本日の「読了」──オトコというラベルの不都合なまでの厄介さ
ショーン・フェイ『トランスジェンダー問題 議論は正義のために』(訳・高井ゆと里 明石書店 2022)
最初に告白しておくが、委縮したおっさんの脳では正しく読み取ることも理解を尽くすこともできなかった。だから、以下は読書感想文にすらなっていないことをまず書いておく。
この本を読み進める途中で、映画「おくりびと」をBSで観た。
映画の冒頭で、ご遺骸の納棺の儀を初めて任された主人公が「女」だと思っていたご遺骸が実は「男」であると気づいたときの戸惑いが描かれている。そして、その戸惑いの原因を自ら確認した上司は家族に、死化粧はどちらになさいますかという風に問いかけ、家族はちょっと間言い合いの末、本人が望んでいたままにと答える。
本書からおっさんが理解した気になっていることは、まさにこのシーンに凝縮されている。
書名にもなっている「トランスジェンダー“問題”」は当事者の側にあるのではない。おっさんには説明できない部分をはしょっていえば、すべての問題は「オトコ」に、それを基本として作られた社会にあるということだ。
男はこうあるべきで女はこうあるべき。そのような「べき論」や、男らしさ女らしさといった「らしさ幻想」こそが問題なのだ。
そうしたものは人類の社会の伝統だと言えばそれまでだが、その伝統を言語化した段階でそれは守るものとなり、ルールとなったのであろう。ある地域ではそれは宗教であり、別の地域では掟だったのかもしれない。問題はそれを作ったものが大概の場合「男」だったということだ。どこまでも言っても「男」が問題なのだ。
なかでも深刻な問題は、男女の社会的・文化的二分法が、人類誕生時からの所与のものではなく、男が作った物語に過ぎないということである。
おっさんが読み進めるうちに頭に浮かんだのが、トランスの生きづらさは、非トランスである私が「べき論」や「二分法」、はたまた「らしさ幻想」から受けるも。また、自分ではない誰かが慣習的かつ伝統的に貼りつけるラベル──男・女を筆頭に会社員、主婦、無職、自称無職にいたるまでの──を元にした断定、思い込みや刷り込みと通じるものがあるということだった。トランスとそうでないものと分けること自体がまず間違っているのだろう。人としてどう生きるのか。それだけなのだ。すべては生きるためにある。
性愛感情の対象とか生殖器の形状の問題ではない。
「ほとんどのトランス女性やトランスの少女は性別移行を救命行為と理解しており」という一文はそういうことなのだろうと理解した。
読みながら考えると混乱する。困惑する。困ったことに下世話な疑問なら湯水のごとく沸いてくる。
だがその混乱の源は、出生時に与えられた男女別のレッテル。そのレッテルをもって許可されるボーズ&ガールズ倶楽部。そこでは、どちらのクラブに属していても刷り込まれる「男がこの世の全て」という価値観。昨今流行の言葉でいえば「マインドコントロール」にある。
そこまでは理解できたが、出生時の男女を絶対のものとはせず、あらゆる男女別を排除し……という社会の絵を書くことがおっさんにはできない。マインドコントロールが解けないからだ。
ジェンダー論に関心を持つ人にとっては読みにくさはないのかもしれないが、初めて読んだ人間には、カタカナ名前の頻出する外国小説の比ではない読みづらさ(その責任の大半はおっさんにある)。
著者訳者、出版社各位には大変申し訳ないが、おっさん同様にLGBTQ初心者が、ジェンダー論についての自分の立ち位置を定めるべく何かを得たいと本書を手にするのならば、第6章「遠い親戚──LGBTのT」、第7章「醜い姉妹──フェミニズムの中の+トランスたち」、そして結論「変容された未来」を先に読むとよいかもしれない。
読了した今、日本のテレビにも多く登場するトランスジェンダーたちが、画面外で直面しているであろうさまざまな不都合な真実の過酷さに思いを巡らせるし、もし自分に孫ができたり、友人知人の子や孫に、出生時の男女別に縛られた贈り物や声掛けを慎むようにと思うし、古今東西のとりかへばや物語を読んだり映像を見るときには、今までとは違ったものがみえてくるかもしれないと思っている。そして、映画「おくりびと」で生まれたときの性とは別の性でおくられた人に、坊主はどのような戒名をつけたのか気になっているおっさんである。
[2022.12.15. ぶんろく]
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