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【本】朝井リョウ「スペードの3」感想・レビュー・解説

逃げよう。
全身全霊で、逃げよう。
これまでそうしてきたように。
今までの人生をすーっとなぞるように。
これからも、全力で逃げ続けよう。
かっこ悪くて、言い訳ばかりして、誰かを傷つけて、怯えて、
そんな風にして、これからも逃げ続けていこう。

『この世界で、また学級委員になったつもりでいるの?』

いいんだ。学級委員になったつもりで日常を生きていたっていいんだ。そのままでいい。別に、恥ずかしがるようなことじゃない。日常から目を逸らしたっていい。自分の存在の消えそうなほどのちっぽけさに怯えてもいい。みんな守っているものがそれぞれ違うだけで、守り方がちょっとずつ違うだけで、ほとんどの人はきっと、そうやって何かにしがみついているんだ。偶然でもいい。努力したわけでなくてもいい。そこにいられさえすれば、そこがどんなに幻想でも、自分の輝きを感じ取ることが出来る場所。そんな場所を、抱え続けていったって、別にいい。いいんだ。

『すべては自分のためだった』

いいんだ。全部自分のためだって、別にいいんだ。そのままでいい。傷つくようなことじゃない。誰を傷つけたっていい。そうしなければ自分が傷ついてしまうんだとすれば、他人のことを殊更強く考えることはない。みんな大部分はおんなじような構造だから、ついうっかり忘れちゃうけど、人間が抱えられる容量なんて、人それぞれ違う。感情の容量、行動の容量、思考の容量。すべてが完璧な人なんて、本当に本当にごく僅かだろう。そういう人に憧れるのはいい。でも、比較してしんどくなるのは止めよう。そんなの、何の意味もない。自分のためでいいんだ。それを、誰かのためだって偽り続けてたって、別にそれは悪いことじゃない。みんな、やっぱり、いい人でいたいんだ、基本的には。それでいい。いいんだ。

『特別な物語なんてなくても』

いいんだ。特別な物語なんて、なくたっていい。僕達は、そんな特別さを知りすぎているだけだ。みんな、特別さに憧れる。それがどんな些細なものでも、他人とは違う何かを持ちたがる。でも、いいんだ。特別なものなんて、なくてもいいんだ。そんなことが、人間の価値を決めるんじゃない。特別なものが価値を持つとしたら、それは、いつか虚飾が剥がれる偽りか、あるいは強運かではないだろうか。みんな、昨日と今日と明日の違いが、「きのう」「きょう」「あした」という発音の違いでしかないような日常を生きている。でも、ちょっとした特別さは、人に見られたがる。だから、ちょっとした特別さばかりが、表にどんどん出てくる。そんな情報ばかりに触れていると、どんどんしんどくなる。いいんだ。平凡さを愛そう。手の届く範囲にあるものの価値を取り戻そう。平凡でいい。いいんだ。

『自分のために自分で動かないと、自分から参加していかないと、ずっと、手の届かない距離にあるままだよ』

強く生きたいと思うことは何度もあった。
カッコよく生きれたらと思うことも何度もあった。
誰かを幸せに出来るようになりたいと思うことも時々はあった。
でも、そういうのは、もういい。

『革命なんて起きないよ』

僕はもう、自分の世界の外側に踏み出さない。
その一歩が、僕の人生を変える偉大なる一歩だとしても、僕はきっと踏み出さない。
その先にはきっと、僕の居場所はないのだ。
僕が安住できるような居場所はない。

『それで人の心を揺さぶろうなんていうのは、少し、ずるい考えではないですか』

手に入れられないものを嘆かない。
手に入れる努力をしない自分を責めない。
間違えだと分かっていても、正しい道が照らされても、見えないフリをする。
僕は、そんな風にして生きていこうと思う。

以前、窪美澄の「晴天の迷いクジラ」の感想の中で、こんなことを書いたことがある。

『窪美澄の作品を読むと、必死で生きていた頃の自分自身のことを思い出す。
僕は、今こうして大人になってからは、割と穏やかに毎日を生きていけるようになったのだけど、昔はそうじゃなかった。哺乳類なのに水中で暮らすクジラみたいなものだ。時々水面に顔を出して呼吸をしないと、長いこと水の中にいることが出来ない。水中に居続けることが僕にとっては苦痛でしかなくて、でもクジラである僕は、決して陸では暮らせない。陸地というフロンティアの存在が自分の視界に入っていたかどうか、もう覚えていない。けど、たぶん見えていただろう。そこに僕は行くことはできないんだと、きっと思っていたに違いない。

魚類だったらよかったのにな、と思うことは何度もあった。

子供の頃、子供の世界の中をスイスイと自在に動き回れる人が羨ましかった。子供であることを最大限に活用している人がいた。無知故に自由な行動を取れる人もいた。あるいは、本当はクジラなのに自分のことを魚類だと実にうまく騙し込んでいる人もいた。

僕はそのどれにもなれなかったような気がする。
自分を魚類だと騙そうと思って、必死になっていたはずだ。子供らしさを活用できず、鈍感なわけでもなかった僕には、その手しかなかった。でも、これは結構辛かった。何が辛かったのだろう?本当はクジラであることを知ってもらえないこと?魚類であると偽ること?たぶんその当時は、言葉にしたことがなかったんじゃないかと思う。』

本書を読んで、同じことを改めて感じた。


僕は、哺乳類なのに魚と一緒に混じって海で生活している。魚たちと一緒に、ずっと泳いでいたいのに、僕だけ何故か、時々海面に顔を出して空気を吸わなくちゃいけない。他のみんなは、水から出なくてもずっと泳いでいられるのに、なんで僕だけ?


昔から、みんなが普通に出来ることが僕には出来ない、と感じることがたくさんあった。僕は、勉強はよく出来た。スポーツも決して悪くはなかっただろう。背も高かった。顔も、良いわけではないけど、でも決して悪い部類にも分類はされないだろう。友達だって、どの時代にも普通にいた。外側から見ている限り、僕が「みんなが普通に出来ることが僕には出来ない」なんて思っていることに、きっと誰も気づかなかっただろうと思う。

でも僕には、みんなが当たり前に出来ていることが出来ない。それは、目の前にいる人のことを思いやる気持ちだったり、常にでなくてもいいから自分自身の意見や意思を持つことだったり、きちんと社会に出て行くことだったり、色々だ。


人生の、あらゆる転機で、僕は逃げ続けてきた。そういう選択を僕は、未だに後悔したことが一度もない。その時の僕には、その選択肢しかなかった。他のどの選択肢を選んだとしても、僕はきっと立ち直ることが出来なかっただろうと思う。


そして僕は、その時々の決断を、誰かにうまく説明することが出来なかった。何故なら、僕が「出来ないこと」は、みんなにはきっと当たり前に出来ることだからだ。少なくとも、僕はずっとそう思ってきた。僕が出来ないことは、みんな当たり前に出来ることなんだ。だから、今ここで僕が逃げる理由を、誰かに説明することは出来ない。それは、「箸が持てない」と言うのと同じぐらい、きっとみんなにとっては不可解なことだと思うから。


僕は、ズルさを隠すことに全力を尽くした。自分の失態が、誰かのせいに見えるように努力した。さも初めから、みんなと同じように考えていた風を装い続けた。「違う」と思われたくなくて、自分の意見を表に出さないように気をつけた。どんな人の話も受け入れられるように、その場その場で自分の立ち位置を微調整し続けた。


そんな風にしてしか、僕はこの世界の中で生きていくことが出来なかった。
朝井リョウは、そんな僕のズルさを見抜く。僕は、この物語の中には出てこない。僕は、お芝居をするわけでも、ファンクラブを束ねるわけでも、学生時代極端な扱いをされたわけでもない。そもそも、本書で朝井リョウが描き出すのは女性たちだ。男の僕ではない。


けれども朝井リョウは、この物語を通じて、僕自身のことを抉り出す。見えない手のひらで僕の髪を鷲掴みにする。見えない目で僕を睨みつける。見えない口から僕を糾弾する言葉が溢れる。


そして僕自身は、そんな「見えない」ものを「見えない」まま放っておけるだけのズルさを身につけてしまっている。そんな大人になっている。
でも、それでもいい。

『神様はいる。神様はこうして、たまに、忘れられないようにしてくれる。自分が生きていく場所を、勘違いさせないようにしてくれる』

本当に、その通りだと思う。神様はいる。

三人の女性を中心に据え、学生時代と現代を緻密に切り取り積み上げていくことで、揺れる女性の生き様を描き出していく。彼女たちの日常世界は、朝井リョウらしい、実に細やかな言葉たちによって、薄い布を少しずつ重ねていくかのようにその厚さを増していく。

『社会の歯車、というあまりにもよく使われているその言葉を、全く違う方法で、鮮やかに、いやらしくなく表現しているものが名刺だ』

『誰かが隣にいれば、学校の授業が終わったそのあとの時間は放課後という呼び名に変わる』

『嘘かもしれないこんな光景があってやっと、自分はおいしいものを食べていいのだと、やわらかい布団で眠ってもいいのだと感じることができる』

誰もが感じたことがあるくせに言語化したことがない感情。日常の隙間に転がっていて普段視界に入らないもの。そういうものを小説の細部に組み込むのが、朝井リョウは実に巧い。世界への関心の度合いが違うのだろう、と思わされる。朝井リョウと僕では、機能はまったく同じ目を持っているけど、見えているものはまるで違うだろう。そう感じざるを得ない。


これまでも朝井リョウは、女性を実に巧みに描き続けてきた。女子高生ばかりを主人公に据えた連作短編集もあったほどだ。しかし本書は、これまでのどの作品よりも、女性の世界を描いているように思う。女性しか入学できない舞踊学校と、その卒業生による舞台、そしてファンクラブ。学生時代の描写では男も重要な役割として登場するが、基本的にこの作品は、女ばかりが描かれる作品だ。


僕は女ではない。だから僕がどんな評価を下したところで説得力など欠片もないと分かっているが、しかし僕はいつも、朝井リョウは何故これほどまでに女性を描ききることが出来るのだろう、と思ってしまう。分からない。もちろん男を描くのも巧いが、異性をどうしてここまで感覚的に絶妙的に捉えることが出来るのか。しかも本書で描いているのは、朝井リョウよりも年齢を重ねた女性たちの悲哀だ。そこにどんな孤独の淵が待ち構えているか、その時彼女たちがどんな感情に見舞われるのか、それによって彼女たちのどんな部分がどんな風に変化するのか。どうしてそれを、朝井リョウが知っているのだろう?不思議だ。


内容についてはほとんど触れなかった。ほとんど自分の話しか書かなかったから、感想と言える代物でもないだろう。けれど、朝井リョウの作品を読むと、大体気持ちが不安定になる。「お前のことはお見通しだぞ」と言われている気分にさせられる。それでも朝井リョウの作品には、そういう感情を押しのけてでも読みたくさせる引力がある。


以前、朝井リョウの「世界地図の下書き」という作品の感想で、こんなことを書いた。

『僕はどうしても、朝井リョウには、「内面の表現力」を期待してしまうし、かといって小学生にそこまでの表現が出来るのかとも思ってしまうので、読んでいてどうしてもその部分が落ち着かなかった。朝井リョウの文章は、子ども視点には馴染みにくいように思う。朝井リョウの文章は、小学生の「体感」には尖すぎるように思う』

「世界地図の下書き」は、小学生を主人公に据えた作品だった。僕は、朝井リョウの作家としての最大の武器は、内面の表現力にあると感じているのだけど、それを小学生に適用してしまうとちょっとちぐはぐな印象になってしまうと思った。


朝井リョウが描く大人は、やはり良い。素晴らしい。これほど繊細に、それこそ大聖堂の天井画でも描くかのような巧みさで内面を切り取れる作家はそう多くはないだろうと思う。社会人として働きながら作品を生み出し続けていく朝井リョウ。直木賞作家という重圧をひらりとはねのけて、これからも素晴らしい作品を生み出していって欲しいと思う。


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長江貴士
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