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【本】赤坂真理「愛と暴力の戦後とその後」感想・レビュー・解説

「売り物である」ということを一切考慮せず、もし僕が本書のタイトルをつけるとしたら、【個人史から見る日本近代史】というような名前をきっとつけるだろう。実際のところ、著者の個人史が山ほど描かれるわけではない。

しかし、著者の寄って立つ場所は、あくまでも個人的な場所だ。これは僕の勝手なイメージなのだけど、近現代史だろうが古代史だろうが、ともかく『歴史』を語る人は、一種の『神の視点』のような立ち位置から見ているように感じる。本書には、そういう印象はない。もっと、個人的な、あるいは身体的な(正確にこの言葉を使えているかは自信はないけど)ところから近現代史を眺めている。本書を読もうという方はまず、そういう前提で読んでみるのがいいのではないかと僕は感じる。


さて、本書にどんなことが描かれているのかに触れる前に、僕自身の『歴史』というものへの見方を書いておく。


僕は『歴史』というものが好きではない。積極的に嫌っている、と言ってもいいほどだ。


「歴史から学ぶこと」は大事だと思っている。過ちを繰り返さないという文脈でよく出てくるが、「歴史を学ぶこと」という動詞であれば受け入れられる。しかし、そもそもの大元である『歴史』そのものは好きになれない。
何故なら『歴史』には、否応なしに不確定さがつきまとうからだ。


僕には常に不思議に思うことがある。出来事自体は何でも良いのだけど、例えば、「南京大虐殺」が規模などはともかくとして、「事実あったかなかったか」というレベルで未だに議論がなされているのは、一体どうしてなのだろうか?


もしそれが実際に起こったことであるとすれば、高々数十年前の話である。なぜ、そんな直近の歴史さえ、「こうであった」と確定することが出来ないのか。


いや、それ自体は仕方のないことだと頭では理解できる。僕は基本的には理系の人間だが、理系の分野の多くは「人間」を要素として外すことができる。宇宙論における「人間原理」や、あるいは生命科学・医療など、要素としての「人間」を切り離すことが出来ない分野ももちろんあるが、多くの場合科学は「人間」と切り離したものを対象とすることができる。しかし、『歴史』は、むしろ「人間」こそが主要な構成要素である。であるからには、不確定な要素が山ほど出てくるのは、それは当然仕方がないことだと感じる。


だったら。そうであるなら、僕には理解できないことがもう一つ浮かぶ。
それは、そうであるならば何故、大昔に起こったことは「事実こうであった」という形で語られるのか?


高々数十年前の出来事さえも、あったかなかったのかさえ判然としない、それが『歴史』という学問の宿命であるならば、どうして、数世紀も前の出来事を疑いなく(疑いないような振る舞いで)正しいと主張する事ができるのか。


科学との対比で言えば、科学には「再現性」という神の如きルールが存在する。どれほど素晴らしい発見をしたところで、それが他の人間の手によって再現することが出来ないのであれば、その発見は認められない。また、再現性が認められたことであれば、たとえ数世紀前の発見であっても、現在においてもそれが真実であると確認することができる。


学問としてまったく違った種類である科学と歴史を同列に比較することの愚は重々承知しているつもりだが、個人的にはどうしても、上記のような理由から、『歴史』というものへの不信感がある。「人類が積み上げてきたことそのもの」という意味での『歴史』には経緯を払いたいと考えているが、「学問」としての『歴史』には基本的に関心が持てない。


だから、と言葉を繋げるのはきっと恥ずかしいことなのだと思うのだけど、だからこそ僕は、歴史に関する知識がほとんどない。一時期、高校で必修であるはずの歴史が教えられていなかった問題が取り沙汰されたことがあるが、まさに僕もまったく同じで、高校時代に歴史をまったく学ばなかった。そんなわけで、僕が持っている歴史の知識は、ごく平均的な日本人より大幅に下回るし、歴史に対する意見などもない。右翼と左翼の違いさえ、正直よくわかっていない。


そんな人間が本書を読んだのだ、という前提でこれから書く感想を読んでほしい。


本書は、先程も書いたように、【個人史から見る日本近代史】である。どの辺りが個人史的かと言えば、著者自身の直観や身体感覚に立脚していると思われる考え方、自身のアメリカ留学の際の経験、母親や兄たちとの対話、地域の公園の改修を検討する住民委員会の話など、著者自身の身近なところから疑問や違和感を見出しているところだ。それらの疑問や違和感を、作家的飛躍や、資料調査などを通じて、戦後の日本のあり方と接続させて語っていく。

『評論や研究では、感情と論理をいっしょくたにすることはタブーである。しかし、日本人による日本の近現代史がどこか痒いところに手が届かないのは、それを語るとき多くの人が反射的に感情的になってしまうことこそが、評論や研究を難しくしているからだ。だとしたら、感情を、論理といっしょに動くものとして扱わなければ、この件の真実に近づくことはできなかった。』

そうやって身近な疑問や違和感を突き詰めていく中で、著者は天皇・戦争・憲法など、戦後の日本が抱え、未だに消化しきれていない様々な膿のようなものの本質を見ようとする。

『日本の近現代の問題は、どこからどうアプローチしても、ほどなく、突き当たってしまうところがある。それが天皇。そして天皇が近代にどうつくられたかという問題。』

『私には、戦後の天皇は素朴な疑問であり続けた。なぜ、彼は罪を問われなかったのだろうと。なぜそれを問うてもいけないような空気があるのかと。最高責任者の罪を考えてもいけないというのは、どこかに心理的なしわ寄せが空白をつくってしまう。
正直に言うと私は、素朴に、天皇には戦争責任があると考える方だった。』

正直、右翼だとか左翼だとか、思想がどうのこうのなんてのがよくわからない僕には、著者が著作の中でこう断言することがどういうことなのか、きちんとは捉えきれない。でも、たぶん、これは勇気のある(僕が著者に賛成か反対かはともかく)宣言なんだろうなぁ、と思う。


僕は歴史について考えたことがなかったので、本書を読んでそう思わされたのだけど、なるほど、確かに言われて見れば、戦争の最高責任者である天皇が、罪に問われていない(これは、裁判の場に引きずり出されなかった、という意味でいいんだよな)というのは、不思議な感じがする。いや、それ自体には説明がきちんとある。天皇制を残した方がメリットが大きいと、アメリカが考えたという説明だ。確かにそうだろう。天皇の罪を問うた場合、正確には想像できないけど、反米的な感情はもっと日本人の中に根付いたことだろう。


著者が言うように、不思議なのは、「天皇の戦争責任について考えてはいけないような空気がある」ということの方だろう。これについては、著者の母の反応が顕著だ。著者の母は、著者が見る限りリベラル(この単語の意味も僕にはよくわかっていないんだけど)なのだけど、「真珠湾攻撃は問答無用で悪かった」「天皇制は守って当然だった」という時の語調は激しいのだという。

まあ、理解できないとは言わない。それまで天皇は「神」だったわけだから、そんな存在の罪など考えられるわけがない、ということなのだろう。しかし著者は、結局そうやって天皇の戦争責任に蓋をしたことが、日本のよじれに繋がっているのではないかと書く。

『論理的には罪を問われるべき人が罪を問われない場合、その人はよじれそのもののような存在となる。そこに人々は、自分の罪が支えられて押しとどめられているのを、無言のうちに見ていたのではないか』

天皇の扱いは、日本人の心象に影響を与えたが、戦争そのものは日本の形そのものに影響を与えた。本書には、そんなことが書かれているように感じる。

『「戦争」とか「あの戦争」とか言ってみるとき、一般的な日本人の内面に描き出される最大公約数を出してみるとする。

それは真珠湾に始まり、広島・長崎で終わり、東京裁判があって、そのあとは考えない。天皇の名のもとの戦争であり大惨禍であったが、天皇は悪くない!終わり。

真珠湾が原爆になって返ってきて、文句は言えない。いささか極論だが、そう言うこともできる。でもいずれにしても天皇は悪くない!終わり。
その前の中国との十五年戦争のことも語られなければ、そのあとは、いきなり民主主義に接続されて、人はそれさえ覚えていればいいのだということになった。平和と民主主義はセットであり、とりわけ平和は疑ってはいけないもので、そのためには戦争のことを考えてはいけない。誰が言い出すともなく、皆がそうした。それでこの国では、特別に関心を持って勉強しない限りは、近現代史はわからないようになっていた。』

本書では、「ドラえもんの世界で描かれるような空き地」「学生運動」「トレンディドラマや任侠物の映画」「オウム真理教」などの話が出てくるのだが、その背景に著者は戦争を置く。近現代史の背景にはすべて戦争が横たわっている。著者はそんな風に近現代史を捉えているのだろう。

そして、きっとそれは当たり前のことなのだ。あれだけ(と言って、別にちゃんと知っているわけでもないのだけど)の惨劇を、未だに日本人は消化しきれていない。そして、国も結局何もしないで色んなものをほったらかし、あるいは民間に丸投げした。その結果、様々なものが生まれたり残ったりした。だから、近現代史の様々なものが、戦争と接続する。

しかし一方で、著者が指摘するように、「戦争については考えない」というような雰囲気がどこかあったのだろう(僕には実感はない。実感がない、という事実こそが、それを証明していることになるのかもしれないけど)。だからこそ、様々なものの背景が分かりにくくなった。本書では、近現代史に登場する、あるいは著者の身近な場面で登場する様々なものを描き出すことで、その背景に横たわる「戦争」という、あまりにも大きなものを描いて見せる。

『大日本帝国軍は大局的な作戦を立てず、希望的観測に基づき戦略を立て(同盟国のナチス・ドイツが勝つことを前提として、とか)、陸海軍統合作戦本部を持たず、嘘の大本営発表を報道し、国際法の遵守を現場に徹底させず、多くの戦線で戦死者よりも餓死者と病死者を多く出し、命令で自爆攻撃を行わせた、世界で唯一の正規軍なのである。』

著者はそんな風に書く。恐らくこの記述にも賛否様々あるのだろうけど、もしこの記述が真実なのであるとするならば、そりゃあ「戦争」についてなんか考えたくないよな、と同感する。戦争を主導してきた者からすれば、自らの無能さを突きつけられるだけのことであるし、戦闘に従事したものからすれば自分が信じて付き従っていった上位の存在がそんなお粗末なものであったとは信じたくはないだろう。双方の利益が合致して、「戦争」というものを出来るだけ語らない、語ったとしても「良かった面」だけをピックアップする。そんな語り方になって言ったのかもしれない、と本書を読んで感じた。


戦争に関する記述では、こんなものもあった。僕は歴史を知らないので、歴史を知っている人には常識なのかと思っていたけど、僕よりは歴史に詳しい人に以下の話をしてみたら、知らなかったようで驚いていた。割と知らない日本人は多いのかもしれない。

『ちなみに、アメリカ人の正義の旗印とされた「真珠湾だまし討ちしたんだから日本が悪い、『リメンバー・パールハーバー』」だけれど、当のGHQが主宰した極東国際軍事裁判(東京裁判)で、「だまし討ちではない」という判決が出ている。「だまし討ち」の論拠は、「宣戦布告から攻撃まで時間をおかなければならない」というハーグ条約の取り決めの中にある。だけれど、その条約に「どのくらい時間をおく」という記載がなく、「条約自体に構造欠陥がある」とみなされたため』

僕が知らないのは当然(と言い切るのはよくないけど)として、みなさん知っていましたか?当のアメリカが、あの戦争を、日本によるだまし討ちではない、と裁定しているんだそうです。


著者はこんな風に、元の元に当たる、ということを繰り返す。


それは、憲法や条約に関する記述に顕著だ。


憲法や条約は、元々英語で書かれたもの(英語で書かれたのは草案なのかな?詳しくは知らない)を日本語訳したものだ。ここで著者は、元の英文に当ってみる。すると色んなことが見えてくる。

『日本にとっては、自分が言いもしない欲望を、他人が明文化し、しかも自分が呑む。これは倒錯的なことだ。そんな倒錯的な条文が、責任の所在がどこまでもクリアな英語で書かれていて、物語の域に達している。こんなに物語的な条文を私は読んだことがない』

これは、日米安全保障条約を読んだ著者の感想だ。前文では、「日本国は欲する/アメリカ合衆国との間に安全条約を結ぶことを」と書かれ、第一条には、「日本国は保証し、アメリカ合衆国はこれを受け入れる/陸・空・海の武力を日本国内と周辺に配置することを」と書かれているという。主語はどちらも「日本国」。日本がそうしてくださいとお願いしたというような文章になっているのだという。


また単語レベルでもこういうことはある。「戦争を放棄する」の「放棄」は「renounce」という単語だが、これは明確に「自発的に捨てる」という意味だという。それを、日本人ではなくアメリカ人が書く。あるいは、「侵略戦争」の元になる単語は「War of aggression」だそうだが、これは「侵略戦争」とも訳せるが、「先制攻撃」とも訳せると著者は言う。


そもそも憲法は、日本人自らが欲して生み出されたものではない、と著者は言う。明治維新に伴って開国する際、「外国が持ってるから日本にもなくては」という理由で導入された。だから、と繋げるのはおかしいかもしれないが、日本人の大半は、「憲法」の「憲」という漢字の意味を答えることが出来ない。著者は、著者の周りにいる知識人30人に聞いて、やっと一人即答してくれた、と書いている。


元々内側から欲したわけではないものを、外国の言葉を翻訳する形で受け入れる(さらに日本国憲法は、書き言葉をさらに口語に翻訳する、という段階まで存在したという)。「翻訳」というのは、注意が必要だ。著者は、例えば先の大戦が「侵略戦争」であったかどうか、ということを議論したいわけではない、と書いている。そうではなく、そもそも「侵略戦争」という単語がどんな文脈によって、どんな翻訳によって生み出された言葉なのか、そこをまず押さえるべきなのではないか、と主張する。確かにこれは、非常に面白い視点だと感じた。

そもそも僕には、日本国憲法が「翻訳によって」生み出された、という感覚はなかった(GHQが作った、という知識はあったけど、それが「翻訳」を伴うものだという認識まで達していなかった)。言葉は、単に言葉の違いではなく、概念の違いだ。著者はそれを、「people」という単語を例に出して説明する。あの有名な、「of the people, by the people, for the people」の「people」である。これは「人民」と訳されるが、決して「国民」ではない、と著者は指摘する。そして、日本には、「people」に該当する概念はついぞ生まれなかったのではないか、と。

『私は歴史に詳しいわけではない。けれど、知る過程で、習ったなけなしの前提さえも、危うく思える体験をたくさんした。
そのときは、いつも原典を信じることにした。
これは、ひとつの問いの書である。
問い自体、新しく立てなければいけないのではと、思った一人の普通の人間の、その過程の記録である』

本書全体を通して見ると、一貫したまとまりを感じ取ることはなかなか難しい。それは、「時には問い自体を立てなければならなかった」という、著者の迷いの行軍だったからだろう。僕は決して研究書のような作品を求めていたわけではないのだけど、このまとまりのなさみたいなものは本書の弱点であると感じた。

いや、正直に言えば、僕のように歴史に対する知識も意見もない人間には、これぐらいのまとまりのなさの方が読みやすいとは思う。そういう意味で、僕のような人間に向いている作品といえるかもしれない。しかし、本書のような本を自ら積極的に手に取るような人に、僕のような人間はなかなかいないだろう。

そういう意味で、本書のまとまりのなさは響きにくいかもしれない。講演なんかで聞いている分には、話しながら話題を取捨選択したり、状況に応じて構成を変えたりするようにして、本書の内容は非常に面白くなるだろうけど、本というまとまりで読む時、このあちこちに思考が飛ぶ感じ、個人的な部分から出発している感じがどう受け取られるのか、僕にはなんとも言えない。


僕がいいなと思った点は、可能な限りの一次情報にアクセスしようとする姿勢だ。それを著者は「原典」と呼ぶが、とにかく、大元の大元まで遡ろうとする。そしてその「原典」を、なるべくそのまま受け取って解釈して提示してくれる。そんな風に僕には感じました。それが、僕がなんとなく抱いている「歴史」という学問と違っていて、なかなか面白く読めた作品です。やはり、僕自身に知識も意見もないことが描かれているので、どんな風に受け取っていいのか難しいものも多かったのですけど。


冒頭でも書いたけど、僕は「歴史」に対して不信感がある。まさに現在進行形の出来事であっても解釈は割れる、数十年前の出来事なのにあったかなかったかも確定できない。それなのに、数世紀前のことはさも当然であるかのように語る。この矛盾は、やはり僕の中から生涯消えることはないでしょう。

とはいえ、「天皇」「戦争」「憲法」などについて知るためのちょっとした武器をもらえたような気分になれる作品でした。様々な議論が平行して存在する、あるいはまるで存在しないかのように語られない。そんな、近現代史における様々な要素を捉えるための見方の一つを手に入れたような気分になれます。「天皇」も「戦争」も「憲法」も、日常からはとても遠い。実は近いところと接続しているのかもしれないけど、そんな風には思えない。

でも、日本の、そして日本人の背景には、否応なしにこれら三つが不動の如く横たわっている。知らないわけにはいかない、と書くつもりはありません。知らなくても、問題なく生きていけるでしょう。ただ、これらを知らずして、日本や日本の歴史や外国の歴史を語ることは、きっと恥ずかしいことなのだろうな、と僕は感じました。歴史が好きであればあるほど、近現代史を眺めるちょっと変わった視野を手に入れてみてはいかがでしょうか?


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