【能登半島地震半年】「地元の本山」必ず復興…總持寺祖院、拝観を限定再開
※文化時報2024年7月9日号の掲載記事です。
能登半島地震は1日、発生から半年を迎えた。被災地では宗教者の活動が盛んになっており、復旧は少しずつ進みつつある。石川県能登地方の象徴というべき曹洞宗大本山總持寺祖院(石川県輪島市門前町)も、重要文化財17棟を含む伽藍(がらん)の被災を乗り越え、日常の法務や拝観が戻りつつある。(高田京介)
「まだ復興にはほど遠い。苦しい状況が続くが、実際に来て見て、復興の意義を感じてもらいたい」。高島弘成副監院はそう話す。
今回の地震で總持寺祖院は、約30の伽藍が被害を受けた。加賀藩祖・前田利家の妻・お松をまつる塔頭(たっちゅう)芳春院は全壊。約33メートルある回廊「禅悦廊」も崩れた。僧堂(坐禅堂)は再開できておらず、修行僧も自宅待機を強いられ、この間は僧堂歴に加味されないという。
そうした中、5月12日に花まつりを開催。6月15日からは限定的に拝観を再開した。7月20日には施餓鬼供養も行う。
拝観は午前9時~午後3時で、当面は拝観料を徴収しない。被災した伽藍には今も足場が設置され、全壊した回廊はビニールシートで覆われている。それでも山門から僧堂や法堂を巡り、仏殿で釈迦如来坐像を参拝できるようにした。
わずかながら観光客も戻り、復興祈願特別御朱印を求めにくる人もいるという。近くに住む60代の男性は「毎朝参拝に訪れている。檀信徒は簡単にお経も唱えている」と話した。
輪島市門前町の住民たちにとって、總持寺祖院は宗旨を問わず能登のシンボルになっている。門前町郷土史研究会会長の谷内加映さん(74)は「寺基が移転しても、『本山』と仰いでいる」と語った。
信仰と観光の象徴
總持寺祖院は1321(元亨元)年、太祖・瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師が、真言律宗の諸嶽観音堂を總持寺と改めたことに始まる。
瑩山禅師は大乘寺(金沢市)で僧堂の基礎を築き、遺命を受けた峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師が教団運営の足元を固めた。そして總持寺は大本山永平寺(福井県永平寺町)と並び、約1万6千カ寺を抱える巨大教団の故山として知られるようになった。1898(明治31)年に焼失したことで、寺基を現在地の横浜市鶴見区に移したものの、伽藍は再建され、總持寺祖院と称されるようになった。
2007(平成19)年に最大震度6強を観測した地震でも壊滅的な被害を受けたが、総事業費約40億円と14年の歳月をかけて「完全復興」を宣言。落慶法要が開創700年の21年に営まれたばかりだった。
元日の能登半島地震が発生して以降、全国曹洞宗青年会や宗関連の公益社団法人シャンティ国際ボランティア会(SVA)などの宗侶らが続々と現地入りし、總持寺祖院を拠点に、避難所や被災寺院で活動してきた。
3月にお見舞いに訪れた石附周行貫首は「信仰面でも観光面でも祖院は象徴」と述べ、復興に意欲を示した。6月まで行ったクラウドファンディングでは1千万円超が集まり、僧堂の復旧へ向け関係者と調整している。
高島副監院は「瑩山禅師や峨山禅師の生涯、本山の歴史を顕彰する意義がある。地域の人の復興にも、祖院は欠かすことができない」と話している。