【本】飲茶「哲学的な何か、あと科学とか」感想・レビュー・解説
久々に、ド級に面白い作品を読んだ。
自分の趣味のど真ん中、ということももちろんあるが、面白かった理由はそれだけではない。
正直なところ、本書に書かれている事柄は、ほとんど別の本で読んで知っていることばかりだった。そういう観点から本書を捉えれば、面白い本ではなかった、という感想になってもおかしくはない。
けど、そうはならなかった。
何故か。
それは、本書が「科学のびっくりする話を集めてみました」というような造りの本ではないからだ。
本書にはきちんと、「科学とはどういう営みなのか?」を伝えたいという、強い意志が込められているのだ。
『などなど、哲学的な視点で「科学的な正しさ」を問いかけていくと、実はそれがかなり危ういものだと気づかされるだろう。いままで確かだと思っていた景色がガラガラと崩れる瞬間は、怖いけども、ちょっぴり楽しかったりもする。』
本書は、主に科学のエピソードを様々に取り上げながら、「科学とは何か?」を伝えようとする。そういう意味で本書は、日常を生きる僕たちが読んでおくべき一冊だと感じるのだ。
何故なら、僕たちの日常は「科学的なもの」に取り囲まれているにもかかわらず、僕たち自身の手や目でその「科学的なもの」を確認することが出来ないほど複雑になってしまっているからだ。
たとえば。築地移転において豊洲の土壌汚染の問題が発覚した。多くの国民は、築地市場は既に耐震性や衛生面で問題を抱えているというのに、豊洲の土壌汚染の方を重視し、豊洲への移転を「安全ではない」と判断しているような印象がある。そしてそういう中で、土壌汚染を調査している科学者のチームにマスコミの人が「安全かどうか」を問うている場面をテレビで見かけて、それは科学者に向ける問いではないなぁ、と僕は感じてしまうのだ。
人は「科学」と聞くと、現実をはっきりと理解し、物事を明確に判断するものだという印象を受けるようだ。どんな仕組みかは分からないが、「科学」というブラックボックスを通せば、世の中のあらゆることに白黒つけることが出来る、と思っているようだ。だからこそ、豊洲の問題についても、科学者に対して「安全かどうか」を問う、という行動が生まれるのだ。
しかし、「科学」というのはそういう営みではない。本書を最初から最後まで読めば実感できるだろうが、「科学」というものを通せば通すほど、余計に目の前の現実が分からなくなっていくのだ。「科学」というのは、物事をくっきりさせるどころか、より深い混沌へと導くものでもあるのだ。
本書を読み、「科学」というのがどんな営みなのかを理解すれば、「科学」というブラックボックスに放り込めば何でも分かる、なんていう幻想は消え去るだろう。
科学者は、「科学」の限界をきちんと認識している。認識しているからこそ、「科学」という「道具」を使って、有益な成果を生み出すことが出来るのだ。本書は、その限界の一端を垣間見せてくれる作品だ。「科学」に出来ることと出来ないことをきちんと見極めることで、「科学的に正しい」という言葉が何を意味しているのかきちんと理解できるようになるだろう。驚くかもしれないが、「科学的に正しい」というのは必ずしも、「現実がそのようになっている」ことを保証しないのだ。
『そもそも、科学の役割とは、「矛盾なく説明でき、実験結果を予測できる理論を作ること」である。
だから、ぶっちゃけ、「観測する前は波!観測されると粒子に大変身!」ということが、「本当に起きているかどうか」なんてことは、科学にとって、どうでもいいことなのだ』
この発言の背景を少しだけ説明しよう。量子力学という物理の分野に、二重スリット実験という有名な実験がある。詳細は省くが、その二重スリット実験によって、「光は波でもあり、同時に粒子でもある」と考えなければ説明がつかない実験結果が得られたのだ。これは、僕たちの日常感覚からすれば到底受け入れることが出来る考え方ではない。そもそも、波でもあり粒子でもある状態、なんて誰も想像出来ない(これは、そう主張している科学者にしても同じことだ)。
しかし、「光は波でもあり粒子でもある」と考えると、目の前の実験を矛盾なく説明でき、また何らかの実験をした場合の結果を予測出来るのだ。
だったら、とりあえずそう考えようぜ、というのが「科学」という営みのスタンスなのだ。
『だから、決して科学は、「コペンハーゲン解釈(注:光は波でもあり粒子でもある、という考え方)が説明するとおりに、現実もホントウにそうなっている」とは述べていないことに注意してほしい』
恐らくこれは、あなたが抱いていた「科学」というものに対するイメージを大きく変えるのではないかと僕は思う。「科学」というのは、目の前で起こっている現象をきちんと理解した上で理論を組み立てるのだ、と思っていたのではないだろうか。でも、そうではないのだ。目の前で何が起こっているのかはまったく分からないが、とりあえずこう考えると矛盾しない理論が作れるし結果の予測も出来るから、じゃあそういうことが起こっていることにしようぜとりあえず、と考えるのが「科学」なのである。
『だから…。
この世界は、ホントウはどうなっているの!?世界は、いったい、どのような仕組みで成り立っているの?
という、古くから科学が追い求めてきた「世界のホントウの姿を解き明かす」という探求の旅は、科学史のうえでは、すでに終わっているのである。
科学は、世界について、ホントウのことを知ることはできない。
「ホントウのことがわからない」のだから、科学は、「より便利なものを」という基準で理論を選ぶしかないのだ』
信じられないかもしれないが、これが現在の「科学」が行き着いた到達点である。科学者は、この限界についてきちんと理解をしている。だから、「科学」の範囲で出来ることを探し、日々新たな成果を生み出している。しかし、科学者ではない者は未だに、「科学」というものを万能であるかのように感じてしまう。「科学」というブラックボックスに放り込んだものは真実の姿を見せるのだ、と思ってしまう。
ここに、大きなギャップがある。このギャップは、科学者にとっても科学者でない者にとっても不幸しか生まない。このギャップを埋めることが、「科学」が人類にとって有用であり続けるために最も重要なポイントだと言ってもいいだろう。
ここまで読んで、なーんだ「科学」って役立たずじゃん、と思った方がいたとすれば、それは違うと僕は言いたい。確かに、「科学」では「世界のホントウの姿」を明らかに出来ないかもしれない。しかし、「科学」が人類に様々な恩恵や成果を与え続けてきたし、これからも与え続けるのだということだけは間違いない。結局のところ、「科学」に何を求めるかの問題なのだ。「科学」に幻滅したとすれば、それはあなたが「科学」に対して望んでいるものは的外れだ、ということに過ぎない、ということが、本書を読むと理解できるだろう。「科学」という営みが人類全体にとって有益であるためには、「科学」によって出来ることは何で、出来ないことは何なのかということについて、社会全体で共通の認識を持つことだろう、と僕は思う。
そういう意味で、本書はむしろ、「科学」が苦手だったり嫌いだったりする人に読んで欲しいのだ。あなたが思い込んでいる「科学」の姿を打ち砕き、「科学」に何を求めるべきなのかをきちんと理解してもらうために、本書を読んで欲しい。
さてここまでで僕は、「科学とは何か?」というものを、「科学が担うべき役割」という側面から描いてきた。本書の中では、また別の側面から「科学とは何か?」を描き出す。それが、「科学でないものとは何なのか?」という側面だ。
よく「エセ科学」や「ニセ科学」という言葉を見かけることがあるだろう。これらはもちろん、「科学ではない」という意味で使われているのだが、それでは「科学ではない」とは一体どういう意味だろうか?
これも、きちんと理解しておくべきだろう。日常の中には「エセ科学」が溢れている。目の前の事柄が「科学」なのか「エセ科学」なのかを見極めるための指標を知っておくというのは、とても大事なことではないかと思う。
「科学」と「エセ科学」を区別することは、実はとても難しい。というのも、「エセ科学」であっても、どこからどう見ても矛盾しない理論、というのはいくらでも存在するからだ。
ここで少し、「非ユークリッド幾何学」について話そう。
本書の前半で、「公理」という項目がある。「公理」というのは、「あまりにも当たり前だから証明しなくてもいいよね」という法則だ、と思ってもらえたらいい。例えば、「線分の両端は無限に延長できる」などだ。これは、どう考えても当たり前だろう。
さて、その「公理」の中に、「二つの平行線は互いに交わらない」というものがある。これも、そりゃあそうだろうよ、と思うくらい当たり前の法則だろう。数学の根本を成す「公理」は5つあり、平行線は交わらないという公理は「平行線公準」と呼ばれている。紀元前からこの「公理」をベースに数学というのは組み立てられており、5つの「公理」をベースにした数学を「ユークリッド幾何学」と呼んでいる。
1800年頃、あの天才数学者・ガウスが、この「平行線公準」を満たさないとしても、つまり「二つの平行線が互いに交わる」と考えても、矛盾のない幾何学の体系を作り出せることが分かった。それは「非ユークリッド幾何学」と呼ばれ、実は僕らが生きている現実により近いのは「ユークリッド幾何学」ではなく「非ユークリッド幾何学」であることも判明したのだ。
『このことの最大の問題点とは、
「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」
ということなのだ』
「非ユークリッド幾何学」の発見によって、「絶対的な真理の記述」というのが幻想であり、あらゆる学問の理論体系は、「ある一定の公理をもとに、論理的思考の蓄積で作られた構造物」と見なされるようになったのだ。
さて、話を「エセ科学」に戻そう。「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」ということが判明した以上、理論がそれ自体で矛盾を孕んでいるかどうかを、「科学」と「エセ科学」の境界にすることは出来なくなった。
これは困った。この問題が浮上した当時、怪しげな理論がどんどん生まれ、それらの中から「科学ではないもの」を排除する必要に迫られていたのだが、誰もその境界を示すことが出来なかったのだ。
そこで登場したのが、ウィーン学団。彼らはウィーン大学の哲学教授を中心としたグループで、「論理実証主義」によって「科学」と「エセ科学」を見極めてやる、と主張したのだ。
さて、その結果どうなったのか。なんと、「科学と擬似科学のあいだに、境界線はない。ていうか、擬似科学しか存在しない!」という結論になってしまったのだ。多くの科学者が「科学」だと考えているものまで、ウィーン学団にかかってしまえば「エセ科学」扱いされてしまったのだ。
これも困る。なんとか「科学」と「エセ科学」に境界を見つけることが出来ないだろうか。
そこで登場したのがポパーである。ポパーが提唱したのは、「反証可能性」というものだ。大雑把に言えば、「反証可能性を持つものが科学であり、反証可能性を持たないものがエセ科学だ」とポパーは主張したのだ。
では、反証可能性とは何か。噛み砕いて言えば、「その理論が間違ってると指摘される可能性」のことだ。
例を挙げて説明しよう。昔読んだ本には、こんな例があった。透視が出来る、という男がおり、とある教授が実験を行っている。実験の詳細は何でもいいのだが、とにかくその男が透視が出来たと示せるような実験を、観客の前で行うのだ。
しかしその教授は、実験の前にこんなことを言う。
「もしこの部屋の中に、この男の透視能力を疑う者が一人でもいれば、彼は透視能力を発揮できない」
さて、この状態で実験をした場合、どういうことが起こるだろうか。
透視が出来た、という結果が出れば、それはいい。問題は、透視が出来なかった、という結果が出た場合だ。この時教授は、男に透視能力がないことを認めないだろう。何故なら教授は、「透視が出来なかったのは、この部屋に彼の透視能力を疑う者がいたからであり、この結果は彼の透視能力を否定するものではない」と主張できるからだ。
さて、この実験の場合、「透視が出来る、という主張が間違っていると指摘される可能性」はあるだろうか?透視が出来た、という結果が出れば正しいことになるし、透視が出来なかった、という結果が出れば観客が疑っていたせいにする。つまり、どんな結果が出ても、「透視が出来る、という主張が間違っていると指摘される可能性」はゼロなのだ。
この状態を「反証可能性がない」と言う。つまりこれは、「科学ではない」「エセ科学」だと考えていい。
『一般に「科学」と言えば、「明らかに正しいもの」「間違っていないと確認されたもの」というイメージを持ちがちであるが、実はそうではないのだ。面白いことに、「科学」であることの前提条件とは、「間違っていると指摘されるリスクを背負っているかどうか」なのである』
これは非常に面白い観点だと思わないだろうか?この視点もまた、「科学」というものの捉え方を一変させるだろう。
もちろんこの反証可能性という考え方も、決して万能ではない。究極的には、すべての科学理論は反証不可能だと言えてしまうのだ。だから本書には、こんな風にも書かれている。
『つまり、科学理論とは、
「うるせぇんだよ!とにかくこれは絶対に正しいんだよ!」
という人間の<決断>によって成り立っており、そのような思い込みによってしか成り立たないのだ』
とはいえ、反証可能性というのは一つの指標になることは間違いない。法律でもルールでも宗教でも何でもいい、目の前に何らかの理論めいたものがあった時に、「この理論が「間違っている」と指摘できる可能性はあるだろうか?」と考えてみよう。どう考えても「間違っている」と指摘できない場合、それは怪しげな理論だ、と思っていいかもしれない。
ちなみにこの「反証可能性」は、科学には当てはまるが、数学には当てはまらない。数学の場合、「数学的に証明された理論」は、未来永劫絶対に覆ることはない。もちろん、証明そのものに欠陥があるような場合は別だが、その証明が完璧であれば、数学の理論は覆らない。これが、「数学的に正しい」と「科学的に正しい」の決定的な違いだ。「科学的に正しい」というのは、概ね「現時点ではそう考えられている」という以上の意味を持たないが、「数学的に正しい」というのは、「100%正しい」と同じ意味である。恐らく数学や科学にあまり親しんでこなかった人には、この違いをうまく捉えられていないのではないかと思う。本書を読んで、特に「科学的に正しい」というのがどういう状態を指しているのか、実感して欲しいと思う。
僕たちは、「正しい」という言葉をあまり深く考えて使うことはない。しかし、「正しい」にも様々なグラデーションが存在し、様々な種類がある。本書は、「科学」という営みを「哲学」という切り口で眺めてみることで、「科学的に正しい」ということの意味合いを探っていく本だ。
難しい本に思えるかもしれないが、いくつか引用した箇所の文章を読んでもらえれば何となくの雰囲気は恐らく伝わるだろう、とても読みやすい本だ。扱われている内容は非常に高度で複雑だ(なにせ、科学者自身でさえも理解できていないことなのだから、難しいのは当然だ)。しかし、その難しさの本質をうまく取り出し、分かりやすく易しく説明をしてくれている。本書を理系の人間が読めば、漠然としか理解できていなかった数学や科学の複雑な状況を理解し、疑問が氷解していくことだろう。そして本書を文系の人が読めば、自分が「科学」をどんな風な思いこみで見ているのかが分かり、そしてその思いこみがかなり薄まるのではないかと思う。科学や哲学が嫌いだから本書を読まない、のではなく、嫌いだからこそ本書を読んでみる、そういう風に思って欲しいなと思う。
実に素晴らしい本だった。