【本】相澤冬樹「安倍官邸 vs NHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由」感想・レビュー・解説
本書を読もうと思った理由は、シンプルだ。「週刊文春2020年3月26日号」の「森友自殺財務省職員遺書全文公開」という記事を読んだことだ。この記事を書いたのが、現在は大阪日日新聞の記者であり、元NHKの記者だった相澤冬樹である。とんでもない記事であり、あまりに衝撃的であり、世間的にも大いに話題になった。この号の週刊文春は軒並み売り切れ、普段は買わない若い世代の人たちも購入したという。
この週刊文春の記事そのものには触れない。以下で読めるので、是非読んでほしい。
「すべて佐川局長の指示です」――森友問題で自殺した財務省職員が遺した改ざんの経緯【森友スクープ全文公開#1】
https://bunshun.jp/articles/-/36818
著者は、自殺した財務省職員の奥さんから連絡をもらい、これまで存在は知られていたが、誰がどんな取材をしようと表に出てこなかった遺書を見せてもらい、またこうして雑誌の記事にする許可をもらった。その理由は本書を読めば理解できるだろう。
NHKの取材チーム内で情報共有のために送られたメールの文章の中に、こんな箇所がある。
【取材はいつでも「誠意」と「真心」ですので。
合い言葉は「取材は愛だ」です】
誰かがこんなことを真顔で言っていたら、正直「けっ」と感じるだろう。あまりにもキレイゴトに感じられるし、あまりに嘘くさい。ただ、本書を読めば分かる。著者が本当に「誠意」と「真心」と「愛」で取材をしているのだということが伝わる。
それが最も伝わるのが、「「口裏合わせ」の特ダネ再び~プロの記者はこうして取材する~」という章だ。
この章は、こんな文章から始まる。
【この章で私は、記者の秘密を明かす。2つの意味で。一つは、私がどうやって取材をしてきたのか、その手法を明かす。これは記者の企業秘密だ。そしてもう一つは、取材先とのやりとりを明かす。これは取材源の秘匿の原則から逸脱する。企業秘密を明かし、原則を逸脱するのは、「プロ記者の仕事への信頼を取り戻す」という、より価値が高いと私が信じる目的のためである】
著者は森友事件に関してある大ネタを掴む。それは財務省の職員がとある口裏合わせをしていた、というものだ。このネタは「クローズアップ現代+」の放送で使われることになったが、あまりにも大きなネタのため局長の説得が出来ない。説得のための条件として、著者はデスクから、「口裏合わせをした当人から言質を取れ」という無謀な指示を受ける。そのあまりの困難さを、著者はこう書いている。
【おいおい、それは、口裏合わせを求めた当人に「あなた、口裏合わせを求めましたね?」と尋ねて「そうです」と言わせろってこと?そんなの、いくらなんでもハードル高すぎでしょう。言うはずがない。無理でしょう!Mission Impossibleでしょう!!
でも、無理を承知で、無理をしないとネタが出せない。そうしないと上を説得できない。ピカイチの検察記者、K社会部長がそう判断しているというのなら、やるしかない】
そして実際に著者は、この無茶な指令を完遂するのだ。その方法について詳しく書いてあるのだが、ここで触れたいのか以下のことだ。
【何も考えずに取材先に行く記者はアホだ。考えて考えて、頭が禿げるほど考え抜いてから取材に行け!】
これは著者自身の言葉ではない。著者の部下の一人で、本書でも何度も活躍する超絶スーパー有能なH記者が、初任地の師匠から言われた言葉だ。だから著者も、
【絶対に認めるはずのない相手に、絶対認めるはずのないことを認めてもらうには、どうしたらいいか?相手の立場になることだ。相手はどう感じているのか?どう考えているのか?どういう話しならするのか?そういうことを考えて考え抜くのだ】
籠池氏の自宅の取材の際にも、著者の「相手のことを考える」というスタンスは発揮される。この場合の「相手」というのは、籠池氏の自宅の近所の住民だ。マスコミが殺到して、どう考えても迷惑を掛けることが分かっている。だから著者は、あらかじめ近所の方に菓子折りと共に挨拶をしておいた、という。著者は、他社が同じことをしたという話を、少なくとも近所の方からは聞いていないという。
そもそも、籠池氏と最初に接触する際にも、相手が何を考えているかを踏まえつつ、その懐に入っていく。だからこそ後日、相澤さんに話をしたいと指名がくる。
同じことは、森友学園が認可されるか否かの記者会見上でも起こった。私学審議会の梶田会長を、著者は50分も追及し続けた。その後、関係回復のために挨拶に行くと、梶田会長から、「あなただけが(4月に入学予定の)子どもたちのことを心配してくれた」と言われた。そしてその後、梶田会長から直接電話があり、認可保留の可能性という重大な事実を伝えてもらった。理由は、子どもたちのことを心配してくれた、からだ。
先ほど著者の、「プロ記者の仕事への信頼を取り戻す」という文章を引用した。同じことが、本書のラスト付近にも書かれている。著者はNHKを辞め、大阪日日新聞に就職した後、発信力を持つために雑誌で記事を書きたいと、旧知のフリーライターに相談した。その結果、文藝春秋で本を書くことになった(それが本書なのだろう)。文藝春秋側の人々と話をし、意見の一致をみた、という文章に次いで、こんなことが書かれている。
【「プロの記者の仕事が信用されなくなり、ネット上のあやふやな情報の方が信じられている。この事態を正していかなければならない」
森友事件でも、朝日新聞の報道をフェイクだと叩く人がネット上に絶えないし、私自身も「誤報を連発」などと書かれた。何が誤報なのかも示さず。もしも誤報を出せば当事者から抗議が来るし、NHKは謝罪して訂正しなければならないが、そういうことは起きていない。そもそも私の報じた内容はいずれも後に財務省自体が認めている。それでも平気で誤報と書き、ファイクと書く人がいて、それを真に受ける人がいる。かなりいる。プロの記者の記事・原稿を信じないというのは、報道への不信であり、これは民主主義の根幹を揺るがす】
その後著者は、この状況は、マスメディア側の責任が大きいと思う、と論をつなげていく。
さて、そんな風に誠実で、また森友事件のスクープを連発した(森友事件の報道に関しても、朝日新聞よりも著者の方が実は先だった。しかし、大阪でしか流れなかったのと、デスクの判断で原稿が弱められたので、大きな話題にはならなかった。翌日の朝刊で、朝日新聞が報じたのだ)著者が、何故NHKを辞めることになったのか。著者自身は本書では明言していないが(そう受け取らせる書き方はしているが)、やはりそれは、森友事件に深入りするのが、NHK的にマズかったからだろう。森友事件の最初こそ、NHKは攻めの報道をしていた。しかし、著者も【かくて、忖度報道が本格化していく】と書いているように、上からの圧力や介入、また、嫌がらせだろうとしか思えないような行為が出てくるようになる。
こんな描写もある。
【「ニュース7」と「クローズアップ現代+」。双方に対する、あまりに露骨な圧力とごたごた。私はそれまで31年間のNHK報道人生でこんなことを経験したことがなかった。現場のPD(※NHKではディレクターのことをこう呼ぶ)たちも口々に「異常事態だ」と話していた。私が長年たずさわり、鍛えられ、愛してきたNHKの報道が、根幹からおかしくなろうとしている。そんな危機感を感じる番組作りだった】
本書で書かれている話ではないが、ネットの記事などで、政権がマスコミの頭を押さえつけようとしている、という趣旨の報道を見かける機会がある。映画『新聞記者』では、フィクションという体ではあるが、恐らく現在の日本で行われているのだろう、政府によるマスコミの監視の実情が描かれていた。NHKは国営放送だから、そういう介入を仕方ないと感じる部分はどこかにある。しかし著者が「31年間のNHK報道人生でこんなことを経験したことがなかった」と書いているように、森友事件によってそれが顕在化したのであれば、やはり国による管理が格段に進んだ、ということの証左だろうと感じられる。
著者は、森友事件に関するあるネタを放送に乗せたが、それによって報道部長が叱責された。報道部長は局長から「あなたの将来はないと思え、と言われちゃいましたよ」と言われた、という話を著者に伝えた。そしてそれを聞いた著者は、「翌年6月の次の人事異動で、何かあるに違いない」と察した。
そしてやはり、翌年の5月、内々示という形で、考査部への異動を命じられる。それを告げた報道部長(前出の報道部長と同一人物)は、「不本意なことになって申し訳ありません」と謝ったという。報道部長の隣にいた副局長から、「これからは考査の仕事に専念してもらう」と言われ、これを著者は、「二度と報道の仕事に関わらせない」という宣言だと受け取った。
記者でいられないならNHKを辞める。それが著者の選択であり、その後大阪日日新聞に入社する。入社前からこの新聞社について詳しく知っていたわけではないが、社長の名刺にも「記者」と書かれていた。社長から、
【うちの会社は社長以下全員『記者』という心構えでやっていますから】
と言われ、著者はこれほど相応しい居場所はないと感じたのだ。
さてここまで、森友事件についてほとんど触れてこなかった。本書についてはまず、著者がどういう人物であるのかを知ってほしい、という気持ちが強かったからだ。週刊文春の遺書全文公開の記事の印象も込みでだが、こんな凄い記者がいるのか、という思いが強い。こういう人がちゃんと使命感を持って仕事をしてくれているというのは安心だし、全然関係ないのに、何故か誇らしい気持ちもある。
また、森友事件の概要は誰でも知っているだろうし、本書にしか載っていないだろう裏話は是非本書で読んでほしい、という気持ちもあって、ここではあまり触れていないという部分もある。
本書の森友事件に関する記述としては、本書の冒頭とラストに書かれている文章を引用するに留めようと思う。
【森友事件は森友学園の事件ではない。国と大阪府の事件である。こう言うと違和感を持つ方が多いかもしれないが、おかしなことをしたのは森友学園ではなく、むしろ国と大阪府の方だ。なぜそう言えるのか?それを読者・視聴者に説明するのが私たち記者の務めだ。そのためには、根拠を示すことが欠かせない。
この本で私は、自分が森友事件をどのように取材し報道したか、そのプロセス、つまり記者の企業秘密を明かすことにする。根拠を示すためにそれが欠かせないと考えるからだ。取材源の秘匿との兼ね合いに配慮しつつ、取材先や関係各方面の方々のご理解もできる限り頂いて、極力明かすことにする。そして、森友事件の報道の背後で何が起きていたのか、森友事件の真の問題点は何かを明らかにしたいと思う】
【森友事件とは、実は森友学園の事件ではない。国と大阪府の事件だ。責任があるのは、国と大阪府なのだ。国の最高責任者は安倍晋三総理大臣。大阪府の最高責任者は松井一郎大阪府知事である。お二人には説明責任があるが、それが果たされたと思わない人は大勢いるだろう。お二人が説明しないなら、記者が真相を取材するしかない。
この謎を解明しないと、森友事件は終わったことにならない。私がNHKを辞めた最大の目的は、この謎を解明することだ。
森友事件は私の人生を変えた。でも、それはいい方向に変えてくれたと思う。何のしがらみもないというこの大阪日日新聞で、私は森友事件の取材を続ける。謎が解明されるまで。】
その宣言通り、文字通り日本中を揺るがすような記事を書いてくれた。以下の記事にあるように、この記事を受けてアンケートを行なったところ、88%が「再調査に賛成」としているにも関わらず、国は、「新たな事実が判明したことはない」として再調査しない考えを示している。
森友自殺“遺書” 圧倒的88%が「財務省は再調査すべき」で一致する根本理由――アンケート結果
https://bunshun.jp/articles/-/36896
この森友事件は、後から振り返ってみた時に、時代を大きく変えた出来事として刻まれるのではないかと思う。かつてオウム真理教が起こした数々の事件がそうだったように。著者には是非、真相を明らかにしてほしいと思う。
最後に。森友事件について僕自身がどういう印象を持っているかについて書こう。以下の文章はすべて、僕の私見だ。本書は、週刊文春の記事などから影響を受けている部分は当然あるだろうが、仮にそうだとしても、以下に書くことは100%僕に責任がある。
僕は、森友事件が大々的に報じられている当時、籠池さんに悪い印象を持たなかった。という話について詳しく書きたいと思う。
まず僕は、新聞を読まない。ネット記事はたまに見るぐらいで、SNSもほとんどやらない。僕は基本的に、テレビのニュース番組やワイドショーなどで情報を得ている。だから、メチャクチャ情報が偏っている自覚はある。
しかしだ。本書でも少し触れられていたが、当時のテレビの報道は、「籠池氏が詐欺を起こした」「籠池氏が悪者だ」という論調が長く続いたと思う。その後、佐川局長などが出てきて、国の問題に変わっていったが、それでも、「国も悪いが籠池氏も悪い」という報道のテイストが続いていたと思う。
で、僕はそういう報道を見てなお、籠池氏が悪い印象を持たなかったのだ。
もちろん、変わった人だな、と思う。近くにいたら、意見は合わないだろうし、親しくもならないだろう。価値観が違いすぎて共通項を見いだせないだろうし、僕の個人的な意見では、「その考え方は正しくないような気がする」という価値観を持っている。
しかし、だからと言って悪者に仕立てていいはずがない。
これについて著者が本書で、実に的確な表現をしているので引用させてもらおうと思う。
【だが私は、どんな人でも一分の理はあると思っている。(中略)思想信条は人それぞれ自由であり、日本国憲法で認められた権利だ。それだけをもって相手を否定することはできない。
(中略)私は籠池氏の考え方について、独特ではあるが、決して突拍子もないものではないと受け止めていた。】
まさに僕もこういう印象だった。変わった人だし、仲良く出来ないだろうけど、でもそんなに批判するような人だろうか?と僕は思っていた。
籠池氏が補助金の詐欺を行なったかどうかについても、本書の中に、そうだよなぁ、と感じる文章があったので引用する。
【なるほど、補助金不正はあったのかもしれない。しかし、それは国有地の格安売却とはまったく関係のない話だ。そもそも森友学園が多額の補助金を受けていることは大阪府も大阪市もとっくにわかっていたことで、その申請内容がおかしいとすれば、これまでまったく気づかなかったという方が不自然だ。なぜ今になって、このタイミングで、急に騒ぎ始めたのか?】
その通りだよなぁ。僕は、籠池氏が清廉潔白だ、などと言いたいわけではない。特にネットを見ていると、「0でなければ100」「100でなければ0」みたいな議論が多くて驚かされる。どうして、40とか60とかの可能性を検討出来ないのだろうか?
僕は森友事件に関してこんな印象を持っていた。籠池氏が何らかの罪を犯した可能性はあるが、どうであれ国の方が悪い、と。つまり、選択肢としてはこうだ。
A「籠池氏はまったく悪くない かつ 国が悪い」(0対100)
B「籠池氏は少し悪い かつ 国が圧倒的に悪い」(10対90)
C「籠池氏も結構悪い かつ とはいえ国の方が悪い」(40対60)
A・B・Cのどれだろうと、僕としてはどうでもいい(籠池氏としてはどうでも良くないだろうし、本当に籠池氏に非がないのであれば名誉は回復されるべきだと思うけど)。ただ僕は、「国はまったく悪くない(100対0)」とか、「国も悪いけど籠池氏の方が悪い(60対40)」」という意見は、ちゃんちゃらおかしい、と思っている。
そして、週刊文春の記事や、本書を読むことで、僕の印象はBぐらいに落ち着いている。やはり、籠池氏がまったく何も悪いことをしなかった、ということはないだろう。しかしそれは、世の中に生きてるほとんどの人がそうだと思う。そういうレベルの悪さだ。誰だって、生まれてから死ぬまでずっと清廉潔白などあり得ない。誰だって、叩けばホコリが出る。そういう意味での「籠池氏は少し悪い」だ。こういう言い方はあまり適切ではないかもしれないが、「普通ならバレない悪事が運悪く見つかってしまった」という程度のことではないか、と僕は思っている。
まあ、籠池氏の話は別にいい。問題は国だ。
僕は、森友学園でも加計学園でも桜を見る会でもそうだが、国が「言葉の上での体裁が整っていればギリギリセーフ」と考えている、そのスタンスに怖さを抱く。永田町では、それで通用するかもしれない。しかし、良きにつけ悪しきにつけ、人間は感情で動く。政治家だろうが企業だろうが、人々の感情を動かせるリーダーこそ必要とされるし、人々の感情と共に物事を動かしていくことが出来るのだ。
いま国は、言葉の上での体裁を整えるために、人々の感情を逆なでする。実態を感じさせない空理空論のために、現実に意味を与えない言葉遊びのために、市民をないがしろにする。もしかしたら、それが正解だった時代も、かつては存在したのかもしれない。しかし、少なくとも現代は、それじゃ通用しない。
もちろん、民主主義国家に生きているのだから、「そんなリーダーを自分たちで選んだのだ」というブーメランが飛んでくることは知っている。知っているが、だからと言って黙っていていいということにはならない。
まさにこの文章を書いている今、「政治について語ることそのもの」に対する議論が世間で起こっている。そんな議論が起こることそのものが、民主主義が成熟していないと感じさせられる。「政治について積極的に語るべきだ」という雰囲気がきちんと浸透する社会の方が望ましいのではないかと、本書を読んで改めて感じさせられた。