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「推し」という言葉のコレジャナイ感について考える

はじめましての方ははじめまして。そうでない方もはじめまして。
隙あらばツイートして思考の砂鉄をばら撒くのは一体、誰でしょう。
そう。私です。

今回は昨今輪にかけて聞くようになった「推し」という言葉の持つ違和感。というか、使用される時に感じるなんとももやもやした気持ちについて考えようと思います。日記です。
ちょっとセンシティブな話もするかもしれません。
※他の思想や行動、団体を否定するものではありません。※

はじめに

最近の僕の趣味は音楽、声優、読書、メイドカフェ、ゲーム、サウナ、ドライブ等々ただの一般男性になっています。
中でもメイドカフェや声優の分野ではファンやお客さん、メイドさんからも「推しのメイドさん(アイドル)って居ますか?今、誰を推しています?」と言った会話が生じます。
訊かれるのが嫌なわけではないのですが、「推し」という言葉の手軽さや、思ったより言葉の効力が強くないか?と思っています。

例えば、あるメイドカフェではAさんが好きとして、その人が「Aさん推し」です!というと、最も強く関心があるのはAさんになり、他のメイドさんには相対的に関心が薄いと思われる。こういったところに手軽な言葉の割に、言葉の効力が高いと感じています。
言葉の軽さ以上に、人となりを決定する要素が多分に含まれているのではないか。それを訊くことによってレッテルを張ることにならないか。と思っています。(言葉としては便利だし共通項を探るために使うけど)

「推し」とはなんぞや

推しという言葉はどこから来たのでしょうか。
意味をそのままとると『ほかの人に薦めること。人に薦めたいと思うほど気に入っている人・物』を指します。
モーニング娘やAKB48が流行りだした時代。遡ること1980年代には既にアイドルオタクの間では使用されていた俗語のようです。
〇〇活という言葉が就活、朝活等広がっていき「推し」においても「推し活」という言葉も生まれました。

アイドル業界では握手会や特典会等、アーティストとオタク(消費者)の距離も近く会話が出来ることもあり、話題を共有する上で便利な「推し」という言葉は、アーティストとオタクの相互理解でその人が(好き=推し)という具合に、それを他に薦める行為は推し活と名前を得て、広く利用されるようになったという背景があります。
ぼくとしては、好きという言葉が推しに置き換わっているように感じます。

その後はAKB48を筆頭に選抜総選挙という仕組みが生まれ、消費者行動がアーティストの活動方針に大きく作用することとなります。

当然ながら、選挙という方式をとる以上は実力があるアーティストであっても、人気のあるアーティストには勝てません。実際にそうだったのかは知りませんし、実力のあるアーティストが人気もあったのかもしれません。
(この辺当事者じゃないので知ってる人は教えてほしい)
一方で、他のアーティストを圧倒するほどの消費活動をオタク個人で行えたら、オタクが選挙の結果に作用し、そのオタクが思う選挙結果を得られる。ということになります。選挙権を一人で過半数以上持っていれば、個人の意のままに結果は操れるだろう。ということです。

前述したことは極論ですが、少なくともこの時から、オタクが運営方針に参画できるようになり「誰を推すか」はオタクにとっても大きな意味合いを持つようになっていきます。

思うに、ここで推し活と推しという、好きなものを応援する/それが好きである。という単純な意味合いから離れていったのではないかと感じます。
「推し」を応援する上で他者に薦めるという行為が、推しの活動への影響が大きくなり、従ってアーティストに対して「推し活」をしているファン人口が重要視されていったのではないかと思います。
そこから「推し」という言葉の意味が重く感じているのかもしれない。
好きにファンとして応援したいのに「推し」という言葉には金銭的な重みや他者との同一性(貴方もAさん推しならAさんに消費行動をとるよねという共通認識)が含まれる。
好き。とはまた違う意味合いがあるように思います。

余談:同担拒否について
ここまで書いてくるとじゃあアーティストにとって「推し活」をしている人は多ければ多いほど良いじゃないか。と僕は思ったのですが、世の中には「同担拒否」という言葉があるそうです。これは同じアーティストに「推し活」をしているファンを否認する考えで、より対象と個人を重視している考えのようです。どちらかというと、アーティストが成長してほしいのではなく、自分のモノにしたい。という感情から来ているらしい。
そこまで疑似恋愛ではなく本気で好きになれるというのは、素敵なことだと思う反面、周りにいる人より空の上を見ている危うさを感じたりもする。
余談なのでふわっとしています。

違和感の源泉について

最近散見される「〇〇推し」というアカウント名や、それを自称する人たち。僕もなのですが、それを見ているとどうにも「推し」への愛や好き。よりもそれを「推す」という行為をしている自分が主軸になっているように思います。
推すという消費行動を通してアイデンティティを見出すことや自己陶酔していないか?という疑問です。
応援するという行動は本来アーティストに向くべきですが、いつの間にか行動による返報性を求めているのではないか。
例えば、〇〇円かけてアーティストグッズを集めただとか、多額なアーティストグッズをコンプリートしたとか。そういうことは現代のオタクにとっては一目置かれる。実績……?というのが適切な言葉か分からないですが、そういう側面を持っていると思います。

ここまでくると「推しを推している自分」に自己陶酔することにならないか?と思います。それはそれで個人の自由であるのですが、なんとなく「推し」を消費しているようで何とも言えない淋しさがある。
自分で購入し積み立てたCDや、それによって増えた売上や数字を気にするよりも、自分がそのアーティストを好きという気持ちを大事にしたいのに「推し」という言葉はそれを阻害しているように思うのです。

最近では、公式が「推し活」を推奨することやアーティストが「推し」という言葉を使うこともあるが、本来「推す」という行為はファンがアーティストに向けて行う自発的なことであるのに、それを公式に推奨されるのはなんだかもやもやする。自分がアーティストを好きだという気持ちは自分から生まれるのであって、他者から規定されて好きになるのは違うし「推してね」って言われるとちょっと足が遠のくと思う。
では、何を言われると嬉しいのか。多分これは「応援してくれてありがとう」これだけではないだろうか。

推し疲れという言葉もあります。
「推す」事は他者から期待され、当人もその期待に応えようとする。そしてそれに応えられない時に推し疲れが生じるのだろうと思う。
自己表現の一環として「推し活」をする中で、CDを集める。イベントに参加する。これらは当然の行いになっていき、それが何らかの理由で達成出来ない時、参加しているファンと自分を比較して相対的に「推し」に対して甘い。という考えになるのだろう。それが重なっていき自分の思う「推し活」と自身の現状が合わなくなっていき、疲れるのではないだろうか。
アーティストが好きで応援したいという気持ちから「推し」という言葉を用いて、その応援活動に疲れるというは、なんともやるせない話。
思うに「好き」の代替として登場した「推し」という言葉は「好き」以上に多くの意味、指示性を孕んでおり、厄介にも個人によって「推し」の定義は異なる。そこで自分の当てはめる「推し」の定義に自分が当てはまらない時に推し疲れを自覚するのだと思う。

推しという言葉について-私の考え-

いつしかこれだけ多くの意味を持ち、アイドル業界を超え、文脈や背景を知らずに使う人が多くなった「推し」この言葉を無意識に消費することは僕にとっては人によって取られる意味が異なり、その差異が激しいから使用を控えたいと思うのです。

与太話をすると、僕は小倉唯さんが好きですが、ここでいう好きは音楽性・パフォーマンス・ストイックさ。つまるところは人間性に惹かれている。
精神性が好きであるのに「推し」という言葉を使うと彼女の全てを好きであることが求められるように感じるのです。
全てを好きというのは、生涯を誓い合った相手ですら不可能なのに、それを求められる。推しているとはいえ、好きな面もあれば嫌いな面もある。
しかしながら、全肯定という言葉があるくらい、これは一般的なことになっている。肥大化した意味の中でもここに一番の違和感を感じている。

全てを好きというのは様々な側面を持つ人の特性を考えると大変な盲目であり、僕は好きな側面も嫌いな側面もその人として受容することが肝要なのだと思います。好きなアーティストについて、違うなって思うところもあれば、好きなところもある。
天の上のアーティストなら、好きなところだけを好きと言えばいいじゃないか。今はそう思います。

さいごに

尊敬をすること、恋愛感情を抱くこと、偶像崇拝すること。それぞれ好きは違うが、それを包容してしまうのが「推し」という言葉になってしまうし、そこには同一性や消費活動の多寡まで勘定に置かれてしまう。
だから僕は「推し」という言葉は用いず、好きという言葉を積極的に使って、好きの背景を自身でも深掘りして自問したいのだと思う。
なんだかんだ、考えることは楽しいのです。

ここまで考えて使いたくないなあと言っても、コミュニティでは「推し」という言葉は広く使われるしその都度「僕はその言葉に違和感が……」と誰も得しないコミュニケーションをしたいわけでもないです。
文化と共に意味が肥大化した「推し」を受容する方がやり取りとしてはスムーズです。それでも過度な同一性や消費行動、独占欲とは一線を置きたいなあ。みたいな。

これからも気ままに好きなものには好きと言いたい。
推しという言葉より、ぼくは好きという言葉が好きだよ、好き。




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