中動態にとって「怒り」とは何か?――近藤恒夫氏の自伝『薬物依存』から――
【評論】小峰ひずみ
こんにちは、小峰ひずみです。
先日、私は『平成転向論 SEALDs/鷲田清一/谷川雁』を発売しました。おかげさまで、多くの人に読んでもらっているようです。ありがとうございます。今回は『平成転向論』には入れなかったけれど、私としてはやはりはずせないよね、ということを文学+の場を借りて、述べさせていただきたいと思います。短いですが、お付き合いください。
『平成転向論』は政治家・活動家・企業家・支援者などの実践者について述べています。つまり、主体の話をしています。しかし、今日、主体は自らの意志で動く人という意味では使われていません。哲学者の國分功一郎は、私たちの「歩く」という行為についても、「歩こう」という意志がその行為の原因にあるかどうかはわからないと述べ、意志という概念を批判しています。実際、脳科学では「脳内で行為を行うための運動プログラムがつくられた後で、その行為を行おうとする意志が意識の中に現れてくるのだという」研究成果がある(注1)。國分によれば、「行為を「意志の実現」と見なす」という見方は「少しも妥当」でないのです。
本書は國分に大きな課題を突き付けられたことになります。そもそも実践者はいかにして実践を始めるのか。それが意志ではないとすれば、何か。終わりに近いですが、國分の論考を批判的に検討していきましょう。國分の意志批判は、薬物依存者の回復施設であるダルクの実践など影響を受けつつ、その実践についての学的解釈を可能にしたものです。國分は意志という概念を批判するときに、アルコール依存症者や薬物依存症者を例に出します。
たとえば、薬物依存症者は薬物を所持することで法により罰せられます。つまり、主体として自ら進んで薬物を入手したとみなされます。しかし、國分は「違法薬物の使用もまた心身をめぐる何らかの耐えがたさと結びついていることは容易に想像できる」と述べ、薬物を所持・使用するという行為を本人の「意志の弱さ」や「責任」と言って片づけるわけにはいかない、と言います。では、なぜ、薬物を手に取ってしまうのか。國分の用語法を導入する余裕はありませんが、あとで解説するとして、そのまま引用しましょう。
國分は、原因が結果になるのではなく、「原因が結果において自らの力を表現する」と考えます(注3)。薬物依存症者の場合、彼/女は虐待の記憶のフラッシュバックなどの「外部からの刺激」によって「圧倒されてしまっている」。そこで彼/女が薬物を使用した(変状)という「結果」になったとしても、それは彼/女自身というよりは、その「外部からの刺激」(原因)の現れに他ならない、ということです。そこでは彼/女は自分自身よりも「外部からの刺激」の力に動かされているのです。つまり、記憶などの「外部からの刺激」から薬物を使用するよう「強制」されている、と國分は言います。では、この「強制」から「自由」になるには、どうすればよいか。
私たちは自分がどのような場合、どのように自分自身が変化するのか、行為してしまうのか、認識することで、「自由」になる、國分は述べています。というのも、自分自身のことを認識することで、自分自身の力を「結果において表現する」ことが少しずつできるようになるのです。見事な分析だと思います。
しかし、ここで問題になってくるのが、社会運動が生じる原因のひとつとされる「怒り」です。というのも、ダルクの創設者であり、自身も薬物依存症者である近藤恒夫は、アルコール依存症者の支援者からの「差別」をはね返す形で、「怒り」ながらダルクを創ったということが、自伝を読むとわかるからです。ダルクはポッと生まれたのではありません。明らかに近藤の「怒り」がダルクを創っています。國分は「怒り」について次のように述べています。
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