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【本】渡辺京二×津田塾大学三砂ちづるゼミ「女子学生、渡辺京二に会いに行く」感想・レビュー・解説

内容に入ろうと思います。


本書は、三砂ちづる氏が津田塾大学で受け持っている「多文化・国際協力コース ウェルネスユニット」というゼミ生が、ひょんなことから、評論家である渡辺京二氏と合宿をすることになり、熊本県にある真宗寺での二日間に渡る勉強会を書籍化した作品です。在ゼミ生と卒業生合わせて10名ほどで熊本まで趣き、自身がゼミや大学院で研究をした内容、まさに今している内容を渡辺京二氏にぶつけ、議論をするという内容になっています。


彼女たちが扱っているテーマは多岐に渡りますが、それぞれのテーマと各章の章題をひと通り書いて、その後でその内の一つを取り上げて、どんな議論が展開されているのかを紹介しようと思います。

「子育てが負担なわたしたち」(女性の生き方と子育て)
「学校なんてたいしたところじゃない」(学校と権威)
「はみだしものでもかまわない」(発達障害)
「故郷がどこかわからない」(帰国子女)
「親殺しと居場所さがし」(国際協力への原動力)
「やりがいのある仕事につきたい」(福祉系の仕事)
「結は現代にも存在できる?」(農業)
「痩せているほうがいい」(摂食障害と母娘の関係)
「当事者性ということ」(薬物依存)

それぞれがそれぞれのテーマを持ってフィールドワークやインタビューなどをし、自ら考えた結果を渡辺京二氏にぶつけていきます。


ちなみにですが、僕自身は渡辺京二氏が何者なのか、よく知りません。本書を読んでみても、著者略歴を読んでみても、いまいちよくわかりません。渡辺京二氏は、自分は何者でもないのだ、というようなスタンスでいるような気がしますが、どこかに括ろうとすれば、「在野の思想家」という感じになるかもしれません。特に大学に属しているとかそういうわけでもなく、様々な職を渡り歩きながら、様々な文章を書いたり、本を読んでいたりした人のようです。


さてでは、最初の「子育てが負担なわたしたち」を取り上げようと思います。


女子学生の問題提起は、「かつて子どもは、大人や社会からもっと大事にされた存在だったはずだ。しかし近代化が進み、子どもを「障害物」と捉える風潮が出てきた。また、子育てと女性の幸せは対立すると考えられてもいる。キャリアアップの妨げになるという考え方だ。このようなあり方をどうすべきだろうか?」というものだ。指摘されていることは、働きながら子育てをしている人や、あるいは子どもが欲しいんだけどどうしようかと悩んでいる人には、非常にピンと来る身近な問題だろうと思う。


それに対して渡辺京二氏は、「近代以前の世界では、子どもは「小さな大人」だった」と主張する。5,6歳になればみんな働いていたし、母親は常に忙しかったから、「外で遊んできなさい」と言って家から出す。親子の愛情というものももちろんあっただろうが、現代とはまた違った親子関係があった。確かに、子どもは社会全体で面倒を見るという意識があって、それは今と比べると非常に良い側面もあったかもしれない。

しかし、現代のような、家庭が愛や平和に満ちたものであり、子どもに深く愛情を注ぐというような関係性とは違っていた。だから、単純に比較するのは難しいよね、というようなことを言う。


また、母親の仕事の「障害」になるという問題については、「自己実現の社会ならではの問題」と言い、「自己実現の社会」への肥大した幻想を斬る。これは本書に通底する価値観で、渡辺京二氏が女子学生たちに最後に話した内容をまとめた巻末の一章のタイトルは、「無名に埋没せよ」というものです。「自己実現の社会」というものに囚われすぎているからこそ、自然の親子関係の発露というものが成されにくい。それは、そういう時代だから仕方がないとはいえ、なんだかなぁ、というようなことを言っています。


本書は、議論というよりは、渡辺京二氏の演説というのが近くて、渡辺京二氏は自分の考えていることを思いつくままに喋る。しかしそれは、何らかの結論に着地させようとしているわけではない。発表者の意見やスタンスを尊重しつつ、その範囲内で自分だったらどんなことが言えるか、ということを考えて話している感じが伺えます。なので、本書を読んでも、結論が出てくるわけではありません。問題に対する結論を求めてしまう人には、本書は向かないでしょう。


本書は、「問題をよりクリアにすること」、そして「自分が抱いた問題をずっと持ち続けること」の二つを、強く教えてくれる作品です。女子学生たちは、渡辺京二氏と喋ることで、「解決に至る」のではなく、「自分が抱えている問題をより明瞭に認識する」ようになる。これが、彼女たちの合宿の最大の成果だったといえるでしょう。

三砂ちづる氏は、自身のゼミについて、「問題を捉えることに時間を掛けてもらっている」というようなことを言っている。どんな研究でもそうでしょうが、まず「何が問題なのか」をきちんと把握することが大事だろうと思います。その上でさらに、その「問題」をよりクリアにしていく。知性と教養と、人とはちょっと違った価値観を持つ渡辺京二氏との対話によって、彼女たちの「問題」は、よりブラッシュアップされたことでしょう。


さらに、そうしてクリアにした問題を、ずっと持ち続けること。その大事さも、渡辺京二氏は説きます。皆が学者になるわけでもないだろうし、結婚してすぐに専業主婦になるかもしれない。それでも、別に自分の中の問題を手放す必要はない。ずっと持ち続けて、考え続けて行くことは出来る。そういう意識も、彼女たちは持ち帰ったのではないかと思います。


作品全体としてはそういう本なわけですが、僕としては、本書の中に随所に登場する色んな価値観に救われる気がしました。


三砂ちづる氏は本書のことを、「多くの「今を生きることがつらい」人たちに届けられている」作品だと書いています。確かに、そういう側面もかなり強くある。僕も、どうしても「生きることがつらい」と思ってしまう人で、そういうことについてこれまでも様々なことを考えてきたんだけど、こうやって様々な方向から、自分の内側にはなかった(あるいは、あったはずなんだけど隠れてしまった)考え方を取り込むことも、人生に対抗する手段です。


著者自身も、生きづらさを感じてきた人のようです。

『また、ある種の強さというか、非常にアグレッシブな面もありながら、ある面では、非常に傷つきやすい人間で、これは僕はもう自分で嫌いでね。なんで俺はこんな傷つきやすいのか。人とうまくいかないことがあったりしたら、一日も二日も三日もずっとそのことが気になって、こだわってしまうという風な小さな自分がどうしようもなくある。』

そんな著者の言葉で、一番グッと来たのがこれです。

『大切なのは、その実現されている自己を、たとえば自分は人とのつきあいがあんまりうまくいかないとか、集団というのがあんまり好きじゃないとか、あるいは言葉でうまく表現ができないとか、そういうふうな自分の性格があるとしたならば、自分のその性格というものを磨くことなんですね。まかりまちがっても、自分はあんまり社交的な人間ではない、だから自己啓発だとか言って、自分を作り替えようなどとしないことですね。自己啓発講座というものがあるらしいね。自分が今まで気づかなかった自分に目覚めようとかいうことになるんでしょうが、自分で気づかなかった自分なんていやしないんだから、そんなものは。
たとえば人とつきあうのが苦手な人間だとすれば、社交的な人間になろうとしても、付け焼き刃にしかならないんです。まあ多少は努力しなきゃいかん、この世の中で生きているんだから。でも、そういうものは後から自分で付け加えたもの、本当の自分じゃないということですね。根本なのは、人付き合いが悪い自分、というものを深めることです。磨くことです。人付き合いの悪い自分というものを肯定することです。肯定して、そういう自分というものを伸ばすことです。そういう自分として生きていくことです』

これはとてもいいなと思いました。僕も、やっぱり考えてしまうことがあるんです。「こういう部分がダメだから、やっぱり自分を替えて直していかなくちゃな」って。でも、やっぱりそういうのは、自分の本来の感じではないわけだから、うまくいかないんですね。そうすると、「やっぱりうまくいかなかった。俺はダメな人間だ」とまた落ち込んでしまう(笑)。渡辺京二氏は、「自分の欠点を磨くことだ」と主張します。こういう発想をしたことはなかったので、なるほどこれなら出来るかもしれない!とちょっとワクワクしました。ちょっとこの考え方を、意識してみようと思いました。


さて、他にも色々と、「生きづらさ」を感じている人向けになるだろう文章があるので、抜き出してみようと思います。

『自分を輝かせようとする必要はない。自分の中に未知の何かが眠っているなんて考えなくていい。自分らしく生きればいい。やりたいことをやればよい。人間って平凡なものだと思う。本を読みたければ、読めばいい。女優をやりたければ、やればいい。誰がなんと言おうとも』

『だから人間は、一つの共同社会の中で、うまく共同生活をやっていけるタイプと、それかえらはみ出していくタイプと、どうしてもあると思うんですね。しかし、共同的なものから、はみ出していくようなものを持っているのが、やっぱり人間の本質であって、何気なくみんなとつきあって楽にやっているような人たちも、一皮剥き、二皮剥き、三皮剥きすると、実はやはり心の奥底にそういうふうに非常に孤独なものというか、外と通じ合えないものを持ってると思うんですね

ただ、そういうものに敏感で、そういうのが強い人たちがいるんですね。そういう人たちは生きるのが大変です。そういう人たちは人間の負ってる課題の苦しみ、自分が人とのつながりというものに対して非常に熱い心を持っていればいるほど、実際には人とのつながりにおいて、いろいろうまくいかないところが出てくる』

『変わり者であるということ、自分が変わってて周りといっしょじゃないということ、周りにあわせていくのが苦痛であったりする、それはいいんですよ、そんなことは。それが正常なんです。いろいろつらかったこともあるんじゃないかと思うんですけどね、これから幸せになってください。そういう自分はいい自分だと思ってください』

『ですからほかの人間とはうまくつきあえないけど、この人だけは、つきあえるというのがいれば、それでいいじゃないの。自分が変わっている、それからまた周りの人たちといっしょにうまくやっていけない、人間みんなそうだと思えばいいですよ。実はみんなしれっtした顔をして隠してるだけなんですよ』

『一人の人間は不幸になる権利があるんです。一人の人間は苦しむ権利があるんです。不幸になることまで、苦しむことまでとりあげないでくれと言いたいです。人間はそういう不幸や苦しみを自分で引き受けることによって辛うじて、自分の尊厳というものを保ってきたと思うんです』

『とにかく世間の男が何を好もうが、世間の女が何を好もうが、世間一般の人間が何を好もうが、あるいは好んでいると言われようが、左右されない自分というのを作っていけばいいだけのことなんですね。自分は自分だって。だからへそ曲がりの精神があればいいんじゃないのかな』

『望んでいるのは、生き延びてくれと。そこではエゴイズムがありますから、他人の子どもは死んでも自分の子どもは生き延びてくれ、と思っている。ともかくあなた方の親は、おまえ、どうぞ生き延びてくれ、しっかり行きてくれ、できれば幸せになってくれ、と言っているだけでございます。世の中に貢献しろ、なんて言ってはおりません。望んではおりません』

『実は就職口がないというのは、経済の話にすぎないわけ。就職口がないということで、社会は自分を必要としない、なんて思うのがおかしいんで、その時その時の経済状況によって、産業構成のあり方によって、就職がうまくいかないぐらいで、自分は社会に必要とされていないなんて、なんでそんなふうに追い込まれていくのかということです』

『だいたいこの人間の歴史に、いろんな災いをもたらしたやつは、社会に役に立ってやろうと思ったやつが引き起こしてきたわけでございます』

『さっき個人は集団の中において個人であったと言いましたが、近代というものはそういう集団tいうもpのの一つの皮膜、自分を覆っていた繭、そういうものの中から個人というものを飛び出させてしまった。そうすると、一人一人の個人が自分ってなんなんだろう、自分ってどういう人間なんだろう、自分をどう生かしたらいいんだろうというようなことを悩まざるを得ないし、考えざるを得なくなりました』

『自己実現という言葉について、僕が非常に不信感を持つのは、最初から自己というのは実現されているんだよ、ということもありますが、もう一つは、自己実現という言葉は、なんのことはない、出世しなさい、と言っているからですね』


『でも、そういう才能は、レピュテーションの世界なの。名声の世界、社会で持て囃されるということなの。言ってみれば社会が認める虚栄の世界なの。だから才能があって有名になるということは、すべての人間に求められるはずがありません』

『だから人間はテレビに出るような人物や国際舞台で活躍するような人間にならなくても、ごく平凡にでかまわないんですよ。無名の一生で一つもかまわないんですよ。というよりもそれが基本なんです。この世の中で、テレビや新聞などに名前が出てる人たちの比率をとったら、名前も出ないし、そういうことにあまり関心もないという人間が圧倒的多数なんです。圧倒的多数はだから黙って生きて、黙って死んでいくのです』

本当に僕は、こういうことを、親とか学校の先生が言ってくれたらいいんだけどな、と思ってしまいます。まあ、思春期の頃なんか、どのみち親とか教師のことなんか聞きゃしないわけだから、こういうことを実際に言ってくれる人がいても、聞かなかったかもしれないですけどね(もっと言えば、そういう親や教師はいたかもしれないけど、自分が聞いていなかっただけ、という可能性もありますけどね)


女子学生とのやり取り(ほぼ渡辺京二氏の独演だけど)も面白いけど、そういう、生きづらさを抱えている人に向けられた言葉も、結構響く作品ではないかと思います。是非読んでみて下さい。


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長江貴士
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