【映画】「三度目の殺人」感想・レビュー・解説
人間は、他人のことを理解したい生き物だ。
それはつまり、他人のことを理解することが、自分の安心に繋がる、という意味だ。
僕の中には、あまりそういう感情はない。
むしろ、出来るだけ他人は、理解できない存在でいて欲しい。
いや、これはもう少し説明が必要だ。
僕にとってどうでもいい他人は、理解できる存在であって欲しい。あまり深入りしたくないから、簡単に理解できて、簡単に扱える人であってほしい、と感じる。
しかし、僕にとってどうでもよくない他人、自分が深く関わりたいと思える他人は、出来るだけ理解できない存在でいて欲しい。理解できない存在であればあるほど、僕の興味は持続する。その人を理解したい、という気持ちこそが、僕の他人に対する関心の根源であって、だからこそ、理解できてしまっては困る。いつまでも「理解したい」という気持ちを持ち続けるために、その人には永遠に理解できない存在であってほしいのだ。
だから、人間のことが分からない、という状況は、僕にとって特別不安定なものではない。それが当たり前だと思っているし、理解できたという状況の方が幻想であり現実逃避でしかない、と考えているからだ。
ただ、他人を理解できない状況は、実害をもたらす場合もある。例えば、どんな動機であれ、「殺人」という犯罪はすべて、他人を理解できないことによって生じるだろう。理解できていればきっと怨恨などは生まれないし、金目的やその他理解しがたい動機の殺人も、「そういう人間がいるのだ」ということを芯から理解できていれば防げる可能性は高まる。しかし、頭の片隅でそう思っていても、僕らは「他人を理解できる」という前提を持って生きていたい人間だから、「そういう人間がいるのだ」という感覚を自分の内側にきちんと定着させるのが難しい。
実害が及ぶことは望んでいないから、僕自身も、普段は理解されるような振る舞いをし、他人を理解しているような振る舞いをする。そうすることで、お互いに実害を回避しやすいことを、長い経験で理解しているからだ。
また、「他人を理解できる」という前提を共有したい人が多い世の中だ。SNSの普及は、人間のそういう感覚がベースにあるはずなのだ。そういう世の中では、「他人なんて理解できない」という前提を前面に出しながら生きていくのは摩擦を生むばかりだ。だから、理解出来ている風を装う。
けど、他人のことなんて基本的には理解できないはずだ。有名な話だが、「僕が見ている赤色と、あなたが見ている赤色が、同じ色だとは限らない」というものがある。まったく別の色を「赤色」と呼んでいても、会話上齟齬は生じないのだ。同じことが、人間同士のありとあらゆることについても言える。言葉、価値観、感情、記憶…そうしたものを「同じだ」と捉えることは、結局のところ幻想以外の何物でもないのだ。
そのことを忘れていられる社会の中で、僕らは生きている。いや、そういうことを忘れていなければ、僕らは生きていけないのだ。
『色んなことを見て見ぬふりをしなきゃ生きていけないんだから』
他人を理解できないことは、敗北ではなく始点なのだ。この映画はそのことを、潔く突きつけてくる。
内容に入ろうと思います。
かつて殺人を犯した者が、また殺人の容疑で逮捕された。強盗殺人で、自白しているという。なら、間違いなく死刑だ。三隅は、工場長に解雇された腹いせに河川敷で殺害、財布を奪った上で火をつけた。自白以外の客観的な証拠はない。
弁護士の重盛は、同期の別の弁護士から三隅の弁護を頼まれた。供述がコロコロ変わるんだよ…。最初から担当したかったと感じる重盛だったが、強盗殺人を殺人と窃盗に落とすことで減刑を狙う方針を立てる。重盛の父は元裁判官であり、かつて北海道の留萌で三隅が起こした殺人事件を裁いた者でもある。
『理解とか共感とかそんなもの弁護するのに要らないよ。友達になるわけじゃないんだから』
『そんなのは依頼人の利益になることしかないだろ。どっちがホントかなんて分かんないんだから』
裁判という勝負に勝つことにこだわる重盛は、真実の追求ではなく、法廷での勝利のために事件を調べ始める。厳しいだろうが、この方向で弁護するしかないと決まった後で、週刊誌に驚きの記事が載る。なんと三隅は、工場長の妻である美津江に頼まれて殺したと証言したのだ。確かに三隅には事件前50万円の振込があった。メールのやり取りも、決定的な文言こそないものの、殺人をほのめかすような内容だった。供述内容の変更に憤る重盛らだったが、美津江を主犯とする共同共謀正犯である方が勝ち目があると判断、弁護方針を切り替える。
しかしその後、調べを進める中で、美津江の娘である咲江が三隅と何らかの関わりがあったらしいという事実を掴み…。
というような話です。
「真実」の周りを、様々な人間がうろうろし、翻弄される、そんな映画でした。見ている間、ずっと様々な問いを突きつけられているような感じのする作品で、その緊張感が、答えのない、分かりやすい落とし所のない映画を見せる力を生み出しているのだと感じた。
「真実」の中心にいるのは、刑務所の中の三隅だ。殺人を自白している三隅の周囲に、何らかの「真実」がある。しかし、三隅の証言によって、その「真実」の姿は煙幕を張られたかのように見えなくなる。三隅の言葉は、「真実」を覆い隠す。それを三隅が意図的にやっているのかいないのか、それすら判然としない。
真実など勝つためにはどうでもいい、と考えていた重盛だったが、三隅と関わる中でその気持ちが変化していくように見える。三隅の言葉の奥にある「真実」の姿を見極めたくなる。
三隅の得体の知れなさは、様々な部分から分かる。かつて三隅を裁いた重盛の父、留萌での三隅に関する証言、咲江の三隅に対する捉え方、そして三隅自身による証言…。これらがすべて、バラバラの像を描き出していく。皆が三隅について話をしているのに、話せば話すほど三隅という人物から遠ざかっていくかのようだ。三隅が生きていく中で残し続けてきたその様々な違和感が、重盛らの手によって集められ、それによって余計に増殖したかのような不気味さを生み出す。
『生まれてこない方が良かった人間ってのはいるんですよ』
三隅のその言葉が、誰のことを指しているのか。何がそう思わせたのか。三隅と関われば関わるほど、三隅という人物像が拡散していく。
三隅の発言は、どれが真実なのか誰にも判断できない。しかし、これは本心だったのではないかと僕が感じたい発言がある。「刑務所の方がマシだ」という内容のものだ。何故これを本心だと感じたいのかと言えば、僕が三隅と同じ状況にいたとしたら、僕もきっとそう実感するだろう、と思えるようなものだったからだ。
三隅が本当は何をして何をしなかったのか、それは誰にも分からない。そして僕らはそれを、三隅という狂気がそうさせたのだ、と思いたいだろう。しかし、僕はそうは思わない。この映画で訴えかけたいことも、そうではないだろう。あの三隅の姿は、僕ら自身の姿なのだ、ということをこの映画は伝えようとしているのだ、と思う。僕らは幸せなことに、「刑務所の方がマシだ」と思えるような追い詰められ方をしていない。だからこそ、三隅のような狂気を放たずに済んでいるのだ。しかし、自分を取り巻く状況が変われば、僕らはいつだって三隅のようになることができる。いとも、簡単に。自分は三隅のようにならない、と思うことは、三隅を狂人の枠に嵌め込んで、自分から遠ざけているに過ぎない。
僕らは皆、わけの分からない部分を内側に抱えている。普段それは、意識せず生きていられる。だから自分がそんなものを持っているとも思わずに済む。しかし、だからと言って持っていないわけではない。持っているのに、気づいていないだけなのだ。
そのことを重盛は、自分の娘との関わりの中でも気付かされる。妻と離婚調停の最中であり、娘とは一緒に暮らしていない。その娘が、重盛にとって得体の知れない存在になっていく。その恐怖みたいなものを、三隅の在り方とダブらせたのだろう。三隅を理解しようとした背景には、娘の存在があったはずだと思う。
僕らは、自身の得体の知れなさに気づいていない。それに気づき、コントロールしようとしている、という意味においては、僕らよりも三隅の方が高い位置にいるのかもしれない。それをコントロールせざるを得ない人格や環境に生まれ、必死で葛藤し続けた男と、その存在に未だに気づかないでいる者では勝負にならない。初めから重盛には勝ち目はなかった、ということだろう。
三隅を排除して遠ざけてはならない。三隅が抱える得体の知れなさを自分も抱えているかもしれない―そういう認識を与えてくれる作品だからこそ、観る者をこれほどザワザワさせるのである。
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