教えてタカハシさん~日本美術史余論~#4「青花山水図四寸盌」上の畑焼・傅益瑶画
山形でつくられた染付の四寸盌
大森 今日は素人の写しでもなければ、複製でもないですよ。
高橋 傅益瑶さんの染付(青花)?
大森 そうです。昨年末に傅さんから頂戴したものです。今年1月に刊行された『水墨の詩』(鳳書院)の編集をBUNBOUでお手伝いしたのですが、その責了のタイミングで傅さんが編集に携わったひとりひとりに染付をプレゼントしてくれたんですよね。
高橋 僕も頂戴しました。ひとりひとり別の盌で、それぞれに絵付けをしてくださって……。
大森 箱書もまた、それぞれに詩を詠んでくださったんですよね。
高橋 ありがたい限りです。
大森 その他の関係者には描き下ろしの水墨画を贈られたり、講演会の会場で書籍を購入された人には葉書大の水墨画をプレゼントされたり、人としての振る舞い方をいつも教わってばかりです。
高橋 ホントですね。ところで、この覆紙はなんですか。僕がいただいたものにはなかったと思うんですが……。
大森 これは僕が自作したものです。せっかくいただいたので、数寄者よろしく仕覆と中込をこしらえて、「長江」という銘を付けたんです。箱書の詩に赤壁のことを詠んでくださったことと、なんとなく「源遠流長」という言葉が頭に浮かんだので「長江」――。
ただ、箱蓋の表裏にはすでに傅さんの文字が書かれていたので、ならば覆紙をこしらえてそこに銘を書こうと、こう思ったわけです。
高橋 さすが……変態。
大森 仕覆と中込については、傅さんにお見せする機会があって「あなたは面白い。遊び人ね」と声をかけてくださいました。
ともあれ、今回は傅さんが山形県尾花沢市で制作されたこの四寸盌を取り上げて、高橋さんにひとつ聞きたいことがあるんです。
高橋 難しい質問はやめてくださいね(笑)。
大森 よく「日本美術」「中国美術」って言い方がされると思うんですが、この境目ってどこにあるんですかね?
例えば、傅さんは中国でお生まれになって、中国近代画壇を代表する画家である父君の傅抱石さんから文人教育を受けられます。日本留学中には平山郁夫や塩出英雄といった日本画壇の大家らに師事し、その後は現在にいたるまで日本で活動をされていますよね。描かれる主な作品は、父君の手法を踏襲された水墨画ですが、主たる画題は仏教画や俳句の詩意画、日本の祭りシリーズです。傅さんの作品って「日本美術」なんですかね? それとも「中国美術」?
高橋 ……大森さん、それは実に答えにくい質問というか、難しい質問なんです。ひとまず、傅さんがどちらかという問いは横に置いておいて、「日本美術」と「中国美術」の境目について、僕が知っていることをあくまで雑談としてお話ししてみますね。
日本美術を代表する絵師が憧れたもの
高橋 まず思い浮かぶのは長谷川等伯です。いまや日本美術を代表する等伯は、中国美術に強い憧れを抱いた絵師でもありました。
例えば、等伯は慶長四年(1599年)に京都の本法寺に寄進した〈涅槃図〉あたりから、落款に「自雪舟五代」と書くようになります。つまり、自分は雪舟から5代目にあたる絵師だと名乗るようになるんです。
あるいは、等伯が書画をめぐって語った内容を、本法寺10世の日通が「等伯画説」としてまとめています。ここに書かれていることの半分以上が、中国の絵や画家についてなんです。
大森 日本美術を代表する絵師が多分に中国美術の影響を受けていたという話は、現代の感覚からするととても興味深いです。
高橋 美術という領域に限っても、中国の唐時代から近現代にいたるまで文物の交流は字義通り数えきれませんからね。僕もきちんと調べてみないとはっきりしたことは言えませんが、あくまでいま頭に思い浮かぶことで、なるべく体系的に具体例を挙げてみましょうか。
大森 ぜひお願いします。
高橋「中国美術→日本美術」というベクトルの作用で言うと、主に3つの側面があったと言えると思うんです。すなわち「人」「物」「技術」です。
「人」については、実際に大陸から日本へ渡り、造形の伝播や創出にかかわった人たちがいました。16世紀の後半から茶の湯で用いられるようになった楽焼にも、その形跡が見て取れます。大森さん、楽焼の初代といえば?
大森 長次郎ですよね?
高橋 そうです。その長次郎について、『本阿弥行状記』という書物に次のような一文があるんです。「楽焼の事、飴屋長次郎が親は中華の人なり」、つまり長次郎の親に当たる「飴屋」は「中華」の出身だと。詳しい経歴は分かっていませんが、楽家に伝わる系図にも「あめや」の名は記されていて、初期の楽焼に中国の三彩に似た作品があることも知られています。
大森 日本美術を代表する楽焼の〝元祖〟が、中国出身である可能性があるということですね?
高橋 そうです。あくまで可能性の話ですけどね。
次の「物」で言うと、思い浮かぶのは「東山御物」です。これは室町幕府の第3代将軍・足利義満や第6代の義教らが収集し、第8代の義政によって整理された美術品の総称で、宋・元から渡ってきたものが多くを占めます。平安時代にはすでに「唐絵」に対する「大和絵」という言葉が使われているので、いまで言う「日本」と「中国」の区別はあったと思います。
大森 なるほど。「源氏物語絵巻」という日本美術の代表作がすでに生まれていた時代に、唐物が将軍家の宝物になっていたわけですね。
フレームの外を強く意識するべき
高橋 最後の「技術」については、現存する最古の絵画評論とされる「六法」が思い浮かびます。
「六法」とは、絵の制作と鑑賞に関する6つの規準のことで、中国・南北朝時代の謝赫という人物が『古画品録』(6世紀頃)の序文で説きました。筆遣いを表わす「骨法用筆」や構図を意味する「経営位置」などの目に見える要素もあれば、現代の感覚では捉えにくい「気韻生動」という言葉も並んでいます。この六法は、日本にも伝わり、その後の日本美術にも大きな影響を与えるんです。
大森 高橋さん、「人」→「物」→「技術」で、わざと時代を遡ったでしょ。よくよく考えてみると安土桃山時代→室町時代→中国・南北朝時代ですもんね。
高橋 あ……ホントだ(笑)。
大森 でも、おかげさまで美術の領域において、日本と中国は古くから切っても切れない関係にあることはよく分かりました。というか、そもそもの僕の問いが不毛でしたね。日本美術と中国美術をわざわざ立て分ける必要はない……。
高橋 いや、そうとも言えないというのが僕の考えなんです。だって大森さん、「今日は中国料理を食べよう」「昼が中国料理だったから、夜は和食にしよう」って、日常の素朴な言動としては普通ですよね。
大森 はい。そこには思想も何もない気がしますね。単なる気分や好み。
高橋 国によって調理の手法や味つけに違いがあるように、美術品にもそれぞれの地域ならではの特徴があると感じるのは自然なことです。ただ、「日本美術」にしろ「中国美術」にしろ、何かしらフレームを設けるときには、枠の外を切り捨てるのではなく、むしろ強く意識することが大切なんだと思うんです。ひとまず引いてみた線の内側と外側で、歴史的にどんな交流があったと考えられるのか。それを探ることで、自明だと思っていたフレームの大きさや形はいくらでも変わってくるでしょうし、場合によっては内と外がひっくり返るような事態も起こり得るかもしれません。
大森 フレームをつくって内側だけにこもると唯一性の落とし穴にハマってしまうということですかね。「日本美術が世界で最も優れている」みたいな。あたりまえのように美味しい中国料理を食べるから、和食もまた美味しいと思える。その逆も然り。
高橋 そうなんです。その点で、日本美術と中国美術を立て分けることを否定する必要はないと思うんです。
大森「フレームの外を意識するべきだ」というのは、高橋さんが取り組まれている「法華衆の芸術」というテーマにも同じことが言えますね。本阿弥光悦・俵屋宗達・長谷川等伯・狩野派・尾形光琳・歌川国芳・葛飾北斎に代表される日本美術の巨匠たちを法華衆というフレームでくくろうとする新しい試みをされているわけですが、高橋さんの著作『法華衆の芸術』(第三文明社)ではフレームの外にいながら密接に内側にかかわっている神坂雪佳を取り上げましたよね。あれこそが、高橋さんがおっしゃる「外を切り捨てるのではなく、むしろ強く意識する」ことの実例なんだと思います。
高橋 ありがとうございます。まさにそのことを意識しました。
傅益瑶の座右の銘「気韻生動」
大森 高橋さん、蒸し返すようですけど、そうなるといよいよ冒頭の問いに対する答えが難しくなりますね。傅さんの作品は日本美術なのか、中国美術なのか……。
高橋 いや、本当に難しいんです。先ほど中国・南北朝時代に生まれた六法の話をしましたよね。傅さんのアトリエに伺うと、そのうちの「気韻生動」と揮毫された色紙が飾られているんです。
大森 ありますね。「気韻生動」ってどういう意味なんですか。
高橋 これまた難しいんですが、「生気が満ち溢れていること」と言われたりします。
大森 なるほど……それが制作・鑑賞のための方法の1つとなると、現代的な思考の枠組みのなかで生きる僕からすると、なかなか抽象度が高い言葉に感じますね。
高橋 傅さんのアトリエにある色紙の興味深いところは、この「気韻生動」の言葉を認めたのが金原省吾だという点です。
大森 金原省吾といえば美学者・美術史学者で、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)を創設したひとりですよね。あるときに傅さんへの贈り物を検討していて、たまたま古道具屋で武蔵野美術大学の校章を見つけたことがあるんです。校章は金原省吾が書いた「美」の文字がかたどられているものです。結局、他のものを贈ったんですが。武蔵野美術大学には傅父娘がともに留学しているんですよね。傅抱石さんは金原省吾と直に交流もしています。
高橋 そうなんです。およそ1500年以上前に母国・中国で生まれた言葉を座右の銘にしているところは、さすが傅抱石さんから生粋の文人教育を受けた人だと思う反面、アトリエに飾っている色紙は父親が世話になった日本人が認めたものなんですよね。ここに傅益瑶という水墨画家のリアリティーがあると思うんです。
大森 同時代に生きる偉大な画家と直に接することができて、我々は幸せですね。
高橋 本当にそう思います。なので、今回のような難しい質問をする大森さんは、ぜひ傅さんにこっぴどく叱られてほしいと思います。
大森 はい……すみません(笑)。いただいた四寸盌の銘をご報告申し上げないといけませんので、近いうちに叱られに参じます。
雑談後の雑談
高橋 背景に飾ってあるのは、傅さんからいただいた色紙ですね。
大森 そうです。昨年6月にとある食事会の席で、即席で描いてくださったんです。後日、額装して落款印を頂戴しようと傅さんのアトリエを訪問すると、図々しいお願いにもかかわらず快く応じてくださいました。
傅さんの話を聞くと、中国の文人思想において、竹はとても重要な意味を持つようです。天に向かって真っすぐ伸びる竹は、どれだけ成長しても中身が空洞のまま。文人らはそこに「誠実な人格」と「欲を持たない謙虚さ」という君子像を重ねたのだと。
高橋 食欲も物欲も旺盛な大森さんに竹……。
大森 そうなんです。四寸盌の箱書も含めて、仏教に説かれる〝記別〟と受け止めればよいのか……ともあれ、まだまだ修行が足りないことを痛感しています。
ところで高橋さん、傅さんがこの秋に新刊を出されるんです。
高橋 『傅益瑶作品集 一茶と芭蕉』(鳳書院)ですね。BUNBOUの南部健人さんが編集に携わっているという。
大森 そうです。今回の本は、書名のとおり小林一茶と松尾芭蕉の俳句をもとにした詩意画をまとめたもので、僕もとても出来上がりが楽しみです。
高橋 なるほど。それでこの一茶が芭蕉を偲んで詠んだとされている書画を大森さんが模写されたんですね。
大森 おぉ……よく僕が模写したって分かりましたね。
高橋 もう大森さんがやることは大体分かりますよ。
大森 新刊のカバー画は、この「義仲寺へ急候はつ時雨」という句を題材に、傅さんが描き下ろされた水墨画ですよ。
高橋 それはとても楽しみです。
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写真:水島洋子
構成:BUNBOU WEB 編集部