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リスクと「不気味なもの」――樋口毅宏著『中野正彦の昭和九十二年』(イースト・プレス)の発売中止問題に触れて

【書評】絓秀実

1 言論表現の自由の基盤

 現在、われわれは「言論表現の自由」が――無条件に?――保障され享受されるべきだと、漠然と考えている。時折、政府や官憲が発動する「言論弾圧」めいた権力の発動に対しては、ジャーナリズムから必ずと言っていいくらい批判の声があがる。だが同時に、「ヘイト」等々と呼ばれる――許されない?――言論表現が多々存在していることも、広く認識されている。民族差別、宗教差別、性差別等が、あるいは、それにかかわるいわゆるヘイト・スピーチが、言論表現の自由の名のもとに許容されるべきだという意見は、少なくとも欧米普遍主義下の「先進」国においては、いちおうは劣勢である。もちろん、これらの趨勢に対する「バックラッシュ」が今後も止むことはないにしても、である。
 少しでも歴史を振り返ってみれば分かるように、「日本臣民ハ法律ノ範圍內ニ於󠄁テ言論著󠄁作印行集會及󠄁結社󠄁ノ自由ヲ有ス」と謳った明治憲法下において、さまざまな「言論弾圧」が公然と行われてきた。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」、「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と明記した現行日本国憲法下においても、その事情はあまり変わっていない。われわれは、言論表現が自由である「かのように」ふるまいうるだけである。その態度は維持されなければならない。だが問題は、なぜ、われわれは言論表現が自由である「かのように」ふるまいうるのか、ということである。粗略ながら、この点を押さえておこう。
 資本主義を導入した近代国家において、言論表現の自由が謳われなければならなかった理由は、誰もが知るように、「市場」の社会への浸透と全面化傾向にある。市場においては、誰もが相互に自由で平等な小商品生産者=所有者(個人)として「売りと買い」に相対しているという擬制が成立しなければならない。その市場は、国家や前近代的な遺制からは自立した領域であると見なされた。
 その自由で平等な独立した諸個人によって生産された言論表現も、市場において商品として流通するようになるだろう。そのような商品が、出版資本主義の成立によって可能になった近代的な芸術作品であり、とりわけ「小説」であったことは論をまたない。
 近代以降においては、音楽、美術、演劇、詩、批評といった、以前から存在していた芸術諸ジャンルも、近代にふさわしいように「改良」されていったが、そのためには国家の庇護や助成が必要とされた。自立的に市場に登場する商品は、「小説」という新たなジャンルをモデルとする。その傾向は今でも変わらない。
 端的に言えば、自らの制作した作品を商品とすることで「食える」か否かということである。職業作家なるものが、それである。作家が市場に存在していることを前提にして、はじめて言論表現の自由という擬制も可能なのである。
 自立的な小商品生産者=所有者は、相対的に裕福な諸個人として現出するわけだが、そのような存在が一般的に広がっていない地域、つまり西欧モデルの「市民社会」なるものが成熟していないと見なされる地域においては、言論表現の自由よりも貧困の克服が、政策的に優先される。あるいは、言論の自由が保障されていたはずの、分厚い中間層を維持していたところにおいても、それが崩壊の危機に瀕すれば、言論の自由は、たちまち「ヘイト」の自由に変貌する。
 そのことは、今日の世界を見れば、誰にでも感得できるだろう。身も蓋もなく言ってしまえば、差別を禁止し、なおかつ言論表現の自由を行使するということは、「金持ち喧嘩せず」、「衣食足りて礼節を知る」以上を意味したことが、ほとんどない。繰り返すまでもなく、その「金持ち」とは、富豪のことではない。理念化された小ブルジョワのことである。
 以上のことは、当たり前のことだが、ついつい忘れられがちなので、あえて粗く記しておいた。
 ちなみに、すでに明治憲法に見られるごとく、それが「結社の自由」をも保障していることは、近代の、小説家をモデルとする芸術家=小ブルジョワが、同時に「革命家」の面影を残していたことをも意味している(もちろん、それが「法の枠内で」と限定されているにしても)。芸術家が同時に革命家をも含意している(いた)ことは、同時代人であったボードレールとブランキの頃から続いていた。そのことは、「革命」なるものがほぼ死語となった現代においては、その語を――時にはアントレプレナーシップ、イノベーション、構造改革と名前を変えて――最も愛用するのが、資本主義の側であることを見れば明らかなことである。しかし、本稿で主張したいのは、現代の小説家が、今なお革命家(あるいは、革命的?)でもあるといったことではない。

2 資本の合理性と限界

 樋口毅宏の、スキャンダラスな表現と内容に溢れた小説『中野正彦の昭和九十二年』(以下、『中野正彦』と略記)が、配本直前に版元イースト・プレスによって回収され発売中止になった事件は、それ自体でかなりスキャンダラスな事件であり、幾つかのメディアにおいて議論されている。これは『中野正彦』が「実名」の登場人物を多数含んでいて、名誉棄損等の裁判沙汰になることを恐れての処置だとも言われる。また、本書は嫌韓嫌中、女性差別などを公言しているヘイト本ではなく、むしろ反対の企図は明らかだが、ヘイトと「誤読」されるのを危惧してなされた処置とも推定されている。
 回収されはしたが幾つかの手段によって入手可能な『中野正彦』を見てみれば、版元は発売に当たって相当の配慮をしていたことがうかがえる。帯(表)において、大きく「安倍晋三元首相暗殺を予言した小説」というキャッチコピーが記されているが、その同じ帯(裏)には、「※実在する人物、団体、出来事とは一切関係ありません」という文字も読まれる。このような文言は、普通は作品本文の末尾に小さく記されるのが通例だが、それをあえて帯文に記したのは、いわゆる「モデル問題」にかかわって、版元が法律上の対応を含め、熟慮したことをうかがわせる。本書には、安倍晋三のみならず膨大な「実在の人物」や「団体、出来事」が登場している。そして、それら「実在」の対象への参照なしには読めない。そうしなければ面白さもない。しかし、それらを虚構として消化しているという版元の自信が、帯文で表現されていたはずだ。
 作品内に登場する「実在」の人物から名誉棄損等で訴えられるリスク――あるいは、その他幾つか考えられるリスク――に、版元が改めておびえたということは、十分にありうる。そして、そのようなリスクに耐えうるか否かは、基本的に、版元資本の力量と覚悟如何にかかっている。つまり、裁判闘争を含む法律対策を十分に準備し、なおかつその費用負担に耐えうるだけの資力を持っているか否かということが、まず問題になる。そして、資本が、そのようなリスクを負ってでも、なおかつ、『中野正彦』を刊行することにメリットを見出すかどうか、ということである。
 帯文によれば、本書の刊行を「大手出版社は躊躇った」ということだから、本書版元は「大手」ではないのであろう(かと言って、いわゆる小出版社でもあるまい)。版元は、そのようなリスクを改めて検討してみて、出版を最終的に中止したと見なすのが妥当なのかもしれない。
 これは、言論表現の自由の制限ではあるが、資本の論理としては合理性を持っている。『中野正彦』は、刊行され、広く読まれて然るべき作品だと思うが、その判断は資本に委ねられているわけだ。われわれが存在する「かのように」ふるまっている言論表現の自由は、当然のことながら、こうした資本の制約を帯びているわけである。もちろん、このようなことへの対抗手段は、昔から幾つかあるし実行もされてきたわけだが、資本が言論の公共性を支えているという否定すべくもない時代にあっては、それ自体が十分に対抗的であることは困難であろう。

3 リスクヘッジとしての反ヘイト

 もう一つの本書回収の理由は、『中野正彦』が「ヘイト本」と「誤読」されることへの危惧にあったという説である。そうだとして、これも資本のリスクヘッジと見なすべきである。
 ウルリッヒ・ベックの『リスク社会』(原著1986年、邦訳『危険社会』)は、近代が啓蒙や進歩の時代から、気候変動や原発事故、パンデミック等々の「リスク」に直面している社会へと相貌を変えていることを論じて、再帰的近代化論の有力な参照先となっている。それについての論議は措くとして、本稿に即して言えば、リスクとは「人新世」の「惑星的」なものであるという以前に、資本にとってのリスクであると考えるべきである。
 差別やヘイトへの対処、より一般的にはポリティカル・コレクトネス(PC)と呼称されるものは、資本にとってのリスクであるがゆえに行使されるのであって、特段、資本が差別を悪いと思っているからではない。確かに、資本主義市場は自由と平等を旨としているように見えるが、差別も商品となり売れるとなれば許容することをためらわないのは、ヘイト本がいくらでも流布していることを見ても知られる。
 もちろん、それがリスクとなると見なせば、資本はヘイト本を回収する。『中野正彦』は反ヘイト小説であるにもかかわらずヘイト本と「誤読」される恐れから回収されたとすれば、それも、単なるリスクの観点からなされたものに過ぎない。そして、「誤読」の可能性は防げないとして、その観点を許容してしまうことは、小説作品に対する批評の放棄以外ではない。ここで、「誤読の権利」(鶴見俊輔)や、それとは違った概念だが「誤配」(デリダ)などを持ち出す余地などない。
 この間のヘイト言説に対する各メディアの対応を逐一検討するには及ばない。多くの場合、それらは資本にとってのリスクヘッジの観点からなされているのである。ある場合には、炎上商法を狙ってヘイト言説を掲載してみた右派系雑誌が、あまりにもアンチの声が大き過ぎて廃刊に追い込まれるという事態があった。書いた本人自身は居直って逃げおおせた(杉田水脈)。また、ヘイトの常習者であるにもかかわらず、それは独自の爽快な(?)キャラクターによる「ホンネ」の吐露であったと、死ぬまで許されていた保守政治家(石原慎太郎)もいる。それは、彼の発言にリスクが生じないと見なされていたからであろう。
 思い返してみれば、前世紀末あたりまでのヘイト――当時は「ヘイト」という言葉は流布していなかったが――と言えば、部落差別が中心であった。それは、部落差別糾弾が、全国水平社以来の長い歴史を持ち、なおかつ、当時の部落解放同盟が他のマイノリティー諸団体に比して、圧倒的な政治的・大衆的力量を誇っていたからである。管見の限りでも、解放同盟の差別糾弾闘争は苛烈なものであり、出版社その他はそれを畏怖していた。しかし、あえて断言するが、当時の糾弾される側の出版資本その他も、差別問題を基本的に「リスク」として捉えていたと言える。悪名高い「差別語の言い換え」は、リスクヘッジの端的な例である。
 しかし、ここでは詳述する余裕はないが、差別問題が「国民」規模の部落問題に収斂されえない時代が、明らかに日本でも到来している。現在のメディア資本は、解放同盟を中心に置いて差別問題に応接していれば済むわけではないだろう。『中野正彦』に読まれる「ヘイト」言説は嫌韓嫌中を多く含みながらも多岐に渡っているが、少なくとも部落差別にかかわるものは表立っては(後述する例を除く)見いだせない。

4 『中野正彦』の理性的聡明さ

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