映画「チワワちゃん」の感想(その2)~東京湾に集まった理由
なぜ、わたし達は、再び集まったのか?
わたし達は、学校や職場などの特定のコミュニティの集まりではない。
友達の友達というように、なんとなく出逢って緩やかに繋がっているに過ぎない。
本名なんて知らない無責任な匿名の関係だ。
チワワちゃんを憎んだ人も、好いた人もいる。
しかし、注目すべきは、冒頭で引用したミキの語りの主語が、「私」でも「チワワちゃん」でもなく、「わたし達」であることだ。
自らの意志で集まった者たちということでなくても、偶然同じ時代、同じ場所に居合わせたというだけだが、彼、彼女らは一体感を持っている。
このことは、学校や職場についても共通するのではないか。
「わたし達」を簡単に空虚な関係と断定することはできない。
殊に、青春という時代を共有した関係性は、特別ではないか。
「わたし達」は、名前とか、職業という後から付いてくるものではなく、もっと本質的な何かで繋がっているのではないか。
それが、同じ時代に、同じ場所(東京)で、青春を共有した仲間ということではないか。
同じ時間を全力で生きた、駆け抜けた仲間ということではないか。
それは戦友のような特別な関係に近いのではないか。
だから、「わたし達」は再び集まったのだ。
なぜ、東京湾に集まったのか?
チワワちゃんを追悼するだけなら、セジウィックに集まって、チワワちゃんが好きだった曲を流して、思い出を語らうだけで十分だ。
しかし、わたし達は、チワワちゃんの死体が発見された場所である東京湾に集まる。
ホテルで過ごした最高の夏と比べて、どんよりと曇った、殺風景で、汚く、よどんだ、冬の東京湾。
夏のシーンと対照的にモノトーンだ。
青春は、終わってしまった後の方がより価値を持って輝きを放つ。
永遠には続かないものだからである。
抗うことができずに、なんだか分からないうちに終わってしまう。
望もうが望むまいが、訳も分からず終わってしまう。
チワワちゃんは、青春の表象ではないか。
チワワちゃんは、わたし達の終わってしまった青春そのものなのだ。
だから、チワワちゃんは、死んでしまうということに意味があったのだ。
映画冒頭でチワワちゃんの死が突き付けられ後、チワワちゃんとわたし達の青春が振り返られる。
この映画の主役は、ストーリーテラーであるミキでもなく、タイトルになっているチワワちゃんでもなく、チワワちゃんが表象するわたし達の青春だ。
そして、チワワちゃんが死んでしまったからこそ、わたし達は青春が戻らないということを悟ることができた。
チワワちゃんの死が実感できるからこそ、チワワちゃんの死を受け入れなくてはいけなかったからこそ、わたし達はチワワちゃんが輝いていたセジウィックではなく、チワワちゃんの死体が発見された東京湾に集まったのだ。
チワワちゃんを殺した犯人は分からない。
誰が殺したのか、なぜ死んだのかということは、映画では一切、触れられない。
それは、青春がなぜ終わったのかを考えるよりも、終わってしまったことをどう受け止めるか、終わってしまった後をどう生きるのかということの方が
当事者にとって重要だからである。
青春がなぜ終わったのかを考えてもしょうがないように、チワワちゃんを誰が殺したかなど、どうでもいいのである。
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