【千葉の歴史】 フィクション
書庫に閉じこもり文献を読み漁っている。不思議なものです。現在を生きるあなたとはなかなか距離を近づけることができないのに、書物の中にいる過去の人の意思にはこんなに密に近づくとができる。
一冊の重要な書物に出会いました。記録によると寛永11年の話のようです。とても難解なものでしたのでわたしなりに短くまとめたものをここに残したいと思います。
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記録によるとコーヘイはピーナッツを栽培してそれを売り歩くことで生計をたてていた。食べていく分に困らない程度のお金を得ることができたしこのまま毎年ピーナッツを育てながら暮らすのもいいものだと思っていたが、近くの水田を譲り受けた時に新しい作物を植えることにしたのは彼の人生の大きな転機となった。
最初は米を植えるつもりでいたのだが親類の家で振舞われた自家栽培の手羽の味に感銘を受けた彼はそのまま頼み込んで手羽の栽培方法を学ばせてもらい、その足でさっそく苗を購入し水田に植えたのだ。春と秋に2度植えることができる品種を買い、年に二度出荷することにした。
千葉の気候に合ったのか手羽はあまり手をかけなくてもよく育った。ピーナッツ畑があくまで主だったのでこれはとても助かった。初めての収穫は初々しい体験でしっかりと熟れた手羽を選別し籠に入れていく作業はとても楽しかった。
その味はというと、自分で育てたからかみずみずしく旨味の強い良い手羽であるような気がした。脂ののりも申し分なく、これは売れると確信させるものであった。
藤の籠にたっぷりの手羽を詰めて京成船橋駅へと向かう。いつもピーナッツを売らせてもらっている駅前のスペースに台を拵えザルに新鮮な手羽を盛り込み売る準備ができた。
「手羽はいかがですか!甘くて新鮮、手羽はいかがですか!」
立ち止まるものはいなく、いささか地味な手羽の造形はあまり目を惹くものではないと実感した。
試しに手羽を実食させてはどうか。そう思いたち手羽を切り分けると実にぎっしりと詰まっていた果汁が甘い芳香を広げながら流れた。これはおいしそうだ、そう言いながら背広姿の一人の紳士がそれを試食した。懐かしい、昔祖母の家で食べたあの味だ。紳士は手を叩きたいそう喜びながら手羽を二盛り買っていった。
それを皮切りに足を止めるものが増え、手羽は飛ぶ様に売れた。初日からなんと完売したのだ。評判は1日で広まり口コミをあてに翌日もよく売れた。幸い手羽は毎日うんざりするぐらい収穫できたのでコーヘイは毎日京成船橋駅前でたくさんの手羽を売り、いつのまにか有名になっていった。
ある日千葉の大臣より声がかかった。手羽をもっと栽培して千葉の名産としたいので力を貸してくれぬか、と。コーヘイはさらに多くの土地を得て手羽を植えた。人手が足りなくなったので男を一人雇った。名を千羽(センバ)といった。寡黙であるがよく働いてくれた。
千葉の大臣から命じられた生産量は2年でクリアした。名産品としての知名度もついてきてさらに土地を得た。人も雇い順調に耕作面積を増やしていった。80ヘクタールを超えたところでその半分の責任者を千羽とした。千羽はよく働き品質の改善にも大きく貢献した。千羽の開発した手羽は実がずっしりとして甘みも多かった。揚げると身厚でジューシーと評判となりこれもまたよく売れた。手羽の加工品として醤油も作った。この醤油作りに適した品種は後に醤油の実と呼ばれるようにもなる。
鰻登りのビジネスと裏腹にコーヘイは引退する時期を考えるようになった。金銭的に問題はなさそうだし手羽の収穫は重労働だったので自分は一線退き若い者たちに任せてみるのもいいものだ、そう思い立ち世話になった千葉の大臣にその旨を告げた。その頃千葉には手羽のテーマパーク(のちに改装して某有名テーマパークとなった)もできて千葉=手羽というイメージが固まりつつあった。ひとえにコーヘイの手羽への情熱の賜物であると判断した千葉の大臣は県名を千葉県から手羽県に変えることを決めた。
後に千羽はこの手羽県の名産である手羽を全国に広めた。千葉が手羽になり千羽が県名を千葉に戻した。
とある。
歴史を学ぶことでますます手羽に愛着がわいたことをここに記して筆を置くことにする。
【おしまい】