みんなとは感覚がズレているんじゃないだろうか
『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』平野啓一郎著の第1章「本当の自分」はどこにあるか?から、気になった部分を挙げてみました。
本に書かれている分人のエピソードをすずかつ体験と重ねてみることで、分人主義からみるとどんな見え方なのかを考察してみたいと思います。
心の揺れ動きのなかで、わかるわかる!という共感が起こることと、自分の場合は少し違うなと思うこと、人によって体験の相違があっても、分人主義的な考えを取り入れることが日常をどう楽に生きるきっかけを与えていくか?
第1章「本当の自分」はどこにあるか p16より
中学校の休み時間。教室の中では、クラスメイトがいくつかの輪になって騒いでいる。私も大体、そのどれかに加わっていて、私の周りに輪ができることもあった。友人たちとは仲が良かったし、学校も楽しかったが、それでも、ふと、みんなが盛り上がっている話題に、さほど共感してない自分に気づくことがあった。面白くないというより、どこか、満たされない感じだろうか。
すずかつも、似たような感覚がありました。
「昨日、テレビの〇〇みた?」とか「あのCM知ってる?」とかの、そんなたわいもない話が、その場ではとても重要で。でも、本当はどこかどうでもいいような気持ちで過ごしていたのを覚えています。
第1章「本当の自分」はどこにあるか p16より
小学生のころまでは、そんなギャップは感じなかった。しかし、中学生になったころから、笑顔で調子を合わせているものの、自分はちょっと、みんなとは感覚がズレているんじゃないだろうかと感じることが多くなった。
平野氏は、小学生のころまでは、、、なかったと言っているが、すずかつは小学校からすでにギャップを感じていた気がします。さらに、親となったいま現在のすずかつは、娘やその友達を見ていると、もう就学前の保育園からすでにその感覚があるように感じます。
この感覚を生じるのが時代の違いなのか?環境の違いなのか?はわかりませんが、幼い子どもたちの社会ですでにあるように思えています。
第1章「本当の自分」はどこにあるか p16より
私はしばらく、それは、自分とその学校とが合ってないからなんだと考えていた。
「学校に行きたくないなぁ」と思う理由になりそうです。こんな漠然とした気持ちを大人が聞いても、理解してくれないのを子どもながらにわかっていました。でも小さなすずかつは、そもそも言葉にならなかったなぁ。
第1章「本当の自分」はどこにあるか p17より
高校はむしろ真反対の校風の学校にしようと考えて、「文武両道」を掲げる地元の公立高校に進学した。
ところが、ここでも違和感は一向に解消されなかった。むしろ、いよいよ孤独を感じるようになって、さすがに今度は、やっぱりこの学校も自分とは合わない、とは思わなかった。
この辺りの解釈ができるところは、平野氏が賢い人だな(京都大学卒ですもんね)と思います。すずかつは高校を選ぶとき、新しい環境に出たいと思ったんですが、余計に自分の居場所がない気がしました。地方の片田舎で情報も少ないというのもあったかもしれません。
漫然といやいやながら(行かされてるという思い)学校に行っていたすずかつは、自分で選択したという感覚ではなかったように思います。
第1章「本当の自分」はどこにあるか p17より
これは「個人」と社会との根本的な矛盾で、そうである以上は、どこの学校に行っても同じなのだと考えるようになった。
こんな風に、自分で選んだ。その結果、違った。と思えるには、その頃のすずかつの場合には、もう少し自己決定をしていることに気がつく経験が必要でした。
第1章「本当の自分」はどこにあるか p17より
中学にも高校にも良い思い出はたくさんあり、友人にも恵まれていたが、当時はともかく、教室という場所そのものに耐え難さを感じていた。
今もこんな風に感じている、小学生、中学生、高校生はたくさんいるのではないかと思います。そもそも「学校が好き、勉強が好き」という言葉に、そもそも大人が違和感を感じるのは、日本特有なのでは?と思ったりしています。
平野氏の年齢から遡れば、30年経った現在。変わってないどころか、むしろ増長しているようにも。。
第1章「本当の自分」はどこにあるか p18-19より
どうしてこんなに俺の気持ちがわかるのか?当時はまだネットもなかったから、小説は、自分の生まれ育った時代や場所から解放してくれる、もっとも身近な存在だった。
そのうち私は、家で本を読んでいるときの自分こそは、「本当の自分」で、教室で友達と笑いあっているのは、「本当の自分」じゃないんだと思うようになった。
「自分らしさ」と「本当の自分」がつながる瞬間なのかなと思います。人は誰しも、自分が自分らしくいられる瞬間があるはずで、そうではない場面の割合の方が多いわけですよね。自分らしい瞬間とそれ以外。
この二極的な見方が問題になってくるということに次回以降、見て行きたいと思います。
次回、「本当の自分/ウソの自分」というモデル