【本】一木けい「1ミリの後悔もない、はずがない」感想・レビュー・解説
人を好きになるのは、苦手だ。
苦手というか、大体うまくいかない。
うまくいかないから、なるべく人を好きにならないようにしている、つもりだ。
そもそも、なかなか他人に関心を持つのが難しい人間だ。
誰かと過ごす時間は嫌いじゃないけど、相手の存在ごと共有するような時間の過ごし方は、どうもうまくいかない。
程よい距離から眺めて、時々触れられるぐらい近づいて、でも触れるわけでもなくまた離れる、ぐらいの感じが、僕には向いているなと思う。
僕がこんな風に思えるようになったのは、ちゃんと僕にも、心を掻きむしるぐらい人を好きになったことがあるからだ。
そういう自分は、なかなかうまく制御出来ない。
『ゆっくり過ぎてほしい時間なんて、桐原といるときだけだった』
『桐原に会うために疾走しているときはいつも、命を生き切っているという実感があった』
『煙草の匂いはきらいなのに、ここにいるときだけ好きになる』
自分の意思では御しがたい何かが時空を歪ませるように、日常の世界が変わる。いつもと同じ時間/空間にいるはずなのに、何かが違う。本当に、そんな気分になる。
そのことは、凄く良いことだ。自分の内側に、それまで自分が持っているとは思っていなかったような感情があることに気づいたり、自分の言動が自然と非論理的になっていく感じとかは、やはり日常の中では体験出来ないからだ。誰かを好きになることは、簡単に、あっさりと、人間の本質を変えうる。
でも、だからこそ、僕は怖いと思った。
『いつか失うくらいなら、手の届かないものを望んだりしない方がいい』
『うしなった人間に対して1ミリの後悔もないということがありうるだろうか』
あるものは、いつかなくなる。だったら、最初からない方がいいんじゃないか。僕は、手放したくないと感じるものに出会う度に、そう感じるようになっていった。その怖さは、いまでもずっと持ち続けている。それが大切で大切で、手放したくないと思えるものであればあるほど、手に入れたくない。
僕のそんな気分が、人を好きになることを遠ざけている。
でも、そう思えるようになったのも、人を好きになった経験があったからだ。そういう自分がかつていたことは、良かったと思う。誰かを好きになり、近づいて離れて、というような経験が、少ないながらもあるからこそ、人をなるべく好きにならないようにしよう、と思えるようになった。そう思えるようになった今は、生きやすくなったなと思う。
でも、こういう小説を読むと、やっぱり思う。そりゃあ、人を好きになって、自分の本質が否応なしに変化してしまうような人生の方が、楽しいかもしれないよなぁ、と。でも、同時にこうも思う。それってやっぱり、楽しいだけじゃないんだよなぁ、と。ズルい男になれば、楽しいだけでいられる可能性もある。本書にも、そういう男はちらほら登場する。でも、なるべくそういう人間にはなりたくない。
『ほんとはアウトなのに、きちんとルールを守ってる子と同じっていうのが、なんか』
『約束を破った顧問と、話を聞きもせず切り捨てた担任を、責める資格など自分にはないのかもしれない。だってあたしも卑怯だから』
こういう認識を、僕はちゃんと持ち続けながら生きていたい。
失敗したり傷ついた経験があるからこそ前に進んでいける。そういうことはある。自分を支えてくれるだけの何かにいつ出会えるか。それを知ることは誰にも出来ないから、だからこそ、いつだって僕たちは体当たりで前進しながらぶつかっていくしかない。
内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された連作短編集です。
「西国疾走少女」
わたしは桐原と出会った。脚が机に収まりきらないほど大柄で、中学生に見えない。わたしは、桐原の、色気としか呼びようのない何かに惹かれた。ミカ、金井、桐原の四人で一緒にいることが多くなり、自然と桐原との距離も縮まっていった。桐原と一緒にいる時は、無敵だった。それが、自分のすべてになっていった。母子家庭で、父親が生活保護を申請したという通知が届く。時折父親に会いに行っても、不快な思いをするだけ。教師も嘘つきばかり。そんなクソみたいな日常でも、桐原に会うために西国分寺を疾走しているわたしは最強だ。
「シオマネキ」
ミカは、尿意が限界でトイレを探している時、その男と出会った。正しくは再会だったが、ミカはそうと気づかなかった。高山は、中学時代のミカのスターだった。ミカにとってだけじゃない。国分寺一モテていたはずだ。その高山は、変わり果てた姿で目の前にいる。
ミカは中学時代、加奈子とよく一緒にいた。加奈子と一緒にいる時間は、快適ではなかったけど、キラキラしている加奈子からは離れられなかった。失ったら、独りになってしまうから。憧れの高山先輩を時々追いかけつつ、ミカは、金井や桐原、そして加奈子の小学校時代の同級生で、あまりの貧乏故にみんなから嫌われていたという由井とよく一緒になった。
「潮時」
僕は飛行機に乗っている。このままちゃんと家に帰れば、由井さんと河子が待っている。自分の人生をすべて変えてくれた二人、妻と子。この二人のためなら何でも出来る。だから、酸素マスクが下りてきた時は絶望的な気持ちになった。由井さんは言っていた。毎日飛行機に乗っていても事故に遭う確率は438年に一回なのだ、と。だからきっと大丈夫なはずだ。
僕は施設で育った。漁師だった父と、そんな父をきちんと支える母との生活は、貧しかったけど楽しかった。けど、母が亡くなったことで、父は僕と弟を施設に預けざるを得なかった。
加奈子は、子供を産んでから元の体重に戻らない自分と今の境遇を重ね合わせる。先日、夫が浮気をしている決定的な証拠を見つけてしまった。でも、離婚なんて言い出せない。自分には何もないからだ。夫だけが、セックスのある生活をしている。加奈子は、学生時代のことを思い出す。桐原が好きだった。でも桐原が好きになったのは、自分が嫌悪していた由井だった。そのことにずっと、打ちひしがれていた。
「穴底の部屋」
泉の夫の実家では、鍋を食べた後で、家族が皆、取り皿の汁を鍋に戻す。初めてそれを見た時は衝撃的だったし、今だってこの後のおじやを食べずに帰りたいと思っている。義母は、どうでもいいような話を延々とする。義母と一緒にいる時間は、苦痛でしかない。
泉は高山と連絡を取る。時々理由をつけては家を出て、高山の家へと向かう。コンビニのアルバイトをしている高山を見て、電流が走ったようだった。この人しかいない―そんな直感に導かれて声を掛けて、セックスをするようになった。高山といる時間は、生きている感じがする。高山は他の女とも遊んでいるし、好きだみたいなことも言ってはくれない。でも、自分にそれを求める資格はないと思っている。義母との終わりなき苦痛の時間と、高山との至福の時間。自分の中で、バランスが取れなくなっていく。
「千波万波」
河子にとって、中学進学は衝撃的だった。小学校時代親友だと思っていた女の子が、中学に入ると突然河子を切ったのだ。彼女はクラスの人気者となり、そして彼女から排除された。河子は独りぼっちだ。友達を作ることも怖いし、学校にも行きたくない。
そう両親に訴えた。パパは分かりやすいほどうろたえて、だったら転校しよう、3人で引っ越そうとうるさい。ママは逆に、何を考えているのか分からない。でも、きっぱりした声で、「河子はどうしたい?」と聞いてくれる。
パパの金沢出張についていくことにした。金曜は学校を休むことにして、ママが学校に何か言ってくれたらしい。そのまま月曜日になっても帰らずに、青春18キップで西へ西へと旅を続けた。
ちょっと寄りたい―ママがそう言うのは初めてだった。昔この辺りに住んでいたことがあるんだ。そう言ってたどり着いたのは、九州の「蛍の町」と呼ばれている、陸の孤島と言えるようなところだった。
由井は夜逃げを繰り返す中で、一時期ここに住んでいた。そこで、常楽幸太郎とその一家にお世話になった。
というような話です。
凄く良い作品でした。読みながら、色んな作家を頭に思い浮かべました。本書は、「R-18文学賞」を受賞した「西国疾走少女」が収録された作品で、「R-18文学賞」繋がりで窪美澄がまず浮かびました。さらに、本書の作風から、「女版・朝井リョウ」とも感じました。ほぼ全話で登場する「桐原」という人物の名前も、そのイメージを後押ししました(「桐島、部活やめるってよ」の「桐島」を連想したのです)。また、最後の「千波万波」からは、江國香織を連想しました。母親と娘が同じような感じで放浪するような話を読んだ記憶があったし、やはり文体や作風などから近いものを感じました。
窪美澄・朝井リョウ・江國香織と挙げた名前からもイメージ出来るでしょうが、非常に繊細で内面描写が豊かで、揺れ動く性や青春の一瞬の実像みたいなものを見事に切り取った作品だと思いました。
先程僕が書いた内容紹介を読んでもらっても分かるでしょうが、ストーリー的には正直何が起こるということもありません。各話毎に微妙に折り重なった人物たちが、それぞれの人生を絵筆としながら描き出す、瞬間瞬間の光景みたいなものを写し取っているような作品です。
ストーリー重視じゃないからこそ、どの話も、そこに前後の物語があるだろうなと予感を抱かせます。話が始まる前から彼らはそこに生きていて、話が終わった後もその世界で彼らは生きていくんだなということが、ありありと想像できる感じがします。だからこそ、それぞれの話は短いですが、奥行きを感じさせる物語に仕上がっているんだろうという感じがします。
本書には、大別すると二種類の人物が登場します。一つは、周囲を気にしない人。もう一つは、周囲を気にする人。
桐原や由井なんかが、前者の筆頭でしょう。タイプは違いますが、高山も広く括ればこちらになるでしょうか。また、加奈子や泉なんかが後者のタイプです。そして、この二つのタイプの人たちが、同じ世界の中で、お互いのどうしようもなさみたいなものを交換し合いながら、無様な日常を生きていく様が描かれているんだと思います。
僕はやっぱり、前者の周囲を気にしない人に惹かれます。というのも、僕自身昔は周囲を気にしてしまう人で、気にしないでいられたらいいなぁ、という憧れがあったからです。今では割と気にしないでいられるようになったけど、その憧れだけは今でも残っている感じですね。
特に由井はいいなぁ。不動、という感じがする。かなり辛く厳しい境遇の中で生きているはずなのに、何故だか由井からは悲壮感を感じない。それでいて、彼女のために何かしてあげたいという気分にはなる。由井も比較的どの話に中にも出てくるんだけど、どういう登場の仕方でも存在感があるなと感じました。
由井の場合、とにかく周囲からのあれやこれやに煩わされている場合じゃなかった、というのが本音でしょう。そんなことに時間を割かれているよりは、もっとやらないといけないことがある。それこそ、生き抜くために。
そしてそんな由井を支えることになったのが、桐原だった。
『桐原と出会ってはじめて得た自己肯定感は、すさまじかった。あの日々があったから、その後どんなに人に言えないような絶望があっても、わたしは生きてこられたのだと思う』
由井にとって桐原を想う気持ちは、ただ恋愛だったわけではない。それは、自分を認めるための時間だったし、自分の人生を許容する覚悟を決める時間でもあった。そのことが、羨ましいし、眩しい。まさにその一瞬にしか発することが出来ない光によって、由井は生き延びている。そのことが、なんだか凄くカッコイイと思う。
桐原も、とても良い。桐原については基本的に、誰か別の人からの描写しかないので、桐原の内面についてははっきりとは分からない。でも、自分の考えをきちんと持っているし、すべきことをすべきタイミングでする人、という感じがした。誠実、ということばだと嘘くさくなってしまうような、もう少しちゃんとしていない部分も孕んでいるような、それでいて最終的にはきちんとすべてをまとめていくような、そういう印象がありました。
一方、周囲を気にする人たちは、ずっと揺れ動いています。自分の生き方がこれで良かったのか、今自分はどうするべきなのか、あの時どうするべきだったのか―。自分自身に芯がなく、周囲の人とか常識とか当たり前とか言ったような、いつでも揺れ動いてしまうようなものに無意識的に身を任せてしまっているために、いつまで経っても落ち着かない。自分の人生を受け容れられないし、認められない。年を重ねれば重ねるほど、本当は過去のどこかの時点で取り返すべきだった負債とか後悔みたいなものがジワジワと利いてきて、出来ることと言えば、その負債や後悔を取り返せない年齢になってしまったことを嘆くことぐらい。そういう、どん詰まりみたいな生き方をせざるを得ない人も出てくる。
周囲を気にしない人と気にする人は、社会の様々な場所で交わっている。その汽水域みたいな空間を、著者は見事に描き出していく。学生時代イケイケだった人が、大人になってからパッとしなくなる―なんてことは現実にもよくある話だろうけど、本書でもまさにそんな描かれ方をする人が多く出てくる。学生時代、特に目立っていたわけではない人間としては、そんなところにも仄かな嬉しさみたいなものを感じてしまう。
皮膚を突き破ってくるかのような衝撃にビリビリと来る小説です。