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聖 寂 ②
目を開き、風呂に向かった。車両に風呂があることに驚いたが、水洗にまつわる諸々は、どのように処理をしているのだろうか。説明書きには、二十四時間使用可能とある。まぁ、乗客の数から言っても、使われる水量など高が知れてはいるのだろうが。浴槽は見事な檜だった。湯をなみなみに張って、肩まで浸かると、また眠気が襲った。泣き声がした。水を顔からかけられると、いつも泣くのだ。シャンプーが目に入るのが嫌でしょうがないのだ。目を瞬かせて、泣き声をあげる。手を伸ばして、その感触を思い出した。腹の滑らかなのに驚いた。そうして、息子は手を伸ばして、蛇口から流れる湯に触ろうとする。揺れが、檜風呂からお湯をこぼす。窓から雪が見えた。雪が、火の子のように見えた。いくつも蝋燭が灯るかのように見えた。そうして、目を瞑ると、また水音が聞こえる。目を開けると、水が壁全体を流れ染めていて、檜風呂からやっぱり息子は手を伸ばしていて、それに触れようとした。
目を開けると、雪景色が広がっていて、湯は温くなっていた。いつの間にか、深く寝入っていたようだ。湯で顔を洗い、湯面の鏡に、雪化粧で紅差した少年の頬色を思い出す。北海道の、高級宿の一室。音はなかった。青みがかった灰色の御洋服を召して、少年は外の聖い雪降りかかる白樺の林を見ていた。ただただ、音がなかった。ただ、時折少年は笑って、その言葉になる前の詩のような嬌声だけが室内に響いた。抱き上げると、笑った。パパ。天国の息。気配を感じる。指先に、冷たく崩れる水が生まれて、少年は驚いたようだ。火で雪を溶かすと聖なる水が生まれる。それは、眠っていた水。生まれる前の水。その水音が、延々と耳に聞こえてくる。夜半、見上げた空にかかる天の河の音と同じ。別の天体から望遠鏡で覗くとき、少年もまた天の河底の小石。
眠る前と同じ聯想。そうして、車窓には額に収まった絵のように、木々もまた雪で化粧している。
「楽しそうね。」
顔を上げると、裸の連れ合いが湯船に足をつけている。
「なんか温くない?」
「君はずっと眠っていたからね。」
「お湯を足してもいい?」
頷いて、そのまま湯船から顔を出している乳首を見つめた。乳白色に濡れた桜の花びらだった。連れ合いは、その山猫めいた眦をゆるめると、まじまじと車窓を眺めた。
「移動しながらお風呂に入るって、初めてじゃない?」
「たぶん、世界でも数万人にも満たないだろうね。」
「そう言われると、多いような気もする。」
「うん。意外に多いような気もするね。瑞風にも、お風呂はあるようだね。」
「ああ、うん。ザ・スイート。甘い、素敵な御名前。」
詩を朗するように、さらさらと言葉を連ねた。大きな湯船ではないから、二人が浸かっていること、それに加えて列車の揺れで、湯は何度もこぼれた。御名前、御前、貴様、貴方、君、相手を呼ぶときの言葉は、平安の昔から何も変わりはしない。我々は、何も変わっていない。それこそ変わらぬ大和の言葉であろうか。
先に上って、身体を拭くと二階に上がる。和室である。ふいに、煙草の匂いがした。何処かで、誰かが吸っているのだろうか。吸えないはずだ。ボンボニエールからの聯想で、下賜品である煙草を思い出した。それは、夢の中に灯る火のせいかもしれない。あの指先が挟んでいた煙草。恩賜の煙草。特攻隊が、突撃の前に一服したという煙草。美しい旗印のように見えた。苦いのだと、そう聞こえたのか、それとも調べて識った味か。煙草を吸ったのは大学生の頃、友人の家のベランダで、その時に惚れていた中国の娘が、星空に煙を吐いていて、吸ってみるかと訪ねてきた。男を見せようと煙草を受け取り、吸ってみると、意外に煙の味を感じただけで、それが生涯最後の煙草である。銘柄も覚えていない。
タイプしながら、様々なことを思い出して、そうして、ああでもないこうでもないとそれを繰り返す。文章の睦言。ああ、連れ合いが身体を流す音が聞こえる。こりこりと、音が聞こえる。赤ん坊の歯ぎしりの音。どこから来る、この音は。静寂のはずなのに。然し、然る後にすぐと自然発生する列車の駆動音。雑然と、音に飲み込まれるが、酔うようだ。
今書いている小説は、両性具有をテーマにした物語だった。SFである。サイエンスフィクションには明るくない。それなのに、何故かそのように舞台や人物を設定してしまい、後悔している。一度上梓した本だった。両性具有の少年或いは少女が健やかに生い立ち新たな生命を宿すまでの物語だった。その話の中では、両性具有者は妊娠をしない。然し、処女受胎でイエスを宿したマリアのように、ひとつの奇蹟が起きる。読ませた相手に、面白い作品だが、これで終わった気がしない、続きはないのかと尋ねられた。続きはない。然し、続きはあるのかもしれないと思えた。それからは、思考の日々だった。考えても、考えても、纏まった物語として成就はしないけれども、然し、その萌芽はどこかにあるようである。小説を書くのは、頭の中を彫刻するのと同じことである。魂の彫刻、それは詩であるが、小説は、思考の彫刻であろう。土塊から仏や命を取り出すように、思考を削り磨き上げることで玉となることがある。幾ら書いても、書いても、書き付けても、そのような玉は生まれずに、石のまま生涯を終える人間の多いことか。もちろん、それは例外ではなく自身にも降りかかることである。そのようなことを考えながら歩いていると、鴨川にかかる御薗橋を渡る最中、一羽の白鷺が降りてきて、水鏡が割れた。子の宮を思わせた。両性具有がこの世に顕れたら、世界はどうなるのだろうか、彼ら或いは彼女らに、通常の人権が芽生えるのは何時になるのであろうか。くだらない夢想にすら厭世が漂う。
「精が出るね。せっかくなんだから、景色を楽しまないと。」
連れ合いは豊かな黒髪をタオルで巻きながら、二階に上ってきた。小さな、宇宙船を彷彿とした。宇宙飛行士が、船外作業を終えて戻ってきたようだ。ふいに、バスローヴを広げて、乳房から何まで顕になった。金色の裸を彷彿として、中村正義の黒い舞妓が顕現する。直方体の森に潜む原始の女、或いはメフィストフェレス。
「雪景色を見たいと思っていたけれど、もう、見飽きたよ。」
「もうすぐ目的地に着くよ。」
「地上が恋しい?」
「いいえ。意外に、空を滑るようで、心地いいから。」
「空を滑るか。」
「ええ。ねぇ、識ってた?この列車はお召し列車の次に格が高いんだって。」
「お召し列車?」
「天皇や皇后、皇族の専用列車のこと。」
トンネルを抜けて、空は灰色だった。然し、日の明かりが透かして、靄がかるようで、小石丸の繭で織り上げた絹の色だった。
「北海道は初めて?」
連れ合いは頷いた。
「ええ。初めて。こんなに雪が降るなんて。雪国には行ったことあるの?」
「いいや。昔、山形の銀山温泉に行ったけれどね、それぐらいだね。」
「東京は全然だった。」
東京駅ステーションは、晴れ間にレンガが日で赤赤と輝いていた。つい一日前の光景だが、はるか昔のことのようである。その晩は、東京ステーションホテルの地下にあるレストランで和食を食べて、その夜半に、人気のない東京駅を窓外に眺めた。濡れるような肢体を思い出したが、然し、鬨の顔は思い出せない。記憶を払うように、音楽が流れ出て、モーツァルトだった。乗車の際も、歓待の演奏を車両で行っていた。朝方も行うのか。それにかぶさるように、着信の音楽が鳴った。
「『ピーターと狼』?」
「識ってる?」
「プロコフィエフでしょ。あなた、好きって言ってたじゃない。」
朝鮮狼の剥製と並んで、写真を撮った。あれは、何歳の頃だろうか。まだ、ひとつにも満たない頃か。京都市動物園で、園内は人で賑わっていたけれども、剥製の置かれた一室には言葉はなく、ただ死に絶えて、その肉体だけが残された動物たちが硝子の眼で父子を見ていた。魂は、命はここに二つだけ。この狼も遥か以前に死んでしまった。息子を抱きかかえると、その甘い息が匂った。天国の匂いで、命を持った蝋燭を抱くようだった。抱きかかえられて、その白檀の匂いに、安心が募った。互いが互いに、水音を聞いていた。大きく、音のない欠伸が出た。そこにも、気配があった。
「きれいなものね。」
「何が?」
「指先。」
彼女が指したものを見ると、彼女とは対象的なまでに円かな爪先。彼女のは、安手のラメが輝いていた。お湯で落ちないのだろうか。娘ではないからわからない。大人に成れば、化粧など滅多にはしない。
「言葉が生まれたのは、遥か昔のことでした。それは、何千年も、何万年も昔、遥か遠いいわゆる神話の物語の頃のお話です。初めは、きっと名前を呼びあったのかもしれません。それとも、感情を伝えあったのかもしれません。それは私どもにはわかりませんけれども、きっと、初めは歌うように、詩のように、雪のように水のように言の葉を朗していたのでしょうね。水滴、雪の結晶。いわゆる、単語。単語がタンゴを踊るのです。星屑。人々。ひとびと。たくさんの意味が連なり、意味が、意味を持ち始めて、人々は、同じ神話を信じるに至るのです。そうして、その共同の神話は、誰もが学べば理解ができて、ゆるぎのない、世界を掘り起こす蚤となって、宇宙の中にあった土塊は、新しい命を作るのです。ねぇ、あなた、あなたの生み出した言葉によって、あなたの魂が歌うことによって、詩が産まれて、命が歩きだすことを不思議だとは思いませんか?言葉がなくても、命は生まれるのかもしれないけれども、いわゆる言葉がないと、恐らくは美しい思い出のひとつひとつはただの現実にしかならないと思いませんか?言葉で、人は物語になれるのですから。ああ、雪が降ってきました。ちらちらと、あんなにたくさん降っているのに、音はひとつもありません。」
電車に揺られているうちに、畳の上で、うたた寝をしてしまった。揺れが、脳みそをあやしているのだろう。そうして、連れ合いも寝ている。いや、寝ているのか、判然としない。唇が小さく虚を穿っていて、そこから白い歯がきれいに並んでいる。そこから、獣じみた匂いが等間隔で吐き出される。起き上がり、車窓を眺めると、何もなかった。ごうごうと、音がしてはいたが、頭の中のようである。うんと、目を凝らすと、陽炎があった。然し、それは目の前の景色からの聯想に過ぎない。遠く、二人の人影が見えた。落ち葉を集めて、焚き火をしている。日輪のように、火が中空を舐めて、美しいのに息を呑んで、息子を見やると、彼も又、その火のゆらめきを一心に見ている。二つの人影は車窓からは遠く離れて顔は昏く沈んでいる。然し、背にした紅葉が目に眩しいほどで、パチパチと、耳を嬲る音が幽かに互いの鼓膜をひとときに打つ。すぐに過ぎ去るが、然し、トンネルに落ち込んでもまだ、網膜に焼き付いている。