【本】加藤一二三+渡辺明「天才の考え方 藤井聡太とは何者か?」感想・レビュー・解説
本書は、明確なテーマらしいテーマはあまりなくて、二人の棋士がそれぞれ将棋に関するエッセイをいくつか書き、さらに対談が収録されている、という本だ。
副題の「藤井聡太」とあって、確かに藤井聡太の話題もあるが、エッセイの中のテーマの一部という感じで決してメインではない。ひふみんは昔の将棋のエピソードなどについて、渡辺明は現代将棋について色々と書いている、という内容だ。
その中で、やはり特筆すべきは、AIについてだろう。渡辺明が、AIが当たり前に使われるようになった将棋界の現状について、様々に文章を書いている。
【大山十五世名人や加藤九段たちの時代、米長永世棋聖や中原十六世名人の時代、羽生世代と、将棋は変わってきている。ただし、これまでは、変化の幅がそれほど大きくはなかった。
たとえば1979年から1999年までの二十年の変化の幅と、1999年から2019年までの二十年の変化の幅は、くらべられないほど後者のほうが大きい。
1979年から1999年までを中心に戦ってきていた人はそんなことはないと言うかもしれないが、私の感覚でいえば、そういうことになる】(渡辺明)
その変化の現状について、こんな風に書いている。
【だが、現在の将棋界では、戦法の流行も一週間くらいの単位で変わっていくことが珍しくない。「先週まではこういう指し方が目立っていたのに今週は減ったよね」といった変化が頻繁になっているのだ】(渡辺明)
【新手が生まれた日のうちに対策がとられるケースさえ珍しくはない。
そのため、新手の概念も変わってきた。
以前であれば、それまでの定跡とは異なった新手を思いつけば、その手は生き残っていくことが前提になっていた。しかしいまは、新手が生き残るなどとは誰も思っていない。
自分が編みだした新手に対して思い入れを持ちにくくなっているのは確かだ】(渡辺明)
元々凄い世界だと思っていたけど、今はちょっと尋常ではない状況になっているのだろう。AIは世の中を変えると言われているが、まだまだ僕らの日常生活の中でそれを実感する機会は多くない。しかし、棋士たちは、日々その現実に直面しているといえる。
また、ちょっと違った角度から、こんな指摘もしている。
【羽生九段に限らず、いわゆる「羽生世代」は長くタイトル戦を席巻してきたが、2019年には羽生世代の棋士はひとりもタイトル戦に出場できなかった。そうなったのは、羽生九段が初タイトルとして竜王位を獲得した1989年以来のことになる。こうした状況からいっても、将棋界は「新しい時代」を迎えつつあるといえるのかもしれない】(渡辺明)
僕は将棋の本も時々読むのでなんとなく知っているが、「羽生世代」と呼ばれる人たちは、本当に将棋界に革命を起こしたようだ。
【はじめてタイトルを手にすることによって注目される棋士もいなくはないが、有望な棋士は、それ以前の段階で「この人はいずれタイトルを取るのではないか」と注目される場合が多い。そういう棋士は世代ごとに現れてくるものであり、世代ごとの強さはフラットに近いといえる。AI世代になったからといって、手がつけられないほど強い人がいきなり何人も現れ、タイトル戦を席巻するわけではない。
その意味ではやはり羽生世代は特別だった】(渡辺明)
【世代としてこれほど早く台頭してきた例は、それ以前にもそれ以後にもない】(渡辺明)
そんな「羽生世代」が、最近タイトル戦に出場できなくなっているという。それは、渡辺明の分析によればAIによるものだが、より詳細に指摘するとこういうことになる。
【それだけ事前の情報処理能力に左右される部分が大きくなっているのだ。
もちろん、そうはいっても、いざ対局に臨めば、対人で発揮される本人の実力が問われるのは、昔も今も変わらない。
ただし、二つの力が持つ意味の比率は変わってきている。昭和はもちろん、平成の半ばくらいまでなら、対局場に入ってからの実力が八割、九割といった意味を持っていたのではないかと思う。事前の情報処理能力が持つ意味は、一割、二割程度だったということだ。それがいまは四割、五割といったところまできている。人によっては五割を超えたと言うかもしれない。
それだけ重要な事前の準備をおろそかにしていては、結果は望めなくなっている。事前準備の段階から勝負は始まっていて、その時点で勝敗が決してしまう場合もないとはいえない】(渡辺明)
本書に具体的に記述があるわけではないが、今どんな戦型が流行しているか、つい先日使われた新手の対策はどうすればいいか、対戦相手が得意とする戦型にはどんな変化のパターンがありうるか…などなど、AIを使った事前の準備をきちんとしなければ勝てなくなっているという。もちろん「羽生世代」も、AIをまったく導入していないわけではないだろうが、やはり昔ながらの、対局場での勝負、というスタイルへのこだわりもあるだろう。その辺りのことが、タイトル戦への出場機会という結果に関わっているのではないか、と渡辺明は見ているのだ。
一方、昭和の将棋を研究する時間はなくなっている。
【私が十代の頃などは加藤一二三九段の対局をはじめ、昭和の将棋の棋譜を見て、それを盤上に再現しながら頭をひねっていたものだ。しかし、AI世代の棋士の多くは、昭和の将棋を研究したことなどないのではないかと想像される。個人差があることなので一概には言い切れないが、昭和の棋譜どころか、近年のものでもプロ同士の対局で残された棋譜を振り返ることも少ないのではないかと思う。いまは最新の戦術解析など、やることが多くなりすぎているので、復讐のための時間がとれなくなっているからだ。
世代がことなれば、研究の方法が違ってくるのは当然といえる。私が十代の頃に優秀な将棋ソフトがあったなら、やはりそれを使って勉強していたはずだ】(渡辺明)
加藤一二三は、「棋譜を残せること」が良いと語っている。
【棋譜を残せる、というのは将棋のすばらしさの一つだ。
いまの人たちは、将棋ソフトなどを使って最新の情報にこだわっているが、それだけで将棋は強くなれない。
これまでに私は、百年、二百年経っても色褪せない将棋を指してきた。その自負がある。
バッハやモーツァルト、ベートーベンらが残した曲がいまなお愛され、世界中で演奏されていることとも意味合いは変わらない。
過去があってこそ現在があり、未来がつくられる。
そのつながりは決して絶たれない。
そんな系譜の中で自分の足跡を残せるのが棋士である。
すばらしい仕事だ。】(加藤一二三)
そんなひふみんからすれば、棋譜を見られないというのは残念だろうが、ただ「残念」というだけではない指摘を彼はしている。2019年11月の王将戦リーグの最終局での藤井聡太について、こんな風に語っている。
【この対局で藤井七段は新しい型に持ち込んだつもりだったのかもしれないが、実際は過去に私も指したことがある型だった。
あまり出ない型でもあり、藤井七段はそういう展開になったときの棋譜を見たことがなかったのだろう。いくら意識的に過去の棋譜を見ているといっても、すべての棋譜を見渡すのは不可能なので仕方がない。しかし、この対局以前に私が闘っていた棋譜を見ていたならどうだっただろうか…】(加藤一二三)
この対局に勝てば、藤井聡太は史上最年少のタイトル挑戦権を獲得できたはずなので、その残念さもあっての発言だろう。ちなみに、仮に藤井聡太が勝っていた場合の対戦相手は、渡辺明だった。
ひふみんも触れているが、藤井聡太は過去の棋譜を見て研究するタイプであるという。渡辺明もこう言っている。
【藤井七段の場合、年齢のわりにはAIの導入が比較的遅かったようだ。
聞いたところによれば、将棋ソフトを活用するようになったのはプロになる直前の三段リーグか、プロになってからだという。】(渡辺明)
藤井聡太はまだ圧倒的に若い(つまり将棋に費やした絶対的な時間は少ない)ということもあるだろうが、やはり、過去の棋譜も調べ、さらにAIでも研究するというのは相当に大変だろう。どちらかになってしまうのは仕方ないのだろうし、であれば、AIによる研究が優先されてしまうのも仕方ないことなのかもしれない。
AIの導入による一番の変化を、渡辺明はこう語る。
【AIで学ぶのとアナログで学ぶのとをくらべて、何が違うかといえば、そこに「解」があるかないかだ。その差はきわめて大きい】(渡辺明)
AIは、何らかの形で「解」を提示してくれる。しかし、AIが普及する前は、過去の棋譜を並べるしかなかった。並べても、そこに「解」はない。だから必然、考えるしかない。
【AIが将棋に何をもたらしたかということについては、人によって考え方がまったく異なる部分であり、簡単に語るのは難しい。
進化と取る人もいるかもしれないが、「研究するのがラクになっただけ」と考える人も少なくないだろう。それがいいのか悪いのかも、個人の価値観次第だ。
我々棋士では簡単に答えを出せないようなことでもAIは解を出す。その解がすぐに出ることを良しとするかしないかだ。
これまでがそうだったように、AIが出す解に頼らず、自分で答えを見つけようとして、一日でも二日でも一週間でもそれを考え続けることに意義を感じる人もいるだろう。一方、AIが解を出してくれるのなら、悩む必要はなくなるので、勉強が進めやすいと考える人もいる。そこではやはり「考えることを放棄していいのか?」という最初の議論に戻ることになる】(渡辺明)
ひふみんには、非常に知られた有名な対局があるという。1968年第七期十段戦の第四局。ここでひふみんは、7時間長考した上で「4四銀」という手を思いつき、その対局に勝利した。長考について渡辺明は、
【私個人は、長考するときは、いくつか思いついた手のどれを選ぶかに時間をかける場合が多くなりますね】(渡辺明)
と発言し、その後加藤一二三に、この7時間長考の話を聞く。ひふみんはこんな風に答えるのだ。
【渡辺 あれは本当に七時間のうちの最後になって思い浮かんだということなんですか?
加藤 正確に言うと、あれは着手する二十分ぐらい前に見つけたんです。それまでは思い浮かべられなかったですね。どうしてそれだけ考えたかといえば、「何かいい手があるはずだ」というふうに思えていたからなんです】(加藤一二三)
ひふみんのこの発言は、非常に示唆的だろう。渡辺明は。「考えることを放棄していいのか?」という問題意識を提示した。今の若い棋士について、渡辺明はこんな風に書いている。
【だがいまは、AIが勝負前から「序盤戦の解」を出している。
その解を知っていれば、相手が実績ではとてもかなわない先輩であっても臆することがない。そのためなのか、最近の若い棋士は、伸び伸びと戦っているような印象を受ける。序盤戦から調光するような棋士は減り、ある種、機械的に序盤を進めていくのだ】(渡辺明)
この「機械的に」という表現が、「考えることの放棄」に感じられる。またこんな風にも書いている。
【いまの将棋と昭和の将棋をくらべたときにも、また違った部分はある。いまの将棋はAIによって出された解を記憶しておくことが大切になるが、昭和の将棋はそうではなかった。「その場で考える」ということが、より大きな意味を持っていた】(渡辺明)
だからこそ渡辺明は、こんな感覚を抱いてしまう。
【十年ほど前に羽生世代の棋士たちとタイトルを争っていた頃には”知性と思考力で勝負をしていた感覚”が強かった。いまの勝負はやはり事前の準備にかかるウェイトが大きくなりすぎているというのが私の実感だ。
人間同士が行う将棋の技術としてどちらのレベルが高かったかといえば、私などは十年前だったのではないかと思うのだ。】(渡辺明)
ある種、感傷的になっている部分もあるのだが、しかしこう続ける。
【だが、皮肉なことに私には、どうやら現代の将棋に適性があるようだ。】(渡辺明)
渡辺明は、一時期スランプに陥ったが、現代風の情報処理をきちんと取り入れる、ということも意識してやるようになったお陰で、また勝てるようになっていったという。こんな風にスタイルを変えて上手く行くことはなかなか珍しいので、渡辺明は「現代の将棋に適性がある」と書いているのだ。
【それでもやはり、十年ほど前のタイトル戦のほうが将棋のレベルが高く、満足度が高かったというのが、偽りのない感覚である。
だからこそ、AIが将棋を変化させたことは間違いがなくても、それが進化とは言い切れない面がある】(渡辺明)
また渡辺明は、非常に冷静な指摘もしている。AIによる将棋ソフトは、当初、プロ棋士を倒すことを想定して開発が続けられていたはずだ。しかし、将棋ソフトがプロ棋士並の力を持つ、ということが分かるようになってきた。現在、ソフトとプロ棋士の対局は行われていないが、将棋ソフト同士の選手権はまだ行われていて、そこに向けた開発が行われている。しかし、この選手権がもしなくなれば、将棋ソフト開発の動機がなくなるだろうから、そうなった時、将棋界がまたどんな変化を迎えるかは分からない、というのだ。確かにその通りだ。ソフトが進化しなくなれば、ソフトに頼っていた人間の進化もまたそこで止まってしまいかねない。そうなればまた、羽生世代のような、その場で考えるタイプの棋士が台頭する時代が来るのかもしれない。
本書にはこういうAIの話に限らず色んなエピソードが出てくるが、ひふみんらしいというか、なんだそら?という印象的なエピソードがあったのでそれを書いて終わりにしよう。
ひふみんが、先輩の棋譜を見たり研究したりすることはあまりなかった、と発言したことを受けて、渡辺明が、「棋譜を調べることがなかったなら、二十代、三十代の頃などは家でどういう研究をされてたんですか?」と質問した。その答えがこれだ。
【若い頃は、対局前には闘志は持続しなければいけないと思って、イギリスのウィンストン・チャーチルという人がノーベル文学賞を取った『第二次大戦回顧録』を買ってきて読むという習慣がありましたね】
これに対して渡辺明は、「先生に限らず、当時はいまほど事前の研究に重きを置いていなかったんでしょうね」という返答なんだが、「どんな研究をしてたんですか?」という質問に対して、「ウィンストン・チャーチルの本を読んでた」というのは、あまりに的外れな気がして面白かった。さすがひふみん、という感じだ。