純文学とSFをつなぐもの
もともと芥川賞受賞作品を読み漁るなど、純文学が好きで、様々な小説を紐解いてきた。明確なストーリーラインがあって皆に等しく共有される作品よりも、登場人物の心情を自分なりに自由に解釈できる作品の方が、安心感を覚えるのだ。そんな自分にとってSFは、少々小難しく、登場する固有名詞の多さに慣れなくて、読み進めることが難しいだろうなと思っていたジャンルだ。
しかし近年、SFはエンターテイメントとしてのみならず、ビジネスの文脈でも注目されつつある。不確実な未来を見通すために、「もしこの技術が進化したら未来はどうなってしまうのだろう」という思考訓練をすることが求められている。例えば、以下の書籍はその指針として一読の価値がある。
曲がりなりにも科学を専門にしている研究者であるし、ただ目の前の技術に視野を狭めることなく、長期的な視点で技術の行く末を想像することは、研究者としてもビジネスマンとしても人間としても、極めて重要な行為であると思う。そんな想いから、今年は意識的にSFを読むようにしている。
『ハーモニー』が提示するディストピア
伊藤計劃氏という気鋭のSF作家が居た。会社の読書好き同期がこぞって愛するほどの作家で、約4年前に一度読み通してみたが、当時は考え感じることが少なく、正直印象には残っていなかった。しかし、企業研究者として様々な社会課題の解決に取り組んできた経験を通して、この作品の凄さをようやく理解できてきた。健康を少しでも害すると自動的に治療される。あえてその政策に反旗を翻すことで、人間の幸福とは何であるかを追究した作品と言える。誰しもが健康を願うのは自然な欲求である傍ら、行き過ぎた健康信奉は人間らしさを失わせてしまうのではなかろうか? この本を読んで、重い病気を患った人の治療は切実で喫緊だが、既に一定以上の健康を維持している人のさらなる健康増進は、かえって逆効果に思った。
『ここはすべての夜明けまえ』が教えてくれる、苦痛の愛おしさ
星野源氏がオールナイトニッポンで紹介していた作品だと妻から聴き、SF小説なら試しに読んでみようかと思った作品。一読して、これは芥川賞の候補作品になってもおかしくないと思った。ここまで人々の感情を自覚的に描いたSF作品は初めてかもしれない。主人公は身体が永遠に老化しない手術を受け、周りの家族が年老い死んでいく様を見届けていく。その過程で主人公は、痛みを感じることによってむしろ生のありがたみを享受できることに気付く。「この世で私だけは、私がやったことを、きちんと見つめなければいけない」という言葉は非常に本質的であり、この物語設定でなければ納得できなかっただろうと思う。
終わりに
純文学もSFも、結局は人間を対象とした作品であるから、人間がどう感じるかを描く点では一緒である。ただ、SFとも純文学とも言えるような作品は数少なく、この重複領域を足がかりにSFの世界へと踏み出せそうである。そのような意味で『ハーモニー』や『ここはすべての夜明けまえ』は偉大な作品だ。これからはジャンルにあまりこだわりすぎずに読書を続けていきたい。