現代アジアの華人たち 番外編『じゅんさいと鉄砲玉』
漢字、言語、食、風習――。中国ルーツの文化に生きる〝華人〟は、広くアジアの各地に暮らしています。
80年代、90年代生まれの、社会で活躍する華人や中国研究者の言葉を通して、私たちの前に見えてくるものは何でしょうか。
今回は番外編として、河内滴さんが留学中の中国国内旅行で出会ったチベット出身の青年とのエピソードを綴ったエッセイです。
写真と文 河内滴
◆
「秋高気爽」という言葉を、中国ではこの季節によく耳にする。
秋は空気が澄んでいるので、空が高く感じられる。そんな秋空に浮かぶ雲を地上から見上げると、時おりふと思い返す場所がある。あそこは、この雲よりも高いところにあるのだろうか。
北京で大学院生をしていた2017年の夏休みに、友人たちと長期の旅行に出かけた。目的地は、平均高度約4000mのチベット高原に位置する青海省とチベット自治区だ。
まず北京からほぼ丸一日列車に乗って、青海省の西寧に向かった。このあたりですでに海抜は2000mを超えていたが、身体に特に不調はなかった。列車を降りて、西寧駅を出ると、ひんやりとした空気が肌に触れて心地よかったが、日差しは低地よりもずっと鋭かった。
西寧ではローカルの列車に乗って、チャカ塩湖まで出かけた。この列車は当時開通したばかりで、青海湖を反時計回りに迂回して進み、その奥にあるチャカ塩湖へ到着するというものだった。日帰りで西寧に戻れるように時刻表も組まれていたので、僕たちはこれを利用した。
チャカ塩湖
青海省はその地理的条件もあいまって、チベット族だけでなく回族やモンゴル族の人たちも住む、複数の文化の融合地点になっているのが興味深かった。チャカ塩湖までの車窓からは散発的にゲルを見かけたし、西寧市内で最も有名な観光地のひとつはチベット仏教寺院「タール寺」だった。そして、僕たちが宿泊したドミトリーは、モスクやハラール食堂などがすぐ近くにある回教徒が多く住むエリアに位置していたのだった。
チャカ塩湖を訪れた翌朝、その同じドミトリーに宿泊していたチベット出身の青年と出会った。背の低い細身の青年で、短髪で黒縁メガネをかけた顔には赤いニキビが多くできていた。話を聞いてみると、広東省から遠く離れたラサへ、バックパックを背負って旅をしながら里帰りをしているところだという。
柔和な笑顔が印象的な青年で、もう少し彼と話をしてみたいと思った僕たちは、午後の列車の時間まで一緒に近くを観光しないかと誘ってみた。彼も二つ返事で、すぐに荷物をまとめて部屋から出てきた。
「僕のフルネームは長いから、ロプと短く呼んでいいよ」と市街地を歩きながら彼は言った。
ロプは僕と同じく中文系(文学部)の学生で、夏に広東省の大学を卒業したばかりだった。言葉に強い関心があるようで、卒業論文ではチベット語方言の漢語訳についてまとめたそうだ。ちなみにロプによると、チベット語の文法は日本語と似ているところがあり、語順や敬語の感覚などにも共通点が見られるという。
「だからみんなもきっとすぐにチベット語をマスターできるよ」と屈託のない笑顔でロプは言った。
近くのモスクに着いてからも見学はそこそこに、敷地の隅にあった石のベンチに腰掛けて、さまざまな話をした。お互いの大学生活、日本とチベットの文化、将来について。シルクのように薄い雲が浮かぶ澄んだ青空には、鳥の群れが自由闊達に飛び交っていた。
やがて僕たちの列車の時刻が近づいてきた。僕たちがチベットをツアーで回っているときに、ちょうどロプもラサに帰ってくるようだった。もし都合があえばぜひ再会しようと約束を交わし、僕たちは一足早く寝台列車に乗り込んだ。
西寧の市内
青蔵鉄道からの眺めを楽しみながら移動していたが、列車が海抜4000mを越えたあたりから、徐々に息が苦しくなりはじめた。最初は気のせいかと思ったが、やがて頭痛とめまいが始まり、ついには座って景色を見ることも辛くなり、ベッドに潜り込んで全身で息をした。典型的な高山病の症状だった。
ラサに到着してから症状は更に悪化し、ツアー会社が手配した医者がホテルまで来て、注射と点滴を打ってくれた。それでもしばらくはひとりで起き上がることも難しく、ツアーには参加せずホテルの硬いベッドの上で横になるしかなかった。
ロプがホテルまでお見舞いに来てくれたのは、到着3日目のことだった。友人から僕がホテルでずっと寝込んでいることを聞いて来てくれたらしい。
「体調はどう? 高山病で大変なんだって?」と買ってきた果物をベッド横のテーブルに置きながらロプが尋ねた。
「見ての通りだよ」と僕はベッドで横になりながら言った。「ずっと広東にいたのに、ロプの身体は平気なの?」
「もちろん。体質はそう簡単に変わらないからね」とロプは得意げに答えた。「ところで、声もひどく枯れているね」
僕は苦笑いしながら黙ってうなずいた。
それでも、ロプが来てくれたことで僕はずいぶんと元気づけられた。少し話をしただけで帰らせるのも悪いと思い、よかったら近くで食事をしようと誘った。ただ、ベッドから立ち上がると、まだ足元が少しふらついた。
「肩につかまりなよ。一緒にゆっくりと歩いていこう」とロプは僕の背中を支えた。汗臭さとは違った、どこかバターに似たような彼の体臭がうっすらと香った。
普通に歩いていけば1分とかからないホテルの裏通りのお店に、僕たちは何倍もの時間をかけてたどり着いた。甘いミルクティーの匂いがほのかに漂う店内には、数組の客が静かに談笑していた。
席につくなり、ロプはチベット語で注文してくれた。店内の電気は消えたままで、窓から差し込む淡い光が、壁にかけられたチベット仏教画や、色合い豊かなテーブルクロスをぼんやりと照らしていた。
やがて簡素な器に盛られた水餃子スープとラーメンが、僕たちの前の小さなテーブルに置かれた。どちらの料理にもヤク肉が使われていて、ラーメンの出汁もヤクの骨でとったものだとロプが教えてくれた。ヤクは「耗牛」と書くだけあって、食感は牛肉に似ていて、噛みごたえのあるものだった。挽き肉にした水餃子の餡には少し臭みを感じたものの、思っていたよりは癖のない味で、どんどん箸は進んだ。
「チベットでは食事だけでなく、宗教用具も、他の生活用品も、地産地消になっているものが多いんだ」とロプが教えてくれた。そういえば、列車の窓から見たチベット高原にも、山が削られ谷となったあたりの麓に、小規模の集落が広がっているのを何度か目にした。山から流れる雪水や雨水が大地を潤し、そこで生育した高山植物をヤクたちが食み、それらの恵みを人間が授かる。生命は循環のなかに存在していることを、その景色は語っていた。
チベット高原
ロプの言葉を聞いて、ふと数年前に訪れた岩手県にある野田村という小さな村を僕は思い出した。サスティナブルな暮らしを営む小さな村で、〝自然のなかに人々の生活が溶け込んでいる〟という点において、チベットと通底する何かがあるように直感的に想起したのだった。
そんな飛躍した感想を僕が口にすると、ロプの両目が急に輝きはじめた。そしてスマートフォンを取り出して、きれいに整列したチベット語の文字列を見せてくれた。中段あたりに、2本の黄色いマーカー線が引かれている。画面に映っているのは、彼自身が翻訳した、岩手出身の作家・宮沢賢治の『永訣の朝』の冒頭部分だった。
宮沢賢治は最も尊敬する文学者のひとりだと僕も興奮気味に伝えると、ロプは大きく目を見開いた。偶然の一致を前にして、この感動を伝える言葉が見つからず、僕たちはしばらくただ見つめ合った。
やがてロプがチベット文化と宮沢賢治の文学の共通点をいくつか話してくれた。宇宙への憧憬、石へのこだわり、雪の描写の多さ。そして、生と死を深く見つめる仏教思想の眼差し。話を聞きながら、日本とチベットの間に広がる長い距離が、一気に縮まる音が聞こえたような気がした。
「せっかくだから、日本語でこの詩を朗読してあげるよ」と僕は言った。そして、スマートフォンで『永訣の朝』を調べてから、ゆっくりと呼吸を整え、詩の世界へと入っていった――。
けふのうちにとほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)……
――『永訣の朝』、宮沢賢治
ロプは湧き上がる興奮を抑えるように両目をじっとつむって、異国の言葉に耳を傾けていた。朗読が終わってからも、しばらくその姿勢のままだった。
「本当にありがとう。次は僕の番だね」と目を開いてロプは言った。そして、自分のスマートフォンをそっとテーブルに置き、背筋を伸ばしてソファに座り直した。僕も姿勢を正して、彼とまっすぐに向かいあった。
朗読をするロプの声は、標準語を話すときよりも、少し凛々しく、抑揚のついたものだった。集中して聴いていると、周囲の音や景色はどんどん後退していき、まるでふたりだけで深い森の奥にでもいるかのような感覚に包まれた。そこで、お互いの言葉で詩を聞かせ合いながら、普段は決して人に見せない魂の奥底にある感情を、ふたりでそっと共有する――。
ロプの朗読が終わってから、詩のなかに引かれている2箇所の黄色い線は何を意味するのかと、スマートフォンの画面を覗き込みながら僕は尋ねた。チベット語にはない単語だから注釈をつけた、とロプは答えた。日本語で対応する部分を教えてもらうと、それは「蓴菜(じゅんさい)」と「鉄砲玉」だった。
「どうしてこの2つの言葉はチベット語にはないの?」と顔を上げて僕は尋ねたが、「そこまでは自分にも分からなかった」とロプは答えた。
ラサ市内
翌日からは自力で動けるまでに回復し、その後のツアーの行程にも参加できた。最終行程の自由行動では、シェアサイクルに乗って日本人の友人とラサ市内を散策し、夜はツアーメンバー全員で少し豪華な晩餐を楽しんだ。
翌朝、僕は行きと同様に、鉄道を乗り継いで丸2日かけて北京へと帰った。青蔵鉄道から眺めるチベット高原の景色は、どれだけ見ていても飽きなかった。圧倒的な迫力の雪山や、空と大地が一体になった地平線など、眺めているだけで心が強く揺さぶられる。他の何人かの乗客たちも、長いあいだ姿勢を変えずに窓の外を見つめていた。
流れていく景色を前に、僕はロプと昼食をとったあの日のことを思い返していた。淡く照らされたチベット仏教画、温かいヤク肉の食事、宮沢賢治と『永訣の朝』。
「じゅんさい」という言葉がチベット語にないのはどこか感覚的に理解できた。このあたりは富士山の山頂よりも高いのだから、生育している植物が根本的に違っているのだろう。では、「鉄砲玉」は。確かにチベットは現代文明とは隔絶されたところにあるけれども、外部からもたらされるものをすべて拒んでいるわけでもなさそうだった。現にスマートフォンだって人々の生活に根を下ろしていた。そこには一種の取捨選択があるのだろうか。
「じゅんさい」と「鉄砲玉」に、ロプはどういったチベット語訳を当て、そこにどのような注釈を書き添えたのだろう。僕がそのことを考えていたとき、黄金色の夕陽が遥か遠くの地平線に沈んでいった。
◆
河内滴(かわうちしずく)
1991年、大阪府生まれ。2020年1月北京大学大学院中文系修士課程(中国近代文学専攻)修了。同年2月より都内の雑誌社に勤務。
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