。
舩井先生が亡くなってから、私はずっとスピリチュアリズムとは何なのかについて考え続けた。そして、私としては初めての、スピリチュアリズムについての本を一冊書き上げて出版した。それは『自分だけを信じて生きる——スピリチュアリズムの元祖エマーソンに学ぶ』(幻冬舎 2024年1月刊)である。
そしてこの本の帯に「スピリチュアルは宗教ではない」と、編集部に頼んで打ち込んでもらった。スピリチュアル spiritual と宗教 religionは異なるのである。互いに違うのである。全く違うのである。ところがスピリチュア(リズム)のことを宗教の一種だと考えている人たちがいる。
あるいは、その区別が曖昧な人たちがいる。どちらも超自然の世界を信じることにおいて似ているので、それで混同している人たちがいる。この他にスピリチュアルも宗教もどちらも嫌いだ、と敬遠する人たちもいる。
みんな人それぞれで、考えていることは違うのだから、何をどう言おうが、その人の勝手だ。私は自分の考え(思想)を人に押し付けることをしたくない。だからこのあとも私が書くことは、私ひとりの考えに過ぎない。
だがそれでも、文章を書いて人に読んでもらう以上、どうしても書いている人はある程度、自分の考えを読み手に押し付けようとする。相手の理解を促す。
人間ができることは、自分の考えを相手に話して、あるいは書いて、それで相手を説得することだ。人は人(他者、相手)に対して、説得( persuade パースウエイド)することしかできない。
我慢強く、優しく、時に力を込めて強く説得する。そしてやっぱり説得することしかできないのだ。自分の考えを押し付けたら相手は嫌がる。このことの永遠の繰り返しだ。そしてそれでも我慢強く、説得(パースウエイド)することしかできない。
この徹底した、諦めの気持ち(諦観と言う。本当は、諦めとは明らかにする、ということだ)に立って、私は、この『自分だけを信じて生きる』を書いた。
この本の内容がどのようなものか、について、ここであれこれ長く説明することはできない。この本に興味を持った人に買ってもらって、本当に読んでもらうしかない。しかし今時、本当に一冊の本をわざわざ買って読んでもらうのは大変なことだ。もうほとんどの人は本を買って読むという習慣を無くしてしまった。
それよりもスマホで、手っ取り早く、身近の情報を、自分の気になることを中心にして、さっさと検索( retrieve レトリーヴ。元々は猟犬が銃で撃たれた獲物を口にくわえて戻って来ること、という意味)して手に入れればいい。
本なんか読まなくてもLINE とTwitter( X )とInstagram(Meta)と、YahooのニューズサイトとYouTubeでほとんどは済んでしまう。ゲームの世界に行ってしまう人々のことは、私は分からない。
だからいちいち本を買って読む人はどんどんいなくなって、今や奇特な人になっている。これが今の世の中の事実だ。それでも、私はこうして、読み手を説得しようとしてこの文章を書いている。
そして私は、今回は、何故、舩井幸雄が「あんまりスピリチュアルの方に行かん方がいい」と書いたのかの謎に迫るために、私が書いた前述の本の中から舩井先生について言及した箇所をここに載せて皆さんに読んでいただく。そして私なりの、私が到達した「スピリチュアリズムとは何か」への今、現在の時点での回答とする。
◇スピリチュアリズムの本髄と仏陀の名言
◇「犀の角のようにただ独り歩め」のすごさ
◇スピリチュアルが世界に広まるのは当然だ
◇スピリチュアリズムとは何か へ続く
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