そんな日のアーカイブ 川本三郎講演 下町の感受性 宮部みゆき原作 大林宣彦作 「理由」
読売ホールで川本氏にお会いするは3回目。声や口調や話の流れがだんだん親しいものになってくる。
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今回のテーマである「愛」は苦手なジャンルだ。
この講演依頼を断ろうとさえ思ったほど、興味がない。しかし、ひろく愛ということを考えると家族愛も含まれるだろうと思った。
そういう意味では宮部みゆきさんも恋愛に重きを置いていない珍しい女性作家である。そういうタイプの女性作家は他に小川洋子さんとか川上弘美さんとか恩田陸さんがいる。ドロドロの恋愛には興味がなく、ふっきって別の世界を描いてる作家たちはさっぱり系の女流作家だ。
宮部さんはボーイッシュばさっぱり系の作家であり、深川育ちの下町っ子である。
かつて宮部みゆきさんと桐野夏生さんと篠田節子さんの対談を聞きにいったことがある。桐野さんと篠田さんはおすまし系の美人なので自分から話すことはなく、宮部みゆきさんが旺盛なるサービス精神ひとりで話題をつくって、そのふたりにふったりしていた。宮部さんはまことに好ましい人柄だと感心した。
恩田陸さんが作家を読者系の作家と作家性の強い作家の二つに分けている。読者系の作家というのは10代のころ読者として読んだときの興奮をいまだに持ち続けているひとたちのことで、角田光代さんもそのタイプで、その流れを作ったのが宮部みゆきさんだ。
宮部さんの作品にはその人柄のよさが作品に反映している。たとえ殺人があってもその読後感が良い。それはその殺人が理由のある殺人だからだ。
下積みの生活をおくるひとがやむにやまれず殺人を犯す。そういう意味では社会派的な作家なのだけれど、松本清張に比べると暗さや陰惨さがない。明るくユーモアがあって、救いがある。
そしてまた宮部さんは下町の雰囲気を大切にしている作家でもある。墨田区や江東区あたりには濃密な下町人情共同体がある。それは町工場の世界なのだ。製品のおのおのの部品工場があつまっており互いに連絡をとりあってひとつの製品をつくる。そういうところで必然的に生まれた共同体の濃密な情報ネットワークができている。
緊密な人間関係が残っているところで生まれ育った宮部さんはまた、それが変化していくのも見て育っている。変化する風景を悲しみを持って見つめている。
町工場が邪魔者扱いされて埼玉のほうへ移っていく。そのあとに大きなマンションができて、人々が移住してきて緊密な人情共同体が崩れていく。
その下町の変化を宮部さんは見て育った。
「今夜は眠れない」や「東京下町殺人暮色」という作品では町の再開発の描写が出てくる。「思い出を削って最先端の活気を買う」ところを作品のなかの子供はクールに見つめている。
「理由」という作品も下町の変化を背景に描かれたミステリーである。荒川区の隅田川べりの高層マンションの一室で一家四人が殺された。そこはかつて染料工場があったところだが、邪魔者扱いされて転出した。
80年代バブル時代に建てはじめたゴージャスでバブリーなマンションが92年に出来上がるとバブルは崩壊していたのだった。この日本の経済を象徴する設定がたくみだ。現在に繋がる経済の変化が描かれている。
バブルが崩壊し買ったマンションのローンが払えず手放す。転売するたびに価値がさがる。宮部さんは日常の生活者から見て経済の問題を先取りしていた。
さても殺された4人は何の関係もなく家族のふりをしていただけだった。それは専有屋という商売で不当に住み着いて立ち退き料を取るひとたちだった。
その部屋を買ったのはトラックの運転手で、島根から出てきて高度成長期を底辺で支えてきたような男性だった。妻を亡くし娘と息子と自分の母親の四人で住むためのなけなしの金をはたいてようやくその一室を買うことができたのだった。
そのトラックの運転手は犯人だと思われ、真犯人ではないのだか彼は逃亡生活を送る。その逃げ込んだ場所が江東区森下町の簡易旅館である。
ここはあまり描かれることのない場所なのだが、
いかにも犯人が隠れやすい場所であり、ここを冒頭にもってくるのがいかにも下町を知っている宮部さんらしい。
そのドヤ街の旅館の経営者に中学生の娘がいる。
彼を四人殺しの容疑者を気づいて両親に相談する。
その少女がこんな台詞を言う。
「なんかかわいそうなおじさんなんだ」
この一言があることでこの小説はすくわれている。
中年の男を悪人と決め付けてはいない。犯人を断罪するのではなく、人間を白と黒にわけるのではなく、グレイゾーンで見ている。大人の目で見ている。それは下町で培われた人間を見る目なのではないか。
人を見る目の優しさ、人間を肯定する少女の人情がこの小説の底に流れているため読後感がいいものになっている。
宮部作品は法を守ることと情を大事にすることがしばしばぶつかる。
「ぼんくら」という時代小説は深川長屋殺人事件なのだが犯人である八百屋の娘を住人はかばってお上に差し出さない。法を守るより情のほうが大事だという考えがある。それは山本周五郎や藤沢周平の世界にも共通する、江戸市井ものの特色だ。
「理由」は犯人探しのおもしろさではなく、事件の背後、社会的背景のほうが大事な小説である。
運転手は専有屋のひとりをたずねてきた赤ん坊をだいだ若い女の子をかばって警察へ出頭する。根底のところで人間を信じようをする、しがない庶民こそが情をもっていることが描かれている。
宮部作品には家族の愛情がどこかにある。人柄のよさが作品ににじみ出ている。犯人をかわいそうだという視点をいつも持ち続けている。
「火車」という作品で女性がいう。
「何の悪いことをしたのだろう。ちょっとしあわせになりたいと思っただけなのに」
そういう人間の悲しさである。
映画「理由」はテレビ用に作られたものである。
原作は登場人物が非常に多く、100人以上のひとが、それぞれ生活背景を背負って描かれているため映像化するのは難しいと思われたが、大林監督はそれを実にみごとな傑作に仕立てた。
まず作り方である。これはテレビのワイドショーのスタイルを取った。映画では役者はカメラを見てはいけないというタブーがあるのだが、それを壊して、平気でカメラをみてマイクにむかって事件を説明し、話していく。それはなんだか目からうろこのやり方だった。
もうひとつは内容。大林監督は昔風の少女に象徴されるある種の一生懸命さが好きなひとなので
少女を拡大し、その役割を大きく突出させた。
ドヤ街の娘、赤ん坊を抱えた若い女の子、トラック運転手の娘の三人だ。小さい女の子でさえ、情をえらぶという世界を描いた。