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日本はなぜSNSで社会運動風な事をするのか~冷笑されるデモやスト~

■はじめに
現代の日本国民の多くは、新聞の切り抜きをリツイートし、ネトウヨパヨクだと言葉の上で相手の思想性を揶揄し、韓国や中国を笑い、他の外国と隔絶したガラパゴス文化を良しとし、また他国と比べて日本を蔑んだり凄いとアピールしたりする。

しかし、これらはSNS上の話であり、実態としては、さほど極端に思想を強く持って生活をしたり行動したりはしていない。なにかの時にハラリと垣間見せる程度で、たいていはその瞬間に他人に距離を置かれるので、必死に誤魔化し、普段は、律儀で誠実で親切で道徳的なフリをしてる。

これは、他国に住む、もしくは他国の人から見たら、とても不思議な現象である。なぜ隠すのだろうか。そしてなぜ思想を行動に移さないのだろうか。

今回はその謎をワタシ的な目線で研究したい。

1.諸外国と日本の根本的な違い
元々、江戸時代以前の日本は階級制度が支配していた。その歴史は長く、思想が文化として昇華する遥か昔から原型はあったと言われる。

明確化されていくは1400年代後半から1600年代までという200年弱に及ぶ戦国時代である。

その制度とは、一番上に天皇家があり、次に宮家と言われる人達、そして武家と、ここまでは誰でもわかる。

さて次だ。農にあたる人々。その最も最高位にいたのが、大きな土地を有する米農家である。地主として、その土地の耕作を切り盛りしていた人達が最も最高位にいた。

次に小作人。小作人と呼ぶが、個人農家の集合体で、雇われの農民はここには含まれていない。地主に土地を譲り受け代わりに米を作って上納する人達である。江戸時代前期に至るまでの戦国時代は、あまりおかずの食材だけを作る農家はいなかったので、米作り農家が最も尊ばれたのは当然とも言える。

次は漁師猟師。違いはなく、また、武家や米農家の転業としても割と参画しやすい。無論畜産業はまだ無く、その流通範囲はことごとく小さい。

そして、単に耕作や漁等を賃金で請け負う雇われの小作人となる。

工と言われる「職人」や商と呼ばれる「あきんど」はその人達より身分が低かった。これは、大切なポイントである。

外国はと言えば、国によるが、基本は王族貴族士族商人工匠、そして、農民である。従って農民の多くは奴隷であった。

これはいかに具体的に王家に貢献するかで生まれていった階級制度である。

また王家は本来それぞれのテリトリーは小さく、他の王家と戦争することで領地を広げていった。

つまり、日本で言う武士のような存在なのだ。

デモや一揆等に代表される社会運動の発生は大概にして、農民と誰かの対立から生まれる。搾取する側にされる側が行動で抗うのだ。

最も搾取されるのは日本も外国も農民であったことは間違いない。

だが、日本では諸外国と違って、搾取するのは国民数としては人口比率の低い上位な武家や領主などの地主か、雇われ小作人を縛っている小作人であった。つまり権力に直接向いていた。

たが、諸外国では農民以外の全国民に向けられていく。彼らは奴隷として農民を束縛し、権利を奪う存在なのだ。

こういう階級的な思考性は、のちの日本の社会活動に大きな影をもたらした。

2.強制力で抑えた旧態な武家社会的全体主義と共産イデオロギー
明治・大正になると、天皇という存在が武家社会時代より具現的で色濃いものになる。

そして、天皇の勅命はいかなる人であろうと絶対となり、搾取される人達もする人たちもそれに従わざるを得なかった。そこには太刀打ちできなかったのだ。

また、搾取される側に置かれる人達にも、農林水産従事者の他に、労働者という人達が登場する。産業革命により、それまでの師と弟子達という単位だったものが、例えば工場長と従業員達など、規模が大きくなった事も大きい。権力対立は絶対権の天皇家、もしくは公権力ではなく、地主や経営者に向かい、要求も食料確保という視点から、より優位な立場の向上になっていった。小作争議に加え、労働争議等もこの頃は数多く起きた。

昭和になり、その搾取される側の人達は、具体的な社会運動では投獄されたりされたりするという現実に直面し、それはまた政府に異を唱えさせないという一種の恐怖政治としても利用された。

彼らは表立って行動しない代わりに、同業者労働者間で塊まり、そこに多くの大型の業種別組合異業種労働者同盟が作られていった。いわゆる労働組合である。

労働組合は元々はヨーロッパにおける地域の職人や農民の組合で、ヨーロッパ各地でこの組合運動に火が付き、対立が起こり、その結果社会制度が変わっていったりした。

そうした情報も新聞などで日本の生活者に伝わり安くなったことも影響している。

日本の各組合は、一地域や一企業で起こした成果の乏しい労働争議の反省からもっと広範囲に手を組もうとしたのだ。

そしてやがてそうした団体の思想性に、海外で台頭してきた共産イデオロギーが取り入れられ、一つの大きな活動団体となっていく。

いくつか生まれた中で、政治活動団体として今でも残っているのが日本共産党社会民主党(旧社会党)、そして中核派等の新左翼である。

特に日本共産党は歴史が古くすでに大正時代末期には産声を上げていた。

こうしたイデオロギー意識は、一方の搾取側の人達が海外の封建的な制度を真似て、監視という形で組織化し、憲法を尊び、法律を絶対権力で強行したりした事に反射したものだ。

搾取側は、政治団体と名を変え、その代表的なものは憲政会と呼ばれるものや軍部などである。

3.太平洋戦争と戦後
ここまでは、実は日本国民が思いや願いを社会運動にしなくなっていく原因には関係ない。いわゆる今の思想的対立の原点である。

全体主義の強権的な支配の中でも多くの人が社会運動で抗っていたという紹介でもある。

その歴史は、管理された国民の中に芽生え広がっていく「搾取によってうまれてしまう貧富の差の是正」という理想であり、その部分は現代の国民感情につながる気がしたのも、語った一因である。

そして1941年(昭和16年)から突入した太平洋戦争によって、そうした社会運動も、壊滅的な都市や町の破壊で影を薄めていった。

大きな社会運動は戦争の3年間は、軍部により徹底的に規制され、搾取側も搾取される側も徴兵により駆り出され負傷したり死亡したりし、戦争用の備品や食糧生産の労働者として女性や子供、あるいは植民地となっていた朝鮮の人々までもが徴用され、そうした新たな労働者も、中には爆撃などを受けて死亡したり、または遠い各地に疎開等で散ってしまった。

こうした事も、社会運動衰退の要因となったのである。

戦後は連合国の代表としてアメリカに支配され、アメリカの思想とともに立て直しが行われた。

日本人は誰もが必死に努力し、一年後にはもう数多くの労働組合活動団体が復活し、翌昭和21年には教師の組合である全教協が文部省前でデモをし警察とぶつかったり、国鉄(現JR)の労働組合と全逓(当時の郵便公社の労働組合)が全労組共闘委員会(全闘)を作ったりしていた。

民間企業の労働組合はあったが、まだそれほど大きな勢力はなく、やはり全国的な公共的な組織の労働組合がこの頃は主であった。

徐々に力を大きくしていくのが石炭に代表される鉱山労働者の労組で、その後数多くの活動的な思想性を持った民間企業の労組が台頭していく。

主たる彼らの要求は、やはり低賃金の解消と一部の上位者に集中する資産の解体という思想であった。簡単に言えば、「もっと給料を上げろ!」と「なんで一人だけ儲けてるんだ!」という、現代に通じる怒りである。

そして、そこに新たなる搾取される存在として学生が加わり、全学連という全国的な大学等の規制に対立する学生の団体が生まれる。
まだ新憲法施行から何年と立っていない昭和23年、24年の話である。

世の中は終戦後荒廃した環境から急激に復興をはじめ、それと合わせるように、「搾取される側」も搾取されるだけに我慢しなくなっていったのだ。

4.学生運動と新左翼
昭和26年、労働組合や団体に支えられていた日本共産党の中に、その頃、強行採決によって強引にアメリカを中心とする自由主義連合国とだけ手を結んだ国政主力政党自由党民主党が常態化し、あるいは強権で労働組合を抑えてくる財閥や経営者らの団体なども数多く台頭した。

もはや理屈は通じないと感じた共産党員の中に、武力で闘い勝ち取るしかないという、いわゆるスターリンイズム、或いはマルクス原理主義といったグループが現れ、武力闘争を掲げて、日本共産党自体の綱領を51年綱領として作り上げた。

日本共産党は極論的な象徴となり、赤く染まりきり、各地で暴動を起こし、警察を交えた強権者と対決した。

この綱領自体は53年には取り下げられ、日本共産党内の派閥からこの武力闘争グループは追い出され、日本共産党の綱領は平和的な努力による獲得と変わるのであるが、その狂信的な思想の影響を受けた人々は各地で散らばり、約10年後の学生運動へと繋がっていく。

学生運動は、中国やソビエトを含めた全方位の国々と平和条約を締結すべきという理念から、反戦反核を掲げた。特に駆り出される殆どの決死の兵隊がほぼ同世代の人達であった朝鮮戦争ベトナム戦争には厳しく、アメリカにはことのほか強く反発し、それを容認する政府にも反発した。

しかし当初はストライキ座り込み、あるいは小さい集会で、規模も学校単位とそれほど大きいものでなかった。

しかし新左翼を追い出し平和主義になったはずの共産党が、日本固有の自衛権は認めるという、日本軍装の事実を容認する発言をしてからは、反共も広がり、全国的に学生が繋がっていく。

そして、そこに新左翼の武力闘争思想が入り込み、全国的な過激な闘争へと発展していくのだった。

日大紛争を引き金に、やがて、主張は学内民主化理事の総退陣経理の全面公開という要求が加わり、これが数々の学生の賛同者をあつめ、武装した学生達と共に実施される抗議行動は全国各地に広がり、学校は封鎖し、休講を余儀なくされていった。

しかしこの加わった主張は当時世界でも行われていた学生運動の主たる主張で、日本の大学で数々おこる経理的な事件に重ねて唱えたもので、日本の学生のオリジナルなものとは言いにくい。つまり、こうした海外の運動を利用して、手の届かないアメリカや政府に要求するのではなく、確実に手が届く自分の大学に向けなおし、少しでも成果をあげようとしたのである。

昭和44年。多くの負傷者や治安の混乱を招いた学生運動は、大学と学生の間にあった協定を破り、大学側が警察介入を要請。中でもこの抗議行動を抑える目的で投入された「機動隊」の威力は強く、三島由紀夫の自決という象徴的な結末を迎えた。

無論その後も成田沖縄、或いは関西同和地区等でこうした過激な社会運動は行われるが、全国的な規模の大きな社会運動、抗議行動といったものはあの学生運動がほぼ最後と言える。ストライキ等も最近までしばしばおこったが、警察が強制的な行動に出るまでのものは殆ど無くなった。

5.学生運動に市民が見たもの
学生運動は、文字通り、学生の運動であったが、すべての学生が関わったわけではなく(むしろ参加しなかった学生の方が数は多い)、一時期は多かった参加学生らも次第に過激さが増してくると離れて行くようになった

現在でも微少に残っている新左翼はコアの中のコアと言われる人々で、世に極左と言われ恐れられたが、殆どの学生は日常生活に戻り、社会に溶け込んでいった

多くの市民はそれを受け入れた。当時はそうした普通の学生にまで得も言われぬ鬱憤がたまっていた時代だったからだ。

そして学生運動が初期に持っていた反政府的なイデオロギーも、自らが戦争に行きたくはないという純粋な思いだったと受け止められ、次第に中和していくのであった。そのスピードは早かった

昭和44年には人間はに行っており、昭和45年には万博が開かれ、銀座にマクドナルドが開店するなど、アメリカの躍進とその影響をもろに受けて、日本の産業発展は加速度を増しており、夢に満ちた未来をだれもが描いていたからだ。

一時期はいろいろとバカなことをやったが、みんなで手を握り合って、輝かしい未来に進もう。そういう時代性であったのだ。

やがて日本は高度経済成長に突入する。

そして、口々にこう言った。
「学生運動なんてもうだいぶ前のような気がする」

結果的にその運動は敗北に終わったと当時の好景気の恩恵に浸った市民や学生らは認めざるを得なかった。学生の要求は殆ど通らず、また平安を維持しながら政府を支えていた方が、得をすると刻み込んでしまったのだ。

6.その後の社会運動
その後もSNSが広がるまでの間、デモや集会、ストライキなど数々の社会運動は行われた。

しかし一つ一つはあまり大きなものではなく、多少は政策や制度を変えたことに繋がった例はあるものの、きちんと道路使用許可や集会所使用許可をとり、過激に何かを破壊することなどない中で行われた。

従って大きな時代のうねりになることはなく、多くは歴史の教科書には乗らない。

そのことから、人々はこうした社会運動にはさしたる影響力はないと思い始めた。少し大きなものとしてウーマンリブ運動があったが、それも実は参加していない人達からはただ騒がしいと煙たがられていた。

7.SNSの広まりと社会運動
2010年代に入り、SNSが広まり、SNSの訴求力が持つ影響は社会運動のテイを持ち始めた。

メインでSNSをやっている層の多くは、実は、学生運動の参加者やその少し上の世代の孫にあたると言うことは抑えておきたい。

当時学生運動の印象を最も明確に感じ、見た、結婚したばかりの人達の子が、だいたい今の40代中盤から50代初頭になり、SNS世代はその子供として生まれ、20代中盤から後半を迎えているのだ。

社会運動の無意味さを親から子へ、そしてまたその子へと受け継がれていてもなんら不思議ではない。

だからこそ、そうした思想から実生活は距離もおいている。

しかし、それぞれの心の中は日々の疑問不安溢れているので、姿形のわからないSNSでは、本音として政治を変えたいと運動をするのだ。

わかってもらいたいからだ。共感する仲間が欲しいのだ。そして、ときおり感じる違和感をなんとかしたいのだ。

■さいごに
でも、これだけは言っておきたい。

過激に攻撃はすることはない。なにも知らない建物の窓ガラスを割ったり、消火器をばらまいたり他人を傷つけたりする必要はない。

でも、顔かたちの見えないSNSだけではなかなか世の中は変わらない事も、まだまだ事実だ。

それが個人であってもいい。別に無理に徒党を組んで同士と団体にならなくてもいい。でも、なんらかの行動をしなければ、人は動かないし、そこに時代を動かす力は生まれてこないというのも現実だ。

どう考えるかは自由だが、何年か未来の自分の子供達に、同じ苦しさ悲しみは与えたくはないじゃないかと、私は思う。

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