崎谷はるひ著『クジラ・トレイン』
気になった短編があったのでご紹介させてください。
先日に引き続き「あの日、あの駅で。 駅小説アンソロジー」
(ほしおさなえ、岡本千紘ほか著 集英社オレンジ文庫、2020)からの紹介です。
題名に挙げている『クジラ・トレイン』。
ブラック企業でSEとして働く男性「伊村」が、コロナ流行のなか鎌倉までプチ旅行をする。
道中、一年前同じルートで鎌倉を訪れたことを思い出しながら、その日々と今を重ね合わせる。
観光客だらけの鎌倉高校前、そこで出会った不思議な少女。会社に帰属しながらも、仕事上のストレスによって自分が腐っていく感覚を持て余していた伊村。
ふたたび降り立った鎌倉には、何が待っているのか——。
私がライト文芸で、コロナ禍の時代を真正面から描写した作品を読むのは、これが初めてだった。
(もしかしたら、すでに出版されているものもあるのかもしれない。全部フォローできているわけではないので、念のため)
そのせいもあって、印象的な短編だった。
伊村は、キャリアとしてはもう先が見えていてどん詰まりだし、アラフォーという設定の上にこんな不況下なわけだから、将来が明るいわけがない。
けれど彼には、まるで悲愴感がない。
有給休暇という会社員が持つ当然の権利を振りかざして堂々と休み、ふらっと鎌倉くんだりまで遊びに出かけてしまう。
失うものは何もないと開き直っているかのように。
彼の開き直りに学ぶところは、実は多いのかもしれない。
「自分ひとりがなにをしようがしまいが、世界は勝手にひっくり返るのだ」
これはまったくそのとおり。
今の状況で、手も足も出ずじたばたするより、好きなことをひとりで楽しんでしまったほうが、楽に生きられるのではないだろうか。
自分ひとりでどうにもできないことは、人生のほとんどといってもいいくらいたくさんある。
もうちょっとソフトに。もうちょっと長い目で。
自分の人生について考えてみてもいいし、いったん考えるのを棚上げしてみるのも、実はいいのかもしれない。
普段なら「現実逃避」と呼ばれてあまり歓迎されないことが、大手を振ってできる。
こんな機会も、なかなかないだろう。
また、こんな言葉もあった。
「孤独とは、集団のなかにあってはじめて感じるものらしい」
「自分だけが『弧』であると痛感するのは、他社と比較する視点があってこそだ」
私がつねづね感じていたことを、ずばっと斬ってくださっていて、ありがたかった。
この作品が、ひとりでも多くの読者の眼に触れ、少し心を軽くするお手伝いができたらなあと、心底思う。
ほかにも、岡本千紘著『どこまでもブルー』、奈波はるか著『夜桜の舞』が収録されている。
前者はさわやかな青春人情ミステリー、後者は能がテーマと題材が珍しいので、ぜひお手に取っていただきたい(できれば書店で!)。