自らよりも美しい人に於いては
ある一つの憧憬。
息子への愛は、私のナルシシスムに繋がっている。
それは、息子という存在が、私を生き直している、新しい主人公であるから。
そのことに関しては、蕭蕭と雨の降る朝、或いは五月の花々咲き展く頃に、私に自覚された。
無論、人間には夫々の人格があるため、息子は私ではなく、彼そのものなのだが。然し、彼には天然自然の美があって、それは子供の頃だけのように思える。言わば、まだ「ある」だけの存在であって、性に囚われもない両性具有である。
子供は天使と形容されることが多かろうが、まさに『天使』であって、
息子もまた私の理想の美しい少年であり、これから銀色のピストルを持って、危険な遊戯を楽しむのだろう。
彼は、これから聖なる人になるのかもしれない。そんな空想を楽しむのが、私の理想の文学である。
然し、そのようなことも自意識の形成されるまでの僅かな間で、卵の殻が割れてしまえば、彼も一人の男に成る。
マトリューシカでもあるまいが、延々とそれを繰り返していくのである。
さて、ここで綴りたいのは、文章、芸術における天使についてである。
世の中には3種の人間がいて、それは、凡人、芸術家(汎ゆることにおいて)、聖人(セイント)である。
文章に関しても、同じである。
今まで、そしてこれから生まれくるであろう、五百塵点劫もの人々そのすべてがほぼ凡人(無論、私も)であり、名を成した小説家の類もそれに含まれる。
文章で生計を立てている、或いは立てようとしている作家
(文豪と呼ばれようが、例えば、川端康成や谷崎潤一郎もそうである。)も
すべて凡人であって、芸術家はいない。
私が芸術に関与できるとするならば、これら無量大数に等しい言葉と歴史の中の一滴になることだけであろう。
芸術家と言えるのは僅かであって、意外にもそれらは、世間一般では識られていない者も含まれるだろう。
寧ろ、他に仕事を持ちながらも創作するものの方が、よほど純粋であるから、芸術家に近しいと思われる。
然し、その芸術家よりも尊ばれる存在であるのが『聖人』であり、彼らは凡人に仕えている。或いは、天使に仕えている。
つまり、凡人→芸術家→聖人→凡人と、いう三角形である。
所謂、汎ゆる芸術は『自覚のないもの』であり、それを視て、顕現しようと試みるのが芸術家である。
彼らは、美しきもの、美しき人を視る力があるからこそ、逆説的に聖なる人にはなれず、その代替として美しい作品を作ろうとする。
作品を持って、それに近づこうとするわけだ。
聖なる人は、天然自然の美であって、彼らは恐ろしい業苦の中の人々に手を差し伸べ抱きしめ、寄り添う心を持っている。
それは、ナルシシスム乃至は知識に囚われた人々には決定的に出来ないことである。自己愛は強烈な保身でもあって、自尊心は承認だけを求めている。
承認を求める顔は例外なく醜悪で、そこに美しさは消え失せている。
少年少女だけが、ただ愛を求めていて、然し、歳を重ねるにつれて、それが自己愛へと変貌していき、そこから凡人と芸術家が生まれる。
その中で極稀に、聖人のまま大人に成る、美しい人がいる。
それは、宇宙の中にある地球に等しいほどに、数少ない奇蹟であるが、彼らは、自分が聖人だと自覚がない。
乃至は自覚があろうとも、世の中に顧みられない。
魂を書こうと苦闘した文学は、或いは芸術になり得るかもしれない。
それは、聖人を書くことに繋がっていくから。神々や神話、人間を書くことに繋がるからである。
然し、個人の感想や、汎ゆる物語小説などは、やはり個人のナルシシスムの反映に陥っている。個人の感想で瞠目すべきものは、これまた極稀にしかなく、残りは全員同じようなことを呟いている。
ある一つの憧憬。
それは、少年時代の思い出。
どのような芸術乃至は文学よりも、それが聖であるのは、かつては、聖人であり、天使であったからだろうか。