【エッセイ】山内マリコ「お前に軽井沢はまだ早い」
東京の東側に引っ越してきて、今年で九年目になる。地方出身者の多くがそうであるように、それまではずっと西側に住んでいた。サブカルチャーと親和性の高い中央線に憧れ、二十代は吉祥寺と荻窪を渡り歩いた。
ところが三十歳を過ぎてから東側に惹かれるようになり、お試しのつもりで引っ越してみると、妙に居心地がいい。人口が少なく摩擦熱が低い。道のうねりや坂の勾配に、江戸や明治の匂いを感じる。越してすぐ、八百屋のにいちゃんと顔見知りになった。彼に「こんちわ」とがさつに挨拶するとき、わたしは自分を好きになる。
故郷といっても生まれ育った富山県富山市の市街地は、里山的な地域とはほど遠く、「地元」と呼ぶに相応しい。コミュニティが消滅し、そのわりに“近所の目”だけがあるような、せせこましいただの住宅街だ。住民は車さえあれば困らない暮らしなので、誰とすれ違うこともなく、近所づき合いは薄い。とにかくどこへ行くにも車車車。街を歩いているだけで注目を浴びてしまう。
人に紛れられる都会はそれだけで自由だ。大阪や京都にも住んだことがあるが、これは東京だけの自由さなのだと思う。地元ではついぞ感じることのできなかった人間味のある小さな交流を、大都会、東京砂漠だけが味わわせてくれる。東京に来て、あっという間に十八年が経っている。
今年の元日、地元に帰らず東京に残っていたわたしは、近くの神社へ初詣に行った。これまでは手を合わせながら家族の健康と幸せを念入りに願ったものだけれど、昨年父が他界してしまったのでモチベーションがガタ落ちし、もごもごと胸中で口籠った。まあ、ひとつよろしく、みたいな感じで踵を返し、帰宅してテレビをつけると、地元を大地震が襲ったという緊急ニュースが全局で流れていた。
元日に震度七とは。呆然としながら実家の母や、その近くに住む兄に連絡すると、幸い大きな被害はなく無事だと言う。震源の能登から距離のある富山市内は、震度五強だった。東日本大震災のときの、東京くらいの揺れだろうか。
富山を出たのは一九九九年だから、もう大昔だ。富山市にある実家はその十年前、平成元年に新築している。バブル期ならではの立派な、どっしりした鉄筋コンクリート造だ。フローリングの床、二階にはバルコニー。好きなインテリアを選んでいいよと住宅カタログを渡され、お星さまの照明にしたいと駄々をこねたところ、あえなく却下されてしまったことがあった。真新しい家のわたしの部屋の天井には、なんの変哲もない真四角の、蛍光灯照明がはまっていた。
個室はうれしかったが、ほんの少し前まで二段ベッドの下で眠っていた子どもからすると、広々した個室はどうにも落ち着かない。明るすぎる照明も、真っ白い壁も。フローリングの床は冷たくて、一畳ほどのカーペットを敷いた隅っこにいるのが好きだった。引っ越して一年ほどはベッドの枕元に、大量のぬいぐるみを並べて眠った。
それまでは同じ土地に、祖父が戦後に建てた日本家屋に住んでいた。もちろん瓦屋根。縁側があり、庭には松が植わり、池には錦鯉が泳ぐ。坪庭には鬱蒼とした棕櫚竹。台所のそばの勝手口を開けると、二槽式の洗濯機があった。物干し場には、ポンプ式の井戸まで……。
このごろすっかり昭和はネタみたいに語られるようになったが、解像度にバラつきがあって、「あ、それは平成」と思うようなものも、昭和扱いされることが多い。家のディテールだけでもわかるように、昭和と平成は全然違う。わたしも昭和には約十年かすっているだけだが、それでも四分の一は昭和でできており、なかなかの含有率だ。その昭和メイドな部分が、わたしを東京の東に向かわせたのだろうか。
東側で部屋を探しはじめて、二軒目に出会ったマンションにいまも暮らしている。「古くても大丈夫です。古い方が好きです」と不動産屋さんに伝えて案内されたのが一九八三年築だったので、それは全然古くないぞとがっかりした。六〇年代築のヴィンテージマンションを期待していたのだ。
一九八三年築のマンションは、恐ろしく住み心地がいい。リビングには床暖房完備。その時代の最先端だったであろう、ナショナルのシステムキッチンには食洗機もついていた。造り付けのガラス戸の食器棚に、天然石のカウンター。わたしが子どもの頃に見ていたテレビドラマに出てくる、おしゃれな家という感じ。
リビングの天井照明には、応接間にあるような木枠とガラスを使った、クラシカルな細工が付く。細部にお金をかけたこだわりに、昭和の人のロマンが宿る。それでいて、床の間に網代天井の凝った和室もわざわざ作っているところが、とっても昭和五十八年的だ。愛おしい。離れられない。
そんなわけで、ちょっとお試しのつもりで引っ越してから、あれよあれよと九年。自分が小学三年生から高校卒業まで、平成建築の実家で暮らした期間と、ほぼ同じだけここに住んでいるとは。いやはやいやはや。
このあいだ、まちづくりの仕事をしている方と話をした。曰く、田舎から上京し、はじめは西側に住んだものの、加齢に伴って東側へ移り、下町を味わい、俺が求めていたものはこれだと自己確認したのち、故郷にUターンするパターンは多いらしい。
能登半島地震のあと、わたしの地元がテレビに映る機会も増えた。かつてないほど里心を刺激される。されど東京は楽しく、引き裂かれながら、いっそ中間地点である軽井沢が頭をよぎる。いやいやお前に軽井沢はまだ早い、東京でがんばれと、思わず自分を鼓舞した。
(初出 「文學界」2024年3月号)
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