わからなくても触れてみる
文章を読んでも理解できない経験は、誰にとってもあるだろう。少し難しい専門書を読んだり、いわゆる古典的な名著を読んだりした時など、その例は枚挙にいとまがない。
私なりに大事だと思っているのは、わからないなりにもとりあえず読んでみるということだ。理解できなかったとしても、その時は字面だけを追ってみる。すぐには使える知識にならなくても、時間が経つ中でいつかストンと理解できるときが来る。その経過時間で様々な用語に触れ、様々な経験を獲得するからだと思う。知覚する世界の解像度を高めることが必要であり、これにはどうしても苦しみや時間の経過が必要だろう。
「わからない」という事象は、おおよそ以下の3パターンに分類されると考えている。自分が「わからない」という自体にぶち当たった時、どのパターンかを考えて解決するようにしている。おおよそこの対応でなんとかやり抜けているので紹介してみたい。なお、これで解決できない時もたくさんあると思う。その際は焦らず時間を掛けてゆけばよい。
1.用語が難解で読み解けない
原著にこだわる必要はない。入門書や解説書など利用できるものは徹底的に利用して良いと考える。『1984年』なんかはその筆頭だと思う。私は途中まで読んで挫折したが、解説サイト等を参照してから再挑戦すると格段に読みやすくなっている。まさにこの方法は、以下の書籍で紹介されている。良書なので一読を推奨する。
推理小説など結末にカタルシスのある物語だと、解説サイトを最初から読むのは興ざめだろうから、諸刃の剣ではある。ただ、そういう書籍は2回以上読む面白さが必然的にあるから、分からなくてもとりあえず1回読んでみるのが良いと思う。
2.抽象的な論に対して、具体例を想定することができない
これが個人的な経験では一番多いように思う。実生活と結びつかないから論を理解できない。理想的には抽象的な論を理解してから実世界に落とし込んでいくのだろうが、それには相当な能力が必要だ。実用書で全く構わないので、「与えられた知識をどう使っていくか?」という観点を重視してみるのも良いだろう。
例えば数学だったら、公式や定理を理解するために、典型的な問題を解いて、その使い所や注意点を身に着けていく。哲学だったら、身の回りの事象を想像して、思考実験をしてみる。心理学だったら、実際に起きやすい人間の営みを観察して、そこから帰納的に論を考えてみる。
私が取り組み始めた「アッセイを考える」シリーズは、分子生物学におけるこの手の悩みの払拭を目指している。
3.論の重要性が納得できない
論自体は理解できるけれど、それだけが宙に浮いている感じがして、救いにならないこともある。本来、論は他の論と有機的に結びつくはずであり、だからこそ論を腹落ちできないのが悶々とするところだろう。こればかりは違った観点での知見や思考の枠組みの獲得で突破するほかはないだろう。
ユクスキュルの『生物から見た世界』は「環世界」という概念を論じた書籍として有名だ。私の場合、彼の論自体こそ理解できたものの、その有用性がいまいち腑に落ちなかった。しかし、國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』や坂本龍一氏・福岡伸一氏の『音楽と生命』の中で、ユクスキュルの環世界の話を援用しながら持論を展開する例を目の当たりにして、一分野に限られた話ではなく、分野横断的に有効な論であることをようやく納得できた。実に2年の年月を要した。
終わりに
「わからない」ことは大にして苦しい。そんな状況を少しでも打破できるように、「わからない」のパターン化を試みてみた。「わからない」を恐れずに歓迎できるような心持ちになっていただければ嬉しい限りである。