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民主主義はオワコン?〜選挙制度考察編〜

■はじめに
日本は果たして民主主義なのだろうかという問いに対しては、様々な考え方がある。いや、安倍や菅は全体主義者でしかないという声もある。私もその声には同意する部分が多い。

全体主義と民主主義はなにが違うのかと言えば、具体的には施行される政策や予算等の根拠が、個人の思想の上に生まれているのか、自分以外の多くの人の思いに立っているのかと言うことであろう。
そして我が国が民主主義国と世界に名乗る理由は、国民主権の選挙制度にあるというのがロジックだ。従って選挙は厳格であらねばならないと言う主張の根幹にもなっている

1.選挙制度とは?
各市民が自らの市の市長や市議会議員、或いは各県民が県知事や県議会員、そして各国民が国会議員を決めるときにその様々な手続きの詳細を決めているもので、主として現代の日本で議論されるのは「投票」できる立候補者の対象範囲「選挙区」の事を軸としている。

この「選挙区」において、投票する有権者数の差異を「1票の格差」と呼び、有権者数がいずれの選挙区も均等であるようにすべきと、法律に書かれているので、よく裁判がおきたりする。

2.衆議院と参議院の定員と選出
衆議院は、定員が465名で、そのうち選挙区による選出議員が286名、比例区による選出議員が179名。

参議院は、定員は248名で、そのうち選挙区による選出議員が148名、比例区による選出議員が100名となり、参議院の場合、一度に選挙するのは定数の半数とされているので、選挙の対象は、選挙区74名、比例区50名となる。

3.選挙区と比例区
中学の教科書にはこうある。
選挙区は「人」を選ぶ選挙、比例区は「政党」を選ぶ選挙と。

しかし、実際には、選挙区は、有名人や地元の著名人等が出ていないと、多くの人は「政党」で選んでいる。勿論、投票表紙に書くのは個人名だが、その個人についてどれぐらい知っているかと聞かれたら、その殆どの人がよくは知らないと答えてしまう。

また、比例区は政党を選ぶとはいえ、選挙区との両方に出ている候補者は多く、選挙区で負けても比例区で復活当選する例も多く、もはや従来の意味合いは薄い。

比例区については、全国を11のブロックに分けていることも、案外有権者はわかっていない。

4.選挙制度に見え隠れする民主主義
私が言いたいのは、有権者が選挙の仕組みを理解していないことが、果たして正常な民主主義と言えるのであろうかということである。

例えば、普段のなんらかの会合などで、考え方や思い等とある応援したいと思える人がいて、でもその人はその有権者が住んでない選挙区に立候補していた場合、自ずとその有権者は戸惑うことになる。

そして、ならばその人が所属している政党の候補者に投票しようとする。

しかし、一方で立候補したその人は選挙区で負けて落選していたとすると、有権者の応援したいという本質は反映していないという事になる。

ましてやその立候補した議員の考え方や思いがあくまで個人活動の域で、政党全体には波及していなかったならば、なおさらである。

また、組織票と言われるものがある。

これはある組織が、組織として特定の政党を支持していた場合、その組織に加入している人は真の己の意志とは関係なく、その政党に投票しなくては組織内での立場が危うくなるという投票行為である。

この行動は政党を選ぶものという視点が大きく、選挙制度の選挙区において「人」を選ぶという理念は薄れてしまう。候補者側も選ばれる「人」という価値観ではなく、党のためにという価値観で選挙活動をする。

このように、一見民主主義を司るシステムのように見えていて、その実、民主主義とは少し異なる違和感が現行の日本の選挙には存在している。

5.大選挙区制の勧め
ここからは私が考える方法である。

選挙制度に比例区と選挙区があるのは、有権者が候補者をなにで選ぶかという選択肢である。

従って比例区というものは政党を組んでいる候補者しか当選しない。

また、今の選挙区の区分に用いられているのは小選挙区制で、それは選挙活動費用の低減を目標としており、票を集める為に贈収賄が横行した中選挙区制の反動でうまれたものである。

しかし、例えばかの河合某という議員がおこしたような贈賄による公職選挙法の違反行為は、小選挙区制の中で、中選挙区制の時より総額こそ小さいが起きているのだ。

こうしたことを考えて、私の提案は大選挙区制のみにすることである。それもできれば全国を一区とする超大選挙区制である。

そうなると、次のような利点がある。

①組織票による効果が薄れる
例えば農協や医師会のように全国的な組織はあるが、そのいずれもが地方支部が多く、全国でとなると考えが統一しにくい。

また一気に政治勢力を握る数をコントロールするためには、全国的な名前を各人が統一的に投票用紙に記入しなくてはならない。候補者名が分散するとその候補者に当選に活かせるのかという危険性が湧き出るからだ。政党名を書ければいいのだが、大選挙区制には比例区がないので、そういう戦術は通じない。

また例えばどこか一つの組織だけでは、基礎的な得票数を稼げても、体制を揺るがすような大きな影響は無くなる。

②投票したい人に投票できる
組織の影響下にいない人は、住所地などに縛られず自由に自分が応援したい人に投票できる。(組織下の人がけして自分が投票したい人に投票できないとは必ずしも断言はしない)

例えば、自分が国の力でなんとかしてほしいと思う絶対的な同調者の少ない事でも、一生懸命に全国的な活動の中で追求している立候補者に投票できるのだ。これは最も明確な民主主義の具現化ではなかろうか。

③国会議員が本当に国のためにと専念できる
国会議員の今の課題の一つに、選挙区の有権者だけを見て政治をやっている人が多いと言うことがある。

無論、地域の課題や得策が国政にまで広がることで全国的な課題をうかびあがらせたり全国的な良策として用いられることはある。

しかし、ともすれば、地域の利益や利権を良くするためにだけ発信している例も少なくない。その延長上に桜を見る会や一連の安倍晋三元首相関連の出来事がある。

もしも、有権者があの小さな山口3区の、先代からの人間関係で当選を支える人達だけで無ければ、実は疑義があるや不支持が増えてしまうというだけで次の選挙で落選していたかもしれない。

つまり国会議員は立候補地を地元と呼ぶ概念が薄らぐことになり、本当に国のために活動している議員の評価があがるのだ。

④総理大臣を国民が直接的に選ぶのと同等の効果がある
総理大臣は今、衆議院の議席数第一党の代表的な人が選ばれる。

しかし、その実、密室の中で、力のある与党幹部だけで「代表」は決められ、他の議員は従っているだけとなっている。例え自分がわざわざ頑張ってほしいと一票を投じた議員であってもだ。

これが民主主義と言えるだろうか。

しかし、大選挙区制を導入すると、真に国民から支持されている人は誰なのかというはっきりした指標が出る。

それは逆に誰かを人気や権力者というだけでは総理大臣にしてはならないという有権者の意識も問われ、有権者一人一人が無責任な人気投票をできず、しっかりと考えて投票することになる。

その結果、総理大臣は、最も得票数の多い議員の一群から選出されることになろう。
これは直接民主主義と言われるものである。

⑤有権者の範囲がメチャクチャ広い事の選挙戦効果がある
まずはドブ板選挙に例えられるような、名前を広めるだけの選挙活動は意味が無くなるので、立候補者も乗ってない名前を連呼するだけのうるさい街宣車は無くなる。

さらに、票を金で買おうとするかつての贈収賄事件のような事は、その対象があまりに広くなり、支出金額が恐らく個人や一政党では賄えない金額になる反面、支出額の割には効果が大変薄くなることやバレやすさも生じるので、やりたくてもやれなくなる。

勿論、公職選挙法に違反とされている物品の提供も、その数は莫大になるので、とてもコスバが悪くなり、意味が無くなる。

このような事から、選挙は、いかに今まで国のためにやってきたかとこれからいかに国のために尽くすかというシンプルなものになる。

■さいごに
このように大選挙区制は、今の時代には、価値観を変える大転機になると思われる。
しかし、だからといってこれを力強く打ち出し、法律を改正しようとする国会議員は出てこないであろう。

なぜなら、今の選挙制度で当選した議員である以上、今の選挙制度を改めると、地盤となる選挙区の有権者の支持がどうなるかわからず、落選すら危険性があると不安になるからである。

従って、これはあくまで妄想で終わる。

しかし、民主主義とはどういう事か、また民主主義であるという幸福をどう享受するかという事は、民主主義国家の一国民として、追求していかなくてはならない。

その時にこの妄想が議論のきっかけになれば、私としては満足である。

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