聖 寂 ③ 了
泉を見たいと、連れ合いが言ったのだった。泉、湖、海、滝、プール?『スイミング・プール』という、芸術作品がある。金沢にある、21世紀美術館のメインを張る作品で、ここ最近に、その彼の作る螺旋階段が、金沢の個人美術館の目玉として置かれてもいるようだ。そこには、ステファニー・クレールの掘り出した熊や猿の土塊が数多鎮座している。泉。こんこんと湧き出る泉を連想した。何処の泉なのかは聞かなかった。名前も。どうせ聞いて識ったところとて、未来に及べばどういう景色かすら思いも出せない。様々な泉を見てきた。それは、泉だけではなく、女にも言えることだが、よく覚えていない。人間の脳細胞など、所詮は大した記憶力もないもので、思い出は幻燈を映じるに等しい。然し、だからこそ美しいのかもしれない。そうして、大抵は思い出したとしても、それはやはり幻燈と同じに、音がない。あのとき、耳を貫いた数々の言葉や音楽、そうして音の礫の全ては記憶にはない。再生したとしても、静かなばかりである。実際には、様々な奏でがあったはずなのだが。
なぜ泉が見たいのか、尋ねると、
「両親が悩んだの。泉か、恵か。どっちがいいのかって。」
「どちらも賜物だね。」
「ねぇ、どっちが良かったと思う?」
どちらが良かったのだろうか。名前一つ変わることで、命運が変わるのだろうか。変わるだろう。名前一つで、所属する場所、順番、価値観、全てが変わる。言葉が、世界を彫刻していく。湧き出してくる泉を思った。ああ、あれは、映画の『風立ちぬ』で観た泉。軽井沢にはあんな泉はない。モデルとなった泉は、山梨県の三分一湧水だと言われている。訪れたことはない。
「どこでその泉を識ったの?」
「映画。」
「なんの?」
「忘れた。」
ただ場所だけは覚えていたという。ちょうどその時、息子はクリスマスに贈られた木製のバイクを部屋で乗り回していた。まだ足がつかない。プレゼント。もう少し大人びたならば、戦隊ものや、ライダーもの、怪獣の玩具を欲しがるのだろう。小さな合金の人形、それに付属したミニカーを持っていた。母は黒いドレスに化粧して、美しかった。ホテルの中で食事をしていた。母は珍しく泥酔していた。あの綺羅びやかなシャンデリアが吊られたホテルはどこだろう。訪ねても、覚えていない。その思い出すらも、母には遠い過去の記憶である。近くに、湖が煌めいていた気がする。喧騒の最中の思い出である。あの喧騒は、不思議と喧騒として心にあった。あの玩具は何処かへいってしまった。何を話していたのかも、覚えていない。真夏の夜の夢である。
時計を見ると、七時半だった。もうすぐ朝食だろうか。待ちくたびれて、頭の中に住んでいる両性具有の人々に思いを巡らす。彼ら彼女らが反乱を起こすというチープな話を思いついて、すぐとかき消した。スランプだ。いや、スランプとは、その職業で飯を食っている人間の言うことで、そうじゃない人間の言うことではない。それは、厚かましい話だ。然し、男であり、女でもある存在がもしいるのであれば、それは本当に恐ろしい差別に晒され、好機の目で見られるだろう。何時から、そのような下卑た存在に成り果てるのか。堪らずかぶりを振って、目を開けると、連れ合いは起きていて、車窓を見ていた。流れる景色の中に、彼女の頬が赤く目立った。唇よりも赤いほほに、幽かに欲情を覚える。列車の中での情事など想像すらできない。けれど、このようなホテルを兼ねた列車ならば可能であろうか。
「きれいね。」
「君かね。」
「雪よ。」
連れ合いは笑ったが、満更でもなさそうである。だんだんと、雲間から日が差してきて、それが連れ合いの手の甲を温めていく。白く塗られたかのようだった。その白い手に、視線が奪われた。そうして、見つめているうちに、幽かに、だんだんと、その差した陽の光は動いていって、畳を侵食していく。畳が灯りで濡れるを見て、ふいに、畳の上で遊ぶ、まだ幼い少年、いいや、赤ん坊を思い出した。母親に抱かれて笑っている。味噌が焼けた匂いがした。今宮神社の袂にある、あぶり餅のかざりやである。紅葉の盛りは過ぎて、客足を落ちていたから、店には人はまばらで、かざりやの一角には誰もいない。日が畳を愛して、温かだった。障子硝子に映った息子の顔、はたまた自分の顔を、まじまじと見る。葉の落ちる音だけがして、振り向いた。妻は息子を受け取り優しく抱いて、柔らかく微笑んだ。
乗務員が部屋に朝食を運んできた。連れ合いはそれらを一目見ると、眼を輝かせていたが、然し、揺れる電車での食事は辛いものがあった。湯はあれほど気持ちが良いのに。一度、京都に住んでいるというのに、川端康成が定宿にしていたという、柊家に泊まったことがある。家族には内緒である。川端康成に心酔していた。美しい小説を書く人だと思った。一泊五万はするのだから、赦されない遊びのひとつではあろうが、然し、柊家は世間で聞いた話とは異なって、とても一泊五万ほどの価値があるとは思えない。一人旅だったからというのもあろうが、それとも、京都に育まれてきたからか、あのような日本的なものにはもはや慣れが生じていて、有り難みがないのかもしれない。贅沢なことだなと思えた。逆に、西洋的な、異邦のものこそに、有り難みを感じるのか。然し、檜風呂に対してだけは異なっていた。湯がなみなみと張られている。それは、この列車のものと比肩しても圧倒的と言えるほどに、素晴らしいものだった。広さはそれほどない。一人が入れば、もう満杯である。その狭さこそが、侘び寂びなのであろうか。一人湯に浸かり、水音に耳を任せた。天井から、結露が降り注いでくる。いつしか、それは雨に似てきて、気づくと、外にも雨音がしていた。室内の檜風呂にも雨が降る。雨音に耳を済まして浴衣に着替えると、女将が冷やし飴を部屋まで運んだ。口をつけると、生姜に喉が焼け付くようだった。
演奏が始まっていた。ヴァイオリン、クラシック。ピアノの音は聞こえない。ピアノは、息子の得意だった。ピアノの上には、狼とピーターの人形が置いてある。それは、外国製のビスク・ドールで、狼はぬいぐるみだった。海外から取り寄せたものだった。灰色狼で、朝鮮狼とは違う。ニホンオオカミは、死に絶えてしまった。幼い頃、ピアノを習っていて、『宇宙飛行士のマーチ』を演奏したことがある。あれは、どこかのホールで、ピアノの発表会だが、ああ、あの日があのホテルにいた夏の日……、いや違うのかもしれない。記憶が混線していて、もはや、どこからどこまでが繋がるのか。所詮は記憶も編集で、それぞれのフィルムを切り貼りしては、自作のアルバムとして時折楽しみ、共有するのみだ。そのアルバムが美しいかどうか、それには人は皆感心があるようだが、最後は主観でしかない。そしてそのアルバムを、他人に見せびらかすことに心血を注ぐ人種もいる。そのようなことは、詳らかにするべきものではないのかもしれない。然し、イベントを無理やりねじ込んでは、誰に見せるでもない記憶の映画をまた編集し続ける人こそ多数派である。他人の記憶すらその範疇にある人間ですらいるのだから、もはや必要もなし。『宇宙飛行士のマーチ』は散々だった。才能がなかった。残念ながら。音楽の才は遺伝しそうなものだけれども、然し、それを与えることもまた記憶の編集となるのだろうか。それは、両親の自己満足、両親のフィルムに子を巻き込もうとしているだけなのかもしれない。記憶のフィルムを整理していくと、その日にケーキを食べたことは覚えていた。然し、それ以外の一切は消失している。ただの嫌な思い出である。肝心のマーチのメロディだけは存外に覚えている。安易なメロディ、恐らくは、会場に居た観客のすべてがその演奏に失笑していたことだろう。だから、『スターバト・マーテル』の美しい旋律が同じホールに流れたとき、自分のことの一切を取り戻したと同時に、己が刷新された寂しさを感じた。鍵盤を叩く彼の指先を見やるうちに、抱きつく時にかかる五指の力強かったことを思い出して、その天国の匂いと気配をも……思い出し、この世界の主観そのものがくるりと反転し乗り移ったことを実感とした。目を瞑り、その旋律を耳底に遊ばせながら、うとうとと眠りに近い感覚、自分の中に、花が咲いた感覚は、いつも息遣いほどの索漠とした折のみに感ぜられるが、然し、それでいて情けが深い。
「静けさと眠たさと。」
底ぐらい哀しみが、自己を覆う。遠くで、揺れがあった日が唐突に思い出される。あの日、遠く、仕事の最中、東の遠くに激震が走って、現実が破壊された。然し、あまりにも遠く、静かな破壊だった。もう、十年も昔の話である。今は、このように豪華な車両で旅行を楽しんでいるが、然し、あの日職場からの帰り、阪急沿線に乗る人々は何も言わずに、ただ揺られていたが、荒い息遣いは恐ろしい熅れをまとって、動物的な恐れを発散していた。寒さから身を守るために、コートを巻き込んで、一人俯いて揺られていた。どこぞへ行くのか、わからなかった。災厄が止まらないのだ。悪寒が止まらないように、自分の内外に災厄が潜んでいて、汎ゆる危険が漂白し続けている。そうして、時が経てばまた新しい災厄が芽生え、木末が広がり、恐れの大樹が育まれる。このような世界に落ちて、何処へ行き着くのか。どこにも、行き着かないのか。然し、この車両はそれらと隔ててて、ごうごうと火焔の車輪のままに突き進んでいる。切符は一枚だけである。或いは。
けれども、この車両にも魔は潜んでいる。仏界入易、魔界入難とは一休禅師の言葉であるが、魔に落ち込む方が、よほど楽ではないのかとこの列車に乗り込んだ折に思ったものだが、それも揺らいでいる。メフィストフェレスは口を開けて、大欠伸をしている。
はっと、先程に美しい焚き火を思い出したのは、人影が二つあったのは、鏡なのかもしれないねと、とりとめもなく確信に似る。息子に語りかけるようだった。紅葉の中で或いは雪の中で、大きな火を灯して祈りを捧げたのは、いずれかの父子なのかもしれず、あれは鏡だった。そうして、あれは君の視線でもあるのか。
「名前の話をしていたね。」
「ええ?ああ、うん。ねぇ、どっちが良かったかしら。」
「泉なら、君とは出会えていない。」
「そうかなぁ。」
「うん。きっとそうだね。すべてが変わるからね。」
「すべて?」
「名前一つで。」
鳴き声が聞こえて、顔を上げた。狼がいるのかもしれない。あれは父親の声。
白樺の林は雪にまみれて草子の世界。陽が差して、桃色に染まった。
白樺の木に触れて、それから雪を掬う。雪は温まって水へと移ろう。
砕けた水に、指先が悴んだ。
睫毛にはいつしか霜の降りかかる。
部屋に戻ると、鏡があった。
濡れた指で触ると、雨音が流れて、白檀の香り。
霜が溶けると睫毛は濡れて、目を瞑り、目を開けて、振り返ると、パパと呟いた。
切れ長の眦に思惟の気配があった。
了