【本】額賀澪「ヒトリコ」感想・レビュー・解説
一人が似合う人を好きになることが多い。
大勢の中心にいても、友達がたくさんいても、あるいは部屋に閉じこもっていてもいい。ただ世の中には、「一人が似合う人」がいる。無理して一人を気取っているわけでも、本当は一人は嫌なのに一人でいなきゃいけないとかでもなく、ごく自然に一人である人。どこにでも一人で行けるし、誰かの存在を前提にしていないし、誰かのための場所を空けておいたりもしない。そんな人。
僕がそういう人を好きになるのはたぶん、自分がそういう人間になりたいからだと思う。
大人になった今は、大分、そういう人に近づけているかなと思っている。でも、昔の僕は、それが出来なかった。一人は、怖かった。どこかに属していたかった。自分が会話に参加していなくてもいいから、どこかの集団に混じっているフリをしたかった。
子供の頃は、一人であることを恐れていた。
今でも、その気持ちがまったくなくなったというわけではない。でも、一人であることを比較的受け入れられている今となっては、昔の自分がどうして一人を恐れていたのか、うまく掴みにくい。何を怖がっていたんだろう?と思う。
でも、「学校」というのはそういう場所だ。離れてみて、そんな風にも思う。
この作品の中で僕が一番嫌いなのは、「山野」という女の子だ。常に周囲の力関係を伺って、強いものになびこうとし、自分の安全を確保してから行動する。あぁ、こういう人は嫌だなぁ、と思う。
でも、同時に、山野のような振る舞いを理解できてしまう部分もある。それが、「学校」という空間の魔力なのだ。
学校という名の空間には、「ドア」が少ない。
大人になれば、この「ドア」はたくさん視界に入るようになる。そのドアは、開いていたり半開きだったり閉じていたりするが、視界には入る。開いているドアならその向こうの世界が見渡せるし、開いていなくてもそのドアの向こうに何か世界が広がっているはずだという予感を抱くことは出来る。大人になる、というのはつまり、たくさんのドアが見える場所で生きていくということであって、だから僕らは窮屈さをそこまで感じずにいられる。何かあっても、あのドアから飛び出せばいいんだ。そう思えるようなドアが、たくさん見えるから。
学校という名の空間には、「ドア」が少ない。ほとんどないと言ってもいい。「イマ」「ココ」にしか世界がないから、どうにかその世界の中でやっていくしかない。何か武器を持っていればともかく、ないならないなりに戦うしかない。
そういう中で、山野は山野なりの戦い方をするし、他の人は他の人の戦い方をする。きっとみんな、たくさんのドアが見える世界で生きていればしないであろうことを、「学校」という世界の中ではしなくてはいけない。
だから、そんな閉じられた世界の中で一人を貫けるヒトリコには惹かれてしまう。
きっかけは、金魚だった。
小学五年生の時、日都子はクラスメートの冬希と共に生き物係だった。金魚を飼うことになったのだが、日都子が世話をしたくないことを汲んだ冬希は一人で世話をすることに決める。日都子はクラスの中心にいて、いつも楽しそうに過ごしていた。
冬希は、学校に執拗にクレームをし続ける母親に悩まされており、それもあって引っ越しをすることになった。残された生き物係である日都子はやりたくもない金魚の世話をすることになったが、ある日金魚が死んでいるのが見つかった。
冬希に偏執的な好意を抱いていた担任の教師は、日都子が金魚を殺したのだと断定した。そしてその日から日都子は一人になった。誰とも喋らなくなった。そうして「ヒトリコ」は生まれた。ヒトリコは、ピアノを教えてくれる「キュー婆ちゃん」以外には、心を開かなくなった。
金魚の事件の日まで日都子と親友だった嘉穂。幼稚園の頃から仲の良い男子だった明仁。三人の関係性は、その日以来壊れてしまった。中学、高校と、彼らは「後戻り出来ない何か」を自分たちの内側でそれぞれに処理しながら、時間をやり過ごすように生きていく…。
この作品を読んだ人間は、ヒトリコのことをどう思うだろう?
もし、同じクラスにヒトリコがいたら、僕ならどうするだろう。学生時代の頃の僕なら、恐らく関わらなかっただろう。たぶん、ヒトリコに惹かれることも、なかったんじゃないかと思う。その当時の僕は、「一人でいないこと」に価値を置きすぎていて、「一人でいること」の価値をたぶん理解できていなかっただろうと思う。
今の僕は、ヒトリコが好きだなと思う。「関わらなくてもいい人とは関わらない」という信条を積極的に口にして人を遠ざけ、一人でいることへの悪感情を一切見せず、まさに「孤高」としか言いようのない佇まいで日々を過ごすヒトリコのことを、とても好ましく感じる。
ヒトリコが、こんなことを言う場面がある。
『もし金魚がしななかったら、私は多分、すごく嫌な奴になったと思う』
僕は、この言葉に強く共感するのだけど、同時に、これは日都子の本心ではないはずだと思ってもいる。
僕も日都子のように、「もし◯◯だったら」という場合の自分を考えてみることがある。僕は、たぶん外側から見ると、結構ダメダメな人生を歩んでいるんだけど、僕はその一つ一つの選択は最良のものだったと今でも思っている。たとえば僕は大学を中退しているのだけど、本当に僕は「大学を中退してなかったらたぶん死んでたな」と思っている。大げさかもしれないけど、そう思う。人生の色んな選択に対して、僕はそんな風に感じている。あそこでああしたから今こうなんだ、あそこでああしなかったから今こういられるんだ、と。
だから日都子が、金魚が死ななければ自分が嫌な奴になってたと言う気持ちは、凄くよく分かる。
同時に僕は、僕自身をまったく信用していないので、「自分に言い訳しているだけだろう」とも思っている。つまり、大学を辞めたことをマイナスと捉えたくないから、無理やり良いことを思い込んでいるだけなのではないか、と。僕自身の意識にはそんなつもりはないのだけど、僕の無意識がそんな風に判断している可能性はあると思っている。
だから、日都子のこの発言も、現実をねじ曲げているだけかもしれない。でも、それはいい。まったくいい。日都子は、現実をねじ曲げてでもしたくなかった生き方がある。一人ぼっちになってしまっても、山野や嘉穂のようにはなりたくなかったのだ。現実をねじ曲げることで、日都子はヒトリコを手に入れた。それがどれほどしんどい生き方であろうと、それがどれほど現実をねじ曲げていようと、日都子がその日常を肯定しているならいい。
金魚事件以降もずっと日都子を見続けている明仁。色んな面でイマイチ振り切れないキャラクターなのだけど、日都子と関わり続けるのだ、という意思は見事だと思う。明仁は日都子からまったく相手にされないが、明仁は日都子と関わろうとし続ける。
もちろんその背景には、様々な感情があるのだけど、日都子と明仁という歪な関係を成り立たせているものは、明仁の強い意思だ。明仁のように振る舞えるかと言われれば、僕には無理だ。強すぎる「影」に強靭な意思で対峙し続ける明仁の有り様は、とても好感が持てる。たとえ、過去に明仁が何をしていたとしても。
後半で、冬希が再度登場する。冬希が登場してからの物語は、トーンが大分変わる。それまでの重苦しい、沈み込んでいくかのような世界に色がついたみたいな感じだ。
ある時冬希は日都子に、こんな風に言う。
『とりあえず、日都子ちゃんに関わってもいいかなって思ってもらえるように頑張るよ』
少し前、僕にもそんな風に思える人がいた。友達でなくてもいい。ただ、その人の世界の端っこに居させてくれたらいいなぁ、と思える人が。まあ、そううまくは行かなかったんだけど。
そんなことがあったから、なんとなく冬希の気持ちが分かる。無理に距離を縮めようとするでもなく、日都子が嫌だと思うことをするでもなく、ただ近くにいる。相手に出来るだけ負担を掛けないまま、相手の方からドアを開けてくれるように努力する。
そんな風に自分に接してれる冬希の存在は、日都子にとって救いだったはずだ。
日都子はきっと、ずっとずっと「助け」を待っていた。「助け」という言葉は日都子が嫌がるかもしれないから、「きっかけ」と言ってもいい。日都子がヒトリコであるという状況は、もはや、日都子の力だけではどうにもならない。日都子は、ヒトリコであり続けるために、あらゆる「救い」に手を伸ばすことが出来なくなっている。ヒトリコは、誰にも助けを求めないし、助けて欲しそうにもしない。だから、外部からの何かの「きっかけ」がなければ、何も変われない。
冬希は、日都子がヒトリコであり続けながら少しずつ変わっていく「きっかけ」を与えてくれる。冬希のあり方は、とてもいいなと思う。明仁や嘉穂には出来なかったことを、しばらく東京に出ていた冬希がやってのける。それは、しばらく離れていたという条件だけではなく、冬希にも「関わらなくていい人」がいたことが大きい。
冬希の辛さは、その「関わらなくて人」と「関わらなくていい」と思えなかったことにある。しかし、日都子は、冬希が葛藤し続けたその悩みを、あっさりと飛び越えているように見えた。冬希にとっては、「ヒトリコ」というのは、自分に出来ないことをやり遂げたヒーローみたいな存在でもあるのだ。そういう気持ちでヒトリコと接しようとした人間はこれまでいなかった。だから日都子も調子が狂って言ったのだろう。冬希と関わるとどうも、日都子はヒトリコではいられなくなる。
いずれ、ヒトリコは消えるかもしれない。一部だけ日都子の中に残るかもしれない。あるいは日都子はヒトリコを結局手放せないかもしれない。それでも、一つ確信が持てるのは、日都子は前に進める、ということだ。たとえ、ヒトリコを引きずったままであったとしても、日都子は前に進める。進んでいる。そういう予感を抱かせるラストが良かったと思う。
キャラクターや舞台設定などから、どうしても辻村深月を連想してしまうし、辻村深月と比べてしまうと、やはり「濃さ」では劣ると感じてしまうのだけど、派手さのない物語を丁寧に読ませる筆力のある作家だと感じました。あなたの中の「ヒトリコ」が刺激される物語だと思います。