【論考】四方田犬彦「零落の賦」
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
犀星
1
一九七〇年代も半ばを過ぎたころのことだった。学位論文を執筆するため映画にも芝居にも出かけず、髪も髭も伸ばしっぱなしで、昼も夜も部屋に閉じこもり、案前に積み上げた英語の書物を相手に唸っていた時分のことである。
もうすぐロンドンに行くからちょっと出てこないと、元同級生の女性がわたしを誘った。親には一週間で帰るっていってあるのだけど、本当のことをいうと、もう二度と帰るつもりはないのよという。わたしは彼女に会いに、久しぶりに外出した。待ち合わせの場所は神田にある某画廊。知り合いでちょっと面白い絵描きさんが個展を開くから、そこで落ち合おうという段取りになった。
画廊は神田の駅から大通りを南に少し歩き、しばらくして路地を左に曲がり、高速道路を越したところにあった。現代美術には疎い学生には見当もつかなかったが、その筋では著名な人物の経営する画廊らしい。建物の一階、倉庫のように薄暗い廊下を突き抜けると、何やら賑やかな気配がしている。ヴェルニサージュの日だというので、大勢の人が詰めかけている。すっと入って行くと、何も頼んでいないのにワインが出た。約束をした元同級生はこちらの知らない西洋人たちと愉しそうに談笑している。こりゃいいわとワインのお代わりをしているうちに、自然の欲求が身を擡げてきた。
ふたたび薄暗い廊下に戻り、人気のない階段のわきを抜ける。用を足して明るい場所に帰ってくると、どことなく海象を思わせる巨体の画廊主と目が合った。初対面なので挨拶をしたところ、彼はぶっきら棒な口調で話しかけてきた。あそこに婆あがいただろう。気が付いたかい。
そういえば誰か人がいて、トイレを掃除していた。女性にしては大柄だなあとは思ったが、別に気にも留めていなかった。
知ってるか。あれは長谷川泰子といって、もうずっと前からここでトイレ掃除をしている婆あなんだ。
長谷川町子なら知っている。『サザエさん』の漫画家だ。だけど長谷川泰子? 誰だったかなあ。
何だ、長谷川泰子も知らないのか。近頃の学生さんは文学を読まないのかね。教えてやるよ。昔、中原中也と小林秀雄を手玉に取った女だよ。
わたしは一瞬、聞き間違えたのかと思った。中也は好きだ。小林秀雄は読みかけたが、何だかわからないうちに放り出してしまった。憶えているのは「女は俺の成熟する場所だった」という名文句だけだ。
そう、それだよ。その成熟する場所の女が、もう二十年近くこのビルで掃除婦をやってるんだ。驚いたかね。
わたしは慌てて、戻って来たばかりの廊下へと引き返した。トイレにはもう誰もいなかった。
しかし、そんな文学史に記憶されるような女性が、どうして選りによってこんなところでトイレ掃除をしているのだろう。しかも二十年近くにわたって。だって天下の美女だといわれた人じゃなかったのか。
ふと小野小町のことが連想された。美人で歌を詠むにあたっては才気煥発、貴族の男たちの尽きせぬ憧れの的であった小町は、年老いてすっかり落ちぶれてしまったという。長生きはしたものの往年の美貌は見る影もなく、死んで死骸が腐乱し散逸するまでが、世の無常を示す絵画として遺されている。晩年の小町の本当のところについては確かめる術がない。とはいえ、そうした伝説が語り継がれてきたことの道徳思想的な意味は、理解できなくはない。それは西洋中世の師父たちがいくどとなく説いたように、現世の肉体の美と虚栄のはかなさである。
話はそれで終わりである。わたしを誘った女友だちは、その言葉通り、ロンドンに渡ると日本に戻ることはなかった。彼女は彼の地でパンクロックのバンドを結成し、イギリスのTV局で最初のレギュラー番組をもった日本人となった。
長谷川泰子は一九〇四年、広島に生まれ、十九歳のときに女優を志して上京した。関東大震災の後に京都に移り、マキノ映画制作所に入社。そこで中学三年生の中原中也と出逢った。二人は同棲を始め、やがて手を取り合って東京に移る。泰子は中也を捨て小林秀雄のもとに走り、極度の潔癖症に陥ってしまう。彼らは転々と住まいを変え、疲れ切った小林は奈良へ出奔。泰子は中也と再会したり、松竹蒲田で映画に出演をしたりするうちに、「グレタ・ガルボに似た女性」コンテストでみごとに優勝。青山二郎の紹介で、京橋や銀座の酒場に勤めるようになる。中也が三十歳で夭折したとき、彼女は富裕な実業家と結婚して田園調布の豪邸にいた。かつての恋人の名を不朽にしたいという思いから夫を説き伏せ、中原中也賞を設立し、第一回の受賞者は立原道造である。
だが栄華の時期はそこまでである。長谷川泰子は戦後離婚し、世界救世教に入ってその本部にしばらく滞在した後、東京に戻ってビルの管理人となった。一九七四年七十歳になったときには、『ゆきてかへらぬ 中原中也との愛』という自伝を口述し刊行している。わたしが神田の画廊のトイレで見かけたのは、その四年後のことである。彼女はその後も生きて、一九九三年、湯河原の老人ホームで八十八年の生涯を閉じた。
自伝に掲載されている写真を見ると、斜め向こうをきっと睨みつけている視線が印象的な美人である。いかにも激しそうな性格のように見えるが、写真だけで人格を判断するのは軽率だろう。とはいうものの、本人が気に入り、わざわざ自著に掲げたのであるから、やはりこの映像に彼女は在りし日の自分の、理想とすべき自我を投影していたのだろう。グレタ・ガルボの向こうを張ってやろうという意志と誇りの強さが、そこからは感じられる。
長谷川泰子との接近遭遇からだいぶ経って、わたしは『眠れ蜜』(一九七六)という映画に彼女が出演していることを知った。後に中原中也全集を編集することになる詩人、佐々木幹郎が若き日に脚本を担当し、岩佐寿弥が監督したフィルムである。そのなかで長谷川泰子は遠き日に体験した恋愛を振り返り、フランス語でシャンソンを歌っている。かつて小林秀雄の親友ではあったが、やはり彼に離反された青山二郎といっしょに伊豆の海を見つめ、誰もいない舞台でステップを踏んでみせる。頭巾のように黒布を頭に巻きつけたその姿は、女子修道院の老院長といった雰囲気がしなくもない。
わたしの印象に残ったのは、彼女が過去の人生を熟考したあげくに吐いた、数々の言葉だった。彼女は無人の舞台に椅子を出して坐り、独り語りを始めた。背景には「グレタ・ガルボに似た女性」コンテストに応募したときの写真が、大きく引き伸ばされて展示されていた。小林に去られた夜のことは、下駄の足音が聞こえてまた帰って来ると思っていたのに、夜明けまで帰ってこなかったと語る。彼女はそのときの心境を、あたかもメロドラマの一場面であるかのように淀みなく語った。人生が頂点を極めた瞬間のひとつだった。
長谷川泰子はこの話を、たぶんもし求められれば人に語って聞かせていたのだろうし、彼女にあえて会おうとする者は、誰もがこの手の話を期待していたはずである。わたしは『歴史は女で作られる』というフィルムを思い出した。オフュルスの手になるこのフィルムの主人公、ローラ・モンテスは、諸国を渡り歩いて男性遍歴を重ねたあげく、最後にはすっかり落ちぶれてしまい、自分の悪名高い物語をどさ回りの見世物芝居にして演じるまでになる。またこれはちょっと極端な例だから不用意に並べるのはどうかと思わなくもないが、大島渚の『愛のコリーダ』(一九七六)で有名な阿部定も同様だった。彼女は獄舎から出ると、戦後は全国を廻り、「阿部定ショー」なる舞台でみずからを演じ続けた。
零落した女性は生涯の終りまで、自分の過去の栄光を繰り返し語る。かつ演じる。彼女たちはそれを期待されているのだ。考えようによっては、これは残酷なことではないだろうか。
ヴェルレーヌは書いている。
君、過ぎし日に何をかなせし。
君今こゝに唯だ嘆く。
語れや、君、そもわかき折
なにをかなせし。
(永井荷風訳「偶成」)
『眠れ蜜』に登場したとき、長谷川泰子は七十二歳だった。わたしが神田のトイレですれ違う二年ほど前のことである。映像を観てわたしは、女性にしては大柄な人という印象が間違っていなかったことを確認した。
一瞬であったとはいえ、長谷川泰子をその人と知らず見てしまったという体験は、後々までわたしに奇妙な残滓として残った。長きにわたって画廊のあるビルの掃除を生業としていること自体が人間にとって零落だといいたいわけではない。とはいえ大正という年号が昭和に切り替わる時期の日本文学にあって、後にもっとも重要な存在だと見なされることになる詩人と批評家の間に立ち、彼らに文学的霊感を与えて余りあった女性が、戦後になって誰にも知られることなく、モップとバケツを手にビルの薄暗い廊下を歩いているという光景は、何か適当な文学理論さえ発見できれば文学作品の分析など容易にできるはずだと高を括って学位論文の執筆に勤しんでいた当時のわたしには理解を絶したものであった。「祝祭」やら「異化作用」といった当時の流行語、小林秀雄の『モオツァルト』の言葉を借りるならば、「自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉」で頭がいっぱいになっていたわたしがかろうじて到達できたのは、「零落」という言葉だけだった。だが零落とは何か。それを思考することは、無限の宇宙に眼差しを寄せることよりも困難なように思われた。わたしがこの観念に真に到達するには、さらに長い時間が必要だったのである。
2
零落とは何か。人はいかにして零落し、その零落を生きるのだろうか。
高みにあって衆人の注目を浴びているとき、人の姿は容易に確かめることができる。誰もが彼について、彼女について語っている。どこで何をしたか。誰と会ったか。何を書き、どのような行動をとったか。その一挙一動が伝えられ、噂され、毀誉褒貶の話題となる。
とはいうものの、ひとたび栄光の玉座から失墜してしまったとき、その姿はたちまち見えなくなってしまう。どこで何をしているのか、誰も知らない。いや、知っていても知らないふりをしたり、曖昧に口を濁らせたりする。
その人物が高みにあったとき、人々はその姿を正確に見ていたのだろうか。実はそのときでもよく目を凝らしてみると、微かにではあるがすでに失墜の予兆が認められていたのではなかったか。だが誰もそれに気が付かなかった。いや、より正確にいうならば、認めようとはしなかった。本人もまた例外ではない。いつまでもこうして絶頂を極めていることはできまい。破局が接近して来る気配は確かにあったのだ。ただそれを正面から認識することに、なぜか心が向かなかっただけなのだ。とはいえ不吉な予兆はやがて無視しがたいばかりに巨大となり、脅威の存在と化して行く。どうすればいいのか。
零落が開始される。零落は恐るべき速度で彼を、また彼女を蝕み……。誰もが去っていく。つい今しがたまで、あれほど親し気に付き合い、心を許し合ったはずの者たちが、示し合わせたかのように姿を見せなくなってしまう。いったい何が起こったのか、誰も何も説明してくれない。彼は、そして彼女はこうして置き去りにされていく。忘れ去られていく。
そういえば……と、あるとき誰かが想い出そうとするのだが、切れ切れの噂が声を殺して、かそけく伝えられるばかりだ。驚いたよ、あんな場所であおうとはね。最初見たときはわからないくらい変わっていた。まさか、まだ生きているとは思ってもみなかったなあ。
どんな気がする
どんな気がする
自分だけになってしまい
帰り道もなくなって
もう誰にも知られていない
石が転がっていくのと同じだなんて
ボブ・ディラン
枯葉のように風に飛ばされ、わたしの手元に吹き寄せられてくる、切れ切れの噂。
今から半世紀前に国民的人気を博していた女性アイドルが、その後忘れられ、経済的苦境に追い込まれてしまう。彼女は起死回生を狙ってスクリーンで裸になったり、ヌード写真集を刊行したりするが、一度失ってしまった大衆の関心を引くことは二度とできない。インタヴューで知るかぎり、彼女は現在高齢者施設に住み、生活保護を受ける身である。施設の滞在費はかつてのファンクラブの面々が分担して払っているが、彼女の浪費癖はいっこうに止むことがない。
ノーベル文学賞候補になった小説家が自作自演した短編映画で、割腹自殺する夫を見取り、みずからも自刃して死ぬという大役を演じた女優が、出演体験のあまりの壮絶さと崇高さにそれ以後、女優をやめてしまう。しばらくは服飾誌のモデルをしていたが、精神の均衡を崩して入退院を繰り返し、最後には新宿歌舞伎町のピンク・キャバレーでフロアに登ると、乳房も露わに踊るまでに落ちぶれる。源氏名は「アグネス・ラム」であった(岡山典弘『三島由紀夫外伝』、彩流社)。
かつては横綱にまで上り詰めた力士が、暴力事件を引き起こして相撲部屋から逃走する。鳴り物入りで悪役レスラーとしてデビューしたものの、ほどなくして追放処分。総合格闘技へと移るが、ここでは負け戦となる。糖尿病に苦しみ、医師からは両膝下切断を提案されたが拒否。見る影もなく痩せ衰えて死を迎える(樋口毅宏「失われた東京を求めて」六十九回「『横綱』は金看板か足枷か」『散歩の達人』二〇二二年三月号)。
いったいこうした風評は、どこまでが真実でどこまでが虚偽であるのか。人は眉を顰めながら、こっそりと醜聞を語り合う。ねえ、お聞きになって。ちょっと信じられない話ですけど、あのスワンさんがご結婚なさる相手の方って……。ピエル・パオロがどうして故郷を捨ててローマに出てきたかですって? あの方が大学であんなに立派な地位にまで上り詰めたのに息子さんに自殺されたのには、ここではちょっといえないようなわけがありましてね……。そう、どこまでが真実の話なのか。誰もが真剣に耳を傾ける。いや、傾けるといったふりをする。というのも、すべてがまったくどうでもいい話だからだ。とはいえ人々は熱中して耳を傾けている。わたしたちは関係ない。わたしたちには考えられない。そうやって肩を窄めてみせるだけの理由から、誰もが夢中になって話している。
3
だが……と、わたしはいまだに逡巡している。はたして自分は零落について書くことができるのだろうかと。わたしはまだ零落について何も知らないのだ。
何年か前に、わたしは愚行について一冊の書物を書いた。それは自分の愚行に気付いたことが原因だった。「愚行というのはどうも苦手だ」(ポール・ヴァレリー)。わたしはこれまで自分がいつか愚行を犯してしまうのではないかという恐怖の念に取り憑かれて生きてきたのだが、そうした観念がそもそも愚行に他ならないという事実に思い当たったのである。だが愚行と零落とはまったく違う。人はまだ充分に失墜していないときにかぎって、自分がいつ失墜するのだろうかという不安に襲われるものだからだ。
わたしはまだ零落を体験したことがない。破産して路頭に迷うこともなかったし、政治的受難によって、「査証なき惑星」として亡命の途に就いたこともない。凶悪な冤罪事件に巻き込まれ、知人友人のいっさいに見捨てられるという体験もないし、アルコールや薬物、新宗教に耽溺して家庭を崩壊させたこともない。息子に同性愛者だと告白されて、思わず手を上げてしまったということもない。わたしほど旧約のヨブから遠いところにいる人間もいないのかもしれない。そう、わたしとは冒険も勇気も欠いた、人生の凡庸さそのものである。
思うに零落をするために人が必要としているのは、ひとたび栄光の頂点に立ち、栄華の巷を睥睨するといった体験ではないだろうか。高みに立たないかぎり、人は低所に赴くことはできない。とはいえわたしのこれまでの道のりはひどく平板であり、道筋が微かに歪んでいたり、わずかばかりの坂の傾きがあったとしても、全体としてはきわめて凡庸なものだ。わたしは若くして突然の脚光を浴びるといった幸運とは無縁であったし、思いがけない恩寵に恵まれて名声の頂点に立ったという思い出もない。わが身の低落を嘆くにはすべてにおいて卑小で退屈な人生を生きてきた。いったいそのような人間に、零落を語る資格があるのだろうか。
だが、それにしても……と、わたしはふたたび留保の口調に戻る。それならばわたしはどうしてこれまで零落してきた人々に心魅かれてきたのだろうか。どうして失意と窮乏の果てに世を身罷った者たちのことが気になってしかたがなく、何年もかけて資料を蒐集し、彼らの評伝を執筆してきたのだろうか。
この二十年の間にわたしは三人の人物について、作品論を含んだ評伝を書いている。内田吐夢と大泉黒石、それに由良君美である。わたしは若い時分からずっと彼らの晩年が気になって仕方がなかった。
内田は戦前戦後を通し、日本映画界においてもっとも偉大な映画監督の一人だった。戦前には悲惨な農村の現実を描いた意欲作で高く評価され、戦時下では国策的な歴史大作を手掛けた。戦後には仏教的な無常観の漂う時代劇を次々と発表し、日本映画監督協会の重鎮として活動した。とはいうものの映画産業が斜陽となり大掛かりな映画制作が困難となったとき、彼は製作会社と喧嘩をし、監督の機会を奪われ、引退を強いられた。京都の邸宅を引き払い、小田原に四畳半一間の部屋を借りると、海岸を散歩して流木や小石を拾い、細工物を拵えるだけが愉しみという、倹しい生活となった。いくたびか監督として復帰する話が出かけたが、そのたびに立ち消えとなった。それでも最後に一本を撮る企画が実現し、癌に蝕まれながら撮り終えた。逝去したとき銀行預金はなく、二千円あまりの現金が遺されていただけだった。
わたしが評伝を執筆した二人目の人物、大泉黒石は、さらに悲惨な晩年を過ごした。彼はロシアの外交官と旧士族の娘との間に生まれ、亡父の遺産のおかげで、幼少時からモスクワやパリを転々として学業を修めた。混血児ゆえにどこへ赴こうとも奇異の目で見られたが、奇抜なる人生体験を得意の饒舌体で記すことで大正時代の文壇に輝かしく出現した。古代中国の哲学者を主人公とした小説がベストセラーとなり、異国情緒と怪奇趣味の混じった短編小説が話題を呼んだ。ドイツ表現派映画の向こうを張り、若き溝口健二と組んで日本でも同様の実験映画を試みた。とはいうものの彼は虚言癖が災いし、著名作家たちの妬みもあって文壇を追放されてしまった。自嘲的に小説の筆を折り、戦時下の日本にあって窮乏生活を強いられた。戦後は進駐軍の通訳となり、もっぱら富裕層の住居の接収と補償の交渉を担当した。世間からは完全に忘れ去られたまま、米軍基地横流しのウイスキーに耽溺し、六十四歳で生涯を終えた。
わたしがその零落の記をものした三番目の人物、由良君美は、大泉黒石の愛読者であり、その全集の編纂者であった。彼は西脇順三郎門下の秀才としてロマン主義を専攻し、若き日に英文学者として目覚ましい活躍を見せた。哲学、美術、日本文学について博識を誇り、東京大学で教鞭を執りつつ、文化ジャーナリズムにあって名声を得た。だが煩雑なる女性関係とアルコール依存症に苦しみ、しだいに奇矯な言動が目立つようになった。大学の研究室と精神病院とを往復する日々のなかで友人たちに見捨てられ、弟子たちに愛想尽かしされた。大学を去ると、六十一歳で逝去。彼はわたしの大学と大学院時代の指導教官であった。わたしは傷ましい思いを抱きながら、彼の晩年の荒廃を『先生とわたし』という書物に記した。
内田吐夢、大泉黒石、由良君美。彼らはいずれも晩年に到って深い零落に陥った芸術家である。三人の生と作品について論じながら、わたしは老いたる彼らに襲いかかった不運と絶望の深さに同情せざるをえなかった。映画界にあって、また文学界に、アカデミズムにあって、彼らはいずれも若き日に栄光を享受した。斬新な手法と主題で注目され、衆人の期待を集めた俊英であった。
内田吐夢は『土』で一九三九年の『キネマ旬報』ベストワンに選出され、戦後も『大菩薩峠』三部作、『宮本武蔵』五部作といった大作を堂々と完成させた。日本映画の黄金時代を満喫したといっても過言ではない。それが一転して世捨て人同然の生活へと転落してしまう。乃木大将の伝記映画を監督してから死にたいという望みは、結局実現できないままになった。
大泉黒石は幼くしてトルストイの薫陶を受けるという、大正教養人なら誰もが羨むような体験をエッセーに記すことから文筆業に入った。西洋の数か国語に通じ、博識と奇想に裏打ちされたその作品は、洛陽の紙価を充分に高めた。だが凋落の後には、戦時下の食糧難解決のために野草料理のレシピ本を執筆して糊口を凌いだ。彼は老子哲学に倣った「黒石」という筆名を用いることを恥じ、それを無名の本名のもとに刊行した。
由良君美は戦後の日本英文学会では一大権威であったT・S・エリオットを、その根底にある文化観において批判し、コールリッジに範を得て、イギリス詩学とドイツ哲学、ロマン主義とマニエリスムを統合的に理解することを提唱した。だが鬱病とアルコール依存症によって頭脳の明晰を失い、多くの研究計画を放棄したまま逝去した。
溢れんばかりの才能をもちながらも、こうして不幸な晩年を強いられた者たちは、最後にどのような言葉を遺したのか。彼らははたして自分の人生を悔いていたのか。自分をきれいに忘れ去った世界を憎んでいたのか。それともすべては時間の虚しい過ぎ行きにすぎないという境地に達し、わが身の凋落を達観して眺めるまでに到っていたのか。わたしに書くことを促したのは、こうした問いであった。
(続きは、「文學界」2023年10月号でお楽しみください)
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