【本】ハリエット・アン・ジェイコブズ「ある奴隷少女に起こった出来事」感想・レビュー・解説
『子どものそばに横になるとき、この子がご主人に殴りつけられるのを見るよりも、息を引き取るのを見るほうが、わたしにはどんなに耐えやすいかと思った。』
「常識」というものを怖いと感じることが、僕にはよくある。「正しいと思われていること」「多くの人がそうであると認めていること」が、「常識」と呼ばれるようになる過程を、怖いと感じることが、僕にはよくある。
『この女主人には七人の子がいたが、少女の母親にはたった一人しか子がなかった。そして、その子は永遠にまぶたを閉じようとしていたが、母親はそのとき、わが子をつらいこの世から連れて行ってくださる神に感謝しつづけていた。』
「常識」と一旦認められれば、今度はその「常識」を盾にして主張をし始めるものが現れる。益々、「常識」は広まり、多くの人がそれを正しいことだと思うようになる。
しかし、多くの人がそれを認めているからといって、「常識」が常に正しいわけではない。
『奴隷の母親にとって、(奴隷の雇入れ更新日である)新年は特別な悲しみでいっぱいの季節である。母親は、小屋の冷たい床に座りこみ、翌朝には取り上げられてしまうかもしれない子どもたちの顔を、じっと眺める。夜明けが来る前に、いっそ皆で死んでしまったほうがいい、と何度も考える。奴隷の母親は、制度のために人間の格を下げられ、子ども時代から虐待を受け、愚かにしか見えない生き物かもしれない。けれど、奴隷にも母親の本能があり、母親にしか感じられない苦しみを感じる能力はあるのだ。』
人間はこれまで、愚かなことをたくさんしてきた。その中の一つに、奴隷制度というものがある。かつてアメリカに存在した、黒人を奴隷として扱う制度だ。同じ人間でありながら、まるで所有物であるかのように扱うこの制度は、当時のアメリカでは「常識」だった。それが正しいことであることを疑うものは、黒人を奴隷にしていた地域では少数であったに違いない。
『子どもたち全員が連れ去られたあと、道で母親に出会った。そのときの狂ったような、ギラギラした目をした彼女の顔が、今でも目に浮かぶ。「いなくなった!子どもはみんないなくなった!なのに生きろと神はあたしに言うの?」女は、怒りに身を震わせて大声で叫んでいた。わたしにはかける言葉がなかった。こういう出来事は、毎日、いや、毎時間のように起きていた。』
こういう歴史を知る度に、僕は思う。昔の人間は愚かだったんだなぁ、なんていうことを思うのではない。もしかしたら、現代を生きる僕らも、おぞましい奴隷制度のような仕組みに、無意識の内に加担しているのではないか、と怖くなるのだ。今自分が「常識」だと思っていることが、そう遠くない将来正しくなかったとみなされるのではないか。そんな風に思ってしまうのだ。
『それまで何度も死を願ってきたが、そのときは赤ちゃんが一緒に死なない限り、死にたくなかった』
だから僕は、「常識」に寄りかかることが怖い。誰かが生み出し、多くの人が自然発生的に許容していった「常識」に寄りかかってしまえば、大きな間違いを犯すことになるかもしれない。世の中のすべての事柄について、全部自分で判断することは不可能だ。それでも、自分の言動や価値観に直結する事柄は、出来る限り自分の頭で考えて、自分なりの基準をきちんと持って判断したい。
『この仕打ちは相当わたしの身にこたえた。だが、ドクターを呼ぼうと言う周囲に、このまま死なせてほしいと頼んだ。ドクターがそばにいることほど、恐怖を感じるものはなかった。わたしは何とか回復し、子どもたちのためには、死なないでよかった、と思った。十九歳だったが、子どもとわたしを結びつける絆がなければ、死によって自由になれるほうが、わたしにはうれしかった』
本書は、実話だ。
『読者よ、わたしが語るこの物語は小説(フィクション)ではないことを、はっきりと言明いたします。わたしの人生に起きた非凡な出来事の中には、信じられないと思われても仕方がないものが存在することは理解しています。それでも、すべての出来事は完全な真実なのです』
本書の中で「リンダ」という名で登場する女性こそが、本書の著者、ハリエット・アン・ジェイコブズである。
彼女は、奴隷制度という悪法の中を生き抜き、後年、自らの経験を知的な文体で克明に記した。それが本書だ。本書は当初、「白人の知識人によって書かれたフィクション」だとみなされ長く忘れられていたが、出版から120年後、書かれていることが事実であると判明し、欧米を中心に大ベストセラーとなっている。
そんな「リンダ」は本書の中で、奴隷制度をこんな風に捉えている。
『わたしが経験し、この目で見たことから、わたしはこう証言できる。奴隷制は、黒人だけではなく、白人にとっても災いなのだ。それは白人の父親を残虐で好色にし、その息子を乱暴でみだらにし、それは娘を汚染し、妻をみじめにする。黒人に関しては、彼らの極度の苦しみ、人格破壊の深さについて表現するには、わたしの筆の力は弱すぎる。
しかし、この邪な制度に起因し、蔓延する道徳の破壊に気づいている奴隷所有者は、ほとんどいない。枯れ葉病にかかった綿花の話はするが-我が子の心をカラスものについては話すことはない』
『わたしは自分にこう言いきかせてみた。「人間にはわずかでも正義の心があるはずよ」。だが、そうつぶやいたあと、奴隷制がどのように、人間が持って生まれた心に反し、ひとに道を踏みはずさせてきたかを思い出して、嘆息した』
この「リンダ」の警鐘は、現代を生きる僕らにも無関係ではないはずだ。中絶、生活保護、特殊詐欺、薬物、延命治療、介護など、現代に深く根ざす様々な問題に対して、僕らは常に真っ当な立場を取ることが出来ていると言えるだろうか?表向きに存在する制度であれ、暗黙の了解であれ、社会の中には様々なルールが存在し、僕らはそのルールに思いのほか縛られて生きている。奴隷制は、現代の目から見れば“明らかな”悪法だと誰だって分かる。しかし奴隷制が存在した当時、それがよほど悪い制度であると持っていた人はどのくらいいただろうか?同じことは、現代を生きる僕らにも突きつけられるべきだろう。「僕らがそうと気づかずに従っている“明らかな”悪法に、僕らは従順に従っているのではないか?」という問いを自らに向けて突きつけるべきだろう。
『もしも、わたしの子どもが、アメリカでいちばん恵まれた奴隷に生まれるのならば、お腹を空かせたアイルランドの貧民に生まれるほうが、一万倍ましに違いない。』
『ヨーロッパの貧民がいかに虐げられているかという話を、わたしはそれまでさんざん聞かされてきた。わたしがそこで出会った人々の大半が、その中でも最も貧しい人々であった。だが、茅葺きの彼らの家を訪ねてみて感じたことは、最もみすぼらしく、無知な者の状況も、アメリカで最も優遇された奴隷よりもはるかに良い、ということだった』
僕らも、同じ時代を生きる誰かをこんな風に思わせるような“明らかな”悪法に加担しているのではないか?そんなはずはない、とあなたは思うだろう。僕も、そう思いたい。しかしそれは、ただ視界に入らないだけなのだ、と僕は思う。「そんなはずはない」と思える僕たちは幸せなのであって、絶望的な環境の中で、未来への希望どころか、明日の生活さえ覚束ないような日常を送っている人は、現代にもたくさんいるはずだ。
『だからと言って、幸せな読者のお嬢さん方、憐れで孤独な奴隷少女を、どうぞあまりきびしく判断しないでください。あなたは子ども時代から、ずっと純潔が庇護される環境に育ち、愛を向ける対象を自由に選べ、「家庭」というものが法に守られているのですから。もしも奴隷制がとっくに廃止されていたなら、こんなわたしだって好きな男性と結婚できただろう。法に守られた家庭を持っていただろう。そして、これから物語るような、つら告白をしなければならないこともなかっただろう』
『良識ある読者よ、わたしを憐れみ、許してください!あなたは奴隷がどんなものか、おわかりにならない。法律にも監修にもまったく守られることがなく、法律はあなたを家財のひとつにおとしめ、他人の意思でのみ動かすのだ。あなたは、罠から逃れるため、憎い暴君の魔の手から逃げるために、苦心しきったことはない。主人の足音におびえ、その声に震えたこともない。わたしは間違ったことをした。そのことをわたし以上に理解しているひとはいない。つらく、恥ずかしい記憶は、死を迎えるその日まで、いつまでもわたしから離れないだろう。けれど、人生に起こった出来事を冷静に振りかえってみると、奴隷の女はほかの女と同じ基準で判断されるべきではないと、やはり思うのだ』
「リンダ」が置かれた状況は、本書を読めば分かる。あまりにも壮絶だ。死んだ方がましだ、と思うような状況を幾度も乗り越えてきた。親しい人と二度と会えないことを覚悟し、道徳に背く行いを許容し、家族を手放し、絶えることのない恐怖に浸かっていた。6歳の時、自分が奴隷だと知った「リンダ」は、それから20年近くに渡って絶望的な闘いを繰り広げてきた。ついに自由を手にし、子ども二人と再会出来たことは、まさに奇跡と言っていい。
『まっすぐな生き方がわたしは好きで、言い訳に逃げることは、いつでも気がすすまない』
そんな奇跡を引き寄せたのが、「リンダ」の誠実さであろう。奴隷という身分でありながら、人間としての真っ当な権利を常に奪われ続けながら、それでも人間としての高潔さを失わなかった「リンダ」。「リンダ」の不道徳な行いは、奴隷制度に抵抗するという目的のためだけに成された。奴隷所有者である白人たちの不埒な行いに屈することなく、自分の正しさを貫き通した「リンダ」。「リンダ」と同じ状況に置かれた時、同じような高潔な生き方を貫き通すことが出来るだろうか、と考えると、「リンダ」の生き様がより輝いて見えるだろうと思う。
本書を読むのは二度目だ(一度目の感想はこちら)。詳しい内容紹介や、本書に光が当たった経緯などは、一度目の感想を読んで欲しい。ここでは割愛する。内容については、6歳で自らが奴隷であると知った少女が好色な老医師に売られ酷い扱いを受けるが、15歳の時にある決断をし、7年間の潜伏生活を経て自由を手にするまでの、一人の奴隷少女の半生を描いた作品だ、とだけ書いておく。
二度目の感想では、母と子に焦点を当てた。
僕には子どもはいないが、ごく一般的な親であれば、「子どもが自分より先に死ぬのを見ることほど辛いことはない」と考えるだろう。しかし「リンダ」は、自分自身や周囲の奴隷が、「子どもが死んでしまう方がまだましだ」と考えざるを得ない環境にいるのだ、ということを自覚していた。
それはなんと壮絶な環境だろうか。そう考える母親は、子どもを愛していないわけではない。むしろ、並以上の愛情を子どもに注いでいるのだ。そうあってなお、子どもの死を望んでしまう。それは、現代で生きる僕らには、少なくとも、この本を買って読むことが出来る僕らのようなごく普通の人には、想像も出来ないような環境だろう。
『フリント婦人は、奴隷に感情が持てるとは、一度も考えたことがなかった』
その時代を生きていなかった僕には、このことがどうしてもうまくイメージ出来ない。テレビで昔、こんなことを言っていた。害獣駆除をしている猟師は、猿だけは打つのに躊躇してしまうのだ、と。仕草がまさに人間のようで、打つのに忍びなくなってしまうのだ、と。
黒人は、「人間のよう」ではない。まさに人間なのだ。猿でさえ、打つのに躊躇してしまうのに、同じ人間を見て「感情が持てるとは、一度も考えたことがなかった」と思えるとは、僕にはどうしてもうまく想像が出来ない。
なんとか僕がイメージの助けを借りたのは、捕鯨の話だ。
日本人にとって捕鯨は、昔からの伝統だ。イワシやウシを食べるのと同じようにして、クジラを捕獲しては様々に活用していた。
しかし欧米ではその感覚は通用しないようだ。欧米ではクジラやイルカは、イワシはウシとはまるで違う知性のある存在と見なされているようで、そんな知性のあるクジラやイルカを捕まえている日本人は野蛮だ、という認識になっている。
正直僕にはこの感覚はイマイチ理解できない。多くの日本人がそうだろうと思う。しかし欧米人の、クジラやイルカを見る眼差しが、結局勝った。欧米人は、野蛮な日本人を懲らしめ、知性のある生き物を救うことが出来たことを誇っていることだろう。
僕ら日本人がクジラやイルカを見る視点が、もしかしたら、当時の白人が黒人を見ていた視点に近いのだろうか。そんな風に考えてみた。捉え方としては容易い。しかし、やはり分からない。人間とクジラは、形も大きさも言語もまるで違う。白人と黒人は、形も大きさも言語も同じ、ただ肌の色が違うだけだ。肌の色の違いだけで、同じ人間を「感情を持てない生き物」と見なすことが、本当に出来るのだろうか?僕にはうまく想像が出来ない。
『鞭で打たれる痛みには耐えられる。でも人間を鞭で叩くという考えには耐えられない』
本書は、多様な読み方を与えてくれる作品だ。
人間がいかに残虐になれるのかを教えてくれる。
人間がいかに高潔さを貫くことが出来るのかを教えてくれる。
人間が他人にどれほどの優しさを発揮することが出来るのかを教えてくれる。
正しい生き方がどれほどの人間の心を動かすのかを教えてくれる。
「常識」がいかにして間違うのかを教えてくれる。
人を想う気持ちの美しさを教えてくれる。
絶望的な環境の中で生きる希望を見つけ出す方法を教えてくれる。
辛いだけの物語なら強くは勧めない。
人として生きていく上で忘れてはならない、捨ててはならない、無視してはならないことが、この作品には詰まっているのだ。