(再掲③)2023年のモネ展をもっと楽しみたいならコレ読んで!!!
こんばんは。
今日はレトルトのハヤシライスを食べました、ぶんぶんです。
え?昨日の豆乳鍋の件、引きずってレトルトにしたんじゃないかって?
いえいえ、まさか~(^^)←
ではでは、早速ですが本題ですね!
本日は1867年頃の仲良し4人組、印象派メンバーについて再掲です!
1867年のパリといえば、パリ万博があった年でした。
万博って、一番初めはイギリスがやったんですが、記念すべき第2回目はフランスで開催されたんです。
モネさん達が生きた時代は、がっつり産業革命が起こっていた時代だったので、交通機関とかも数十年前よりも急速に整って、電車で遠出できるようになり、市民でも気軽に旅行へ行けるようになったりしたけっこう激動の時代でした。今では有名なパリの街並みも、このときに整備されたんですよ!
オスマンのパリ改造計画とか言われてますよね。
そうですね…。
このときのモネさん達の「物事が急激に変わっていく」イメージとして、一番わかりやすいのは今でいう携帯電話からスマートフォンになった時の急速なインターネット化社会になった現象に近いと思います。
私はよく電車に乗っているときに思うんですが…。
今は電車に乗っている人の多くがスマートフォンをみて時間を過ごされているかと思いますが、数十年前までこの景色はなかったわけで。数十年前までは、誰もスマートフォンなんか使っていなかったわけです。
そういうときに、時代が急激に変わっていったんだなぁってしみじみ思ってしまったりしちゃうんですが。。。
そんな感じで、1867年のパリでも、数十年前までとは全然違う街並みになり、国中に鉄道の線路がひかれはじめたりして、急速に人々の価値観や文化が変化していった年だったんだと思います。
そんな激動の時代でモネさん達は青春を送っていた…胸アツ。
あ!そういえば!
その頃のパリの古い路地裏の写真とかをトレスしたものがあったんで、それをのせちゃいますね!ご参考程度に!!えーい!!('ω')ノっつ
で、パリで万博やるよ!ってなったとき、フランス中だけでなく、産業革命のウェーブに乗った世界中の人々が、この1867年、パリに大集合をしたと。しかも自国の最新の技術を持って!
なのでけっこう当時としては、「万博」はインターネットの世界並みに、知らないことを知れる、凄いイベントだったんだと思います。
自国以外の世界がどうなっているのか、この万博で人々は世界観や価値観を広げたし、変わったし。
それに伴って、アーティストたちはこの万博に参加することで自分のことを広告できるいい機会だったんだと思います。
ちなみにこのときの万博、世界42ヵ国が参加し、会期中の来場者数は1,500万人以上だったそうです。すげぇ!
日本人だと渋沢栄一さんとか訪れていたみたいですね。もちろんモネさん達もこの万博を見に行ってます。
(私はNHK大河で、渋沢栄一がパリ万博を訪れたシーンを観ながら、モネさん達が映り込んでいないかドキドキして見ていました(頭がおかしい))
そして、そんなときモネさん達は、ある一つの策を考えつく…!!
それは1867年の官展に自分たちの絵が展示されれば…。
そしてあわよくば「こんな絵みたことない!!」みたいな革新的な絵を描いて、メディアに取り上げられれば…?話題になって…??
有名画家になれるかもしれない…!!!
万博と同時期に官展の展覧会も開催されるので、
これはもう売れるためのビックチャンスではないかと考えるわけです。
※ただし入選しないと、官展で展示されません※
そこで印象派の皆さん、
めっちゃ気合い入れまくって、大作をこの1867年の官展に提出しました。
仲良し4人組メンバーは、このとき名誉も地位もお金もなかったので、まじで、ここに命をかけてた。
ということで。
1867年頃のモネさん達は死ぬ気で入選するための絵を頑張った。本当に頑張った。
なぜなら、モネさん達は年齢的にもう後がない。
当時のモネさん達の状況を簡単に言えば…。
皆、27歳ぐらいで就職せず
画家になるんだーーーー!という夢のもと
社会的には現状ニートと同じ扱いだったんで
家族にも恋人にも迷惑ばかりかけていました。
売れない芸人並みに、この機会を逃せばまじで後がないってことですね…。
モネさんなんか妻子いますからね。この年(1867年)に子ども生まれちゃってますからね。
モネさん、ルノワールさん、バジールさん、シスレーさんは、この年の官展にそういう想いで望んだわけです。
おりゃぁ!!一発入選して大逆転狙うんじゃーーーーーー!!!!!!
はい、1867年の官展、入選者の結果は!!?
全員、落選するっていう…。
地獄かな…?
この頃のことをバジールさんが手紙で残しているんですが、
「現状の官展(サロン)は審査員の好みで入選作品が選ばれていて、俺らの絵がはじかれるのが大変不本意!!みんな良い絵を描いてるのに!!あと絵を描くのも、画家を目指すのもお金がかかるのに、審査員の好みで人生左右されるってどういうこと!?」プンプン
「もう官展に出品する意味がないわ!!」
(意訳)ってバジールさん激おこ。
ちなみにブルジョアグループのマネさんは、このとき大金を払って個展を開いてました。
これが金持ちと庶民の違いぃぃ…( ´ᾥ` )ギリィ
そこでバジールさん、このときに新たな策を閃く。それは…
自分たちだけのグループ展を開けばいいじゃん!?
マネさんみたいに、自分たちも個展開けば、みんなに見てもらえるじゃん!!…という精神。
今までは国が主催する官展でしか作品の発表の場がなかったし、官展の審査員は革新的な絵あんまり好きじゃなくて、入選しなかったんで、これからの時代を作っていく才能あるけど貧乏な画家たちは出世できないでいた…。
だから、この考えは当時のモネさん達にとってはナイスアイディアだった。
そう、金銭面を除いては…。
そこでバジールさん、さらに考えまして。
お金が無い者同士が、お金を出し合って、それぞれの自信作をお披露目する場を作るのはどうよ?と考えに至ります。
革新的すぎじゃね?という理由で、いい絵を描くけど官展の審査員にハブられた画家たちを集めて、お金を出し合って、絵をそれぞれ数点持ち寄って、
グループ展を開催しよう!
国が主催じゃないから、審査員の評価は気にしなくていい!平等に作品を世間に発表できる!という希望のもと、「モネたちと個展開く!!」と意気込むバジールさん。(一番年下)
今ではアーティストの人たちが集まってグループ展を開くって普通の考え方だと思いますが、ここが原点です。グループ展を開くっていう考え方の始まりは、こんな感じで始まりました。
そこでバジールさんは印象派メンバー含め「官展ありえないよね」っていう考え方の画家グループたち、みんなに声をかけて資金繰りを始めます。
が、結局、グループ展が開催できる額の資金は集まらず…。
バジールさん、どんまい…(´-ω-`)
グループ展の件は、いったん保留になります。
しかしこのときのグループ展の構想が、後に1874年の印象派展の構想に繋がっていくんです。
それが叶うのは1870年に勃発した普仏戦争の後なのですが、このときの戦争で、グループ展の提案者、
バジールさんは出兵して戦死してしまいます。
そう、印象派展は発案者バジールの死後に実現しました。
では発案者のいない印象派展が、このあとどのように開催されていくようになったのか…。
それは、また明日か明後日の更新でお話しようかな~~と思います!
いまめっちゃ眠い!!!(知らんがな)
また明日もよろしくお願いいたします!