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理解できない本

 理解できない本というのは、誰だって一定数あるものだ。

 この手の話題はセンシティブかもしれないと思って、書くのを渋っていたが、音楽のフィールドだと以下の記事が一時期話題になったように、何人もいわゆる名作をそのまま理解できるわけではないということが公知化されてきたように思うのだ。

 明確に書き記しておくが、あくまで私がその作家の作品を理解できていないだけで、その作品の優劣を議論しているわけではないことは予めご了承いただきたい。読書にのめり込んだのが大学院生の頃だったこともあって、読書経験自体は5年程度しか無いし、ジャンルも比較的偏っているため、私の意見はあくまで一人の人間の意見として参考にしていただけたらと思う。


理解できない ≠ 共感できない

 誤解されやすい部分ではあるが、理解できない作品というのは決して共感できない作品と同義ではない。共感できない作品であっても、理解できる作品はたくさんある。登場人物や情景に感情移入できなくとも、そういう人間や状態が存在すること自体は理解できるからだ。

 例えば、『愛がなんだ』(角田 光代)は恋愛依存症の女性を描いた小説で、主人公の行動に私は殆ど共感できなかったが、このような人が居て、恋に奔走してしまう姿というのは想像できるし、物語としても楽しめると感じる。

 今回、「理解できない作品」と定義するのは、「文章としては平易であるはずなのに、人間や情景を想像することができない作品」とでも言い換えられよう。難解な言葉を多用する作品が読みづらいのは当然のことと思うので、そういった作品も今回の記事からは除外している。


1.『ビリジアン』 (柴崎 友香)

 『春の庭』で芥川賞を受賞し、『寝ても覚めても』は映画化されるなど、飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍し、今もなお数々の賞を受賞している作家だが、『ビリジアン』という作品は私には難しく感じた。何でも無い日常の匂いや手触りが事細かに描かれていて、思ったよりも物語に没入しないとその感覚が実感として掴めてこないのかなと考えている。話し口調に近い関西弁の文体も影響しているかもしれない。
 何気ない日常を丹念に描く作品として、映画『PERFECT DAYS』を思い出す。映像作品として素晴らしいとは思ったが、物語として理解するのがやはり難しかった。これは自分が普段の日常を尊いと本心から思えていないせいなのかもしれない。


2.『ここはとても速い川』 『この世の喜びよ』 (井戸川 射子)

 2作品を読んだが、記憶に留めることが難しかった。強く意識していないと、読んだそばからするりと頭を抜けてしまう。それはおそらく、著者が句読点を明確にしない書きぶりを持ち味としているからだろう。我々が普段話すときに、文の精緻な構造を意識していないように、著者はそのことを書き言葉で表現しているのではないだろうか。


3.『とても小さな理解のための』 (向坂 くじら)

 初小説『いなくなくならなくならいで』が2024年の芥川賞の候補作としてノミネートされ、そのキャッチーなタイトルからも店頭で広く並んでいるのをよく見かけた。元々は詩人としての活動を主軸としている方なので、小説のついでに詩を読むことにもしたが、これが本当に難しい。キッチンなどありふれた場所を題材としながらも、心は宇宙にあるような感じと言えばよいだろうか。想像力の豊かさを感じつつも、あまりにも非現実的ではないかと思ってしまうのだ。


 終わりに

 ここまで理解できない作品を見てきて、自分はリアリティを追求した作品が実は苦手なのかもしれないと思った。元々小説を読む動機として、厳しく辛く立ちはだかる現実から少しでも逃避することが大きかった。小説でリアリティをまざまざと見せつけられてしまったら、それこそ本末転倒だから。しかし、今ではもう、現実逃避だけを目的に小説を読まなくなった。他者への理解を深めるために、今後の世界への想像を膨らませるために、自分なりにジャンルを横断して読書を展開してきた。もう少し時間が経てば理解できる日が来るかもしれない。それまでは焦らずに日々を楽しんでいこう。

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