エピゴーネンという鳥籠

エピゴーネン、という言葉がある。
単純に、亜流、模倣者、パクリ、金魚のフン、みたいなものであり、自分の尊敬している藝術家の作品を模倣しているが、二番煎じ三番煎じにしか過ぎぬもののことだ。

汎ゆる藝術は模倣から始まる。

真似っ子から始まり、そこに造り手の思想や問題、生い立ちや環境や理想に現実が混ざり合い、オリジナリティが産まれる。
完全にオリジナルなものはこの世には存在しない。全ての藝術は影響しあっている。
時々、文壇界隈でもパクリ騒ぎが起きる。
一番忌むべきなのはやはりパクリであろう。パクって、その上で自分のものとして発表する、これは完全にはアウトではあるが、まぁ、調べれば出てくるのでここでは書かないが、現代の文学者でも数名はその疑いをかけられたりしている。大家もいる。けれども、どこまでも本当かは難しい問題であり、正直、コネ、癒着、なども当然あるだろう。賞レースだけが美しい、正しいと思うのはまさに吉岡清十郎の「乙女のように暢気だな。」で、ある。

まぁ、パクっているか、パクっていないか、それをここで書きたいのではなく、偶然の一致、というものはたまさかにはあるものだ。これは不思議なことだが、現実として、時を同じくとして双生児のようなものがこの世に産まれ落ちることはある。それは、例えば完全に偶然の時もあれば、造り手側がどこかで視たそれをモチーフに無意識的にやっている場合もあるし、様々である。
然し、芯が違うため、根っこの箇所では異なってきたりするわけだ。

映画ではエピゴーネンは、どちらかというと強烈に本家に対して憧れを抱いた人が陥る症状のようなものであり、例えば、谷崎潤一郎の大ファンは谷崎の文体を真似たくなるし、同じようなテーマ、すなわち女性、をテーマに作品を書きたくなるものである。
そして模倣が始まる。もう、谷崎に心酔してしまっているから、文体&テーマで、亜流の谷崎作品を書いてしまうわけである。

私は、最近ひどいエピゴーネンを読んだ。同時に、その作家が兄事する作家のことを、狂おしいほどに愛してやまないことが、作品から立ち上る匂いで理解できた。
この、哀しい片思いは私に一つの思いを抱かせた。エピゴーネンは恥ずかしい、そして出来損ないである。本当には、もっと自分を信じたほうが素晴らしい作品を書けたのではないか。
人は誰しもが影響を受けるものである。そうして、影響が影響を呼んで、文化文明の花が咲くのだが、エピゴーネンは蝶になりたくてもなれない、空を飛べないまま死んでしまう蟻なのである。蟻は、蟻であることを恐れてはいけない。影響から脱しなければならない時が必ずくる。一つの指輪を棄てる勇気こそが、エピゴーネンを破壊し、本流と対等に立つ唯一の手段なのだ。
無論、オリジンは巨大なであり、翼は永劫手に入らないかもしれないけれども……。
然し、いずれ、独り立ちせねばならないのだ。


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