ふたのなりひら
1-7
真白な部屋で、古村は待っていた。清潔な白い衣服姿で、白髪も相まって、全てが美しいほどに明るい。古村の座るデスクの上にだけ、観葉植物と、ひまわりの種が詰まったガラス壺が置かれていた。森は診察室の椅子に腰掛けると、古村を見つめた。古村は、静かにほほ笑んで、
「久しぶりだな。特に、問題はないか?」
「うん。大丈夫。修さん、最近お店に来ないね。」
修、というのは古村の下の名前である。森には、ずっとこう呼ばれてきた。
「いいや。つい最近も顔を出したよ。タイミングが合わなかっただけだろう。」
「そっか。」
森は、静かにそう言った。少年にも、少女にも見える。美しい顔立ちをしてた。森は、まだ第二次性徴が始まっていない。フタナリヒラは、第二次性徴が男女とはまるで違う。微妙なホルモンのバランスで、それぞれの性の特徴が芽生えるというが、男性ホルモンも、女性ホルモンも、等分である。そのため、異常な事態が起こる。髭はもちろん生えるし、精巣と卵巣は発達し、それぞれの機能が働き出す。しかし、その等分に発生した両のホルモンの影響であろうか、どちらも未熟にしか発達しない。そのため、互いが発達するべき箇所に未熟な点と、成熟した点が現れる。男寄り、女寄りというのは、このホルモンのバランスが作用していると研究では言われているが、それもどこまでが正確かはわからない。幼少期のフタナリヒラは、両のホルモンがどちらかに傾いていることが多い。しかし、第二次性徴期には、エストロゲンとテストステロンが等分に分泌するため、それぞれが本来の男女のあわいを見せることは稀で、それゆえ、骨格が発達するのに対して身体の線は円くなり、歪な姿になる。身長は高くなり、しなやかな円みを持った身体になる。しかし、筋骨はたくましく、身体全体が枠に収まらないほどに大きい。古村は、この思春期のフタナリヒラが一番美しいものだと思う。数年しかない期間だが、男と女が交わるというよりも、二重になっている。重なって、見ていると酔うように線がぶれるのだが、ぴたりと合わさるときがあるのだ。どちらの種も芽吹いたようで、奇形の花である。
改めて、古村は森を見た。森は、まだ幼いようで、しかし、古村を見る目に恐れはないが、俄に知性が育ったようにも思えた。
「先生はどうだ?」
「李先生?」
古村は頷いた。そうして、森はのどを開けて、古村に見せた。古村はそれを覗き込みながら、
「フタナリヒラの授業は面白いか?」
「うーん、ろうらろう。」
森は口を閉じて、幽かに零れた涎を拭った。
「でも、僕の知らない話を、ほんとうにたくさん教えてくれるよ。すごく、勉強になるよ。」
「そうか。」
古村はそう言うと、カルテにさらさらと、異常のないことを書き付けた。
「定期診断、問題なしだな。相変わらず健康優良児だ。」
「ほんとう?やった。」
森は嬉しげに笑った。
古村は、そのような森に、初めて取り上げたフタナリヒラを思い出していた。そのフタナリヒラに、今森は教えを乞うているわけだが、月日の経つのは早いものだと感じられる。まだ、三十代だった古村は、あの異常な事態をよく覚えているが、あれはまるで昨日のことに思える。世界規模的に発祥したのだった。初めのフタナリヒラは、たしか中国だったとはずだ。そうして、それはヨハネスブルグ、ソウル、ニューヨーク、ブダペスト、東京へと、移っていったのだった。一人目が産まれると、もう加速度的で、だんだんとフタナリヒラは増殖していった。あのような混乱は、すぐさま収まったが、法規が何の役にも立たない、医学こそがやはり神道だと、古村に思えたものだ。しかしそれもすぐにまた変わり、法規が権力を奮った。
世界が大幅に刷新されていく中で、中国で生まれたフタナリヒラに、子供が出来ないことがわかった。それは彼女(彼)が十二歳の頃の研究結果で、ちょうどそのとき、古村は初めて自分の病院でフタナリヒラを取り上げたのだった。その、小さな命を取り上げたとき、古村はつい五日前に知ったそのニュースに、心が虚ろになっていた。しかし、赤ん坊は小さく泣いて古村を見たものだった。以来、日本でフタナリヒラが産まれるたびに、ひまわりの種を、ガラス壺に入れている。これは、中国でフタナリヒラが初めて産まれたことに起因している。彼の好きな中国の芸術家を思い出して、なんとはなしに始めたものだ。その芸術家の作ったインスタレーション作品に影響を受けている。彼は、昔に起きた四川大地震で亡くなった子供たちのランドセルを集めて、天翔る龍を作った。
そのような古村だったから、元々美術や芸術に興味があって、小額の絵を買っては、自分の小さな病院に飾っていた。その絵は、どれもが夭逝の画家や彫刻家のものばかりで、そのようなものに惹かれる自分のセンチメンタルさに、自分でも呆れていた。
森の体重や、身長、視力検査に聴力検査、血液検査などを一通り終えると、古村は診察室から出て、彼(彼女)を食事に連れ出した。
院内の近くにある洋食屋だった。古村はいつもここで休憩を取る。森も、もう何度来たかわからない。森はこのこの店のメニューではナポリタンが好きで、いつも頼んでいた。ナポリタンを大きな卵に包んで出すのだ。子供めいた料理だが、森は嬉しそうにそれを食べる。大した健啖家だと、古村は森がナポリタンを食べる様を見ながら、自分はサンドウィッチを摘んだ。孫とお祖父ちゃんだろう、端から見れば。そうして、そのような孫は、古村には今まで八人もいる。そうして、今通院している妊婦も、フタナリヒラの子供を宿していた。九人目の孫が出来るわけだ。フタナリヒラだけ特別に診察しているのは、妙なものだが、あくまでも例外であって、これは神職のようなものだと古村には思った。
「最近は絵は売れてるのか?」
「さぁ……。パパは、お仕事の話は僕には言わないよ。」
「パパは飯はちゃんと作るのか?」
「お弁当ばっかり。」
「そりゃよくない。」
「でも、先生がご飯作ってくれるよ。先生のご飯は美味しいよ。行儀は悪いけれど……。」
「そうか。どんな風に行儀が悪いんだ?」
「立て膝をついたり、縦肘をついて食べるんだ。注意したら、逆に怒られた。」
「そりゃあ、困ったな。」
そう言いながら、古村は、安心したように、コーヒーを啜った。遠い昔、この腕に抱えた赤ん坊が健やかに生い立って、歌って聞かせた地蔵和讃を、あの子は覚えているのだろうか。古村は天井を見上げた。古い店だから、いつ畳むのかわからない。主はもう古村に近しい。このような店が無くなったら、今度はこの子をどこに連れて行こうか、次の子供は、どこに連れて行こうか。特異な生い立ちだから、古村に彼(彼女)らの命運のようなものまでは計り知れない。ある種、自分を神職だと思うのは、彼(彼女)らが人間であって人間ではない、天使のような存在だと考えている節があるのではないかと、そうとすら思える。それは異常な考え方で、医者としてあるまじき考えだが、何人もの知り合いが、今の彼よりもより深みにはまって、異様な考えを抱いている。カルトにはまり、何人ものフタナリヒラを囲って、山に籠もった異常者を知っている。彼は聡明な建築家で芸術家で、舞台演出人だったが、今では教祖である。そうして、そのような価値観、信仰にめざめて、フタナリヒラを欲望の対象として利用する輩が後を絶たない。古村に、その暴走を止める手立てはもちろんなくて、何を成すこともできない。ただ、自分の目の届く子供たちだけでも、大人にすることが出来るのならば、それでいいと思えた。何も、そのような悲劇はフタナリヒラ特有のものだけではない。
森がケチャップで汚れた脣をナプキンで拭った。化粧を拭う青年(乙女)の美しさがこの年であった。聡明な表情で、子供の言葉を操るのに、どこか、達観しているように、冷たい目差しである。
「今度、お店に絵を買いに行ってやる。」
「ほんとう?ありがと。」
「お前の好きな絵を教えておくれ。それを買ってやろう。」
森は少し考えたように、目を細めて、ぱっと目を開いて、
「修さんの欲しい絵はうちにはないかもしれないよ。」
「どうして?」
「怖い絵ばっかりだもん。僕は嫌いな絵が多いんだ。」
古村はほほ笑んで、
「そういやそうだ。お前のお父さんは少し趣味が悪い。」
「自分でも悪趣味だって、言ってたよ。」
古村の頭に、相馬が嬉しそうに自分のコレクションを森に見せびらかす様が浮かんだ。
「蝶々はどうだ?最近は採るのか?」
森は少し黙って、考えるようになった。古村は森の顔を覗き込んで、
「大丈夫か?」
「うん。大丈夫。蝶々のことはあんまり言わないよ。たまに、部屋でお手入れしているだけだよ。」
森は、何も言わずに、心もないように、訥々とそのように呟いて、アップルジュースを手に取ると、ストローに口付けた。古村は、何も言わずに、ただ森の顔を見ていた。蝶々に、何か思いがあるのかもしれない。フタナリヒラは、時折このように空虚めいた顔つきになることを、古村は識っていたが、それが彼(彼女)らに何か、我々に見えていないものが見えているのだと、そういう識者もいて、それは確かにその通りかもしれぬと、古村に思えることがある。しかし、それはフタナリヒラに近しいものの妄言で、ほんとうは何も無いのかも知れぬ。彼らの表情の移ろいが、男女と異なるだけで、妙な信心のようなものが芽生えるのだろう。ただ、この少年(少女)には何事か悩みがあるのだろうと、そう古村には思えた。蝶々と、フタナリヒラと、どのような関連があるのか知れぬが、それは、単純に、フタナリヒラとしてではなく、一人の人間としての悩みなのだろう。古村は残っていたサンドウィッチを手にして、そうして森の視線に気付くと、
「食べたいのか?」
森は頷いて、そうして、古村はそのサンドウィッチを森に手渡してやった。森は嬉しそうに、サンドウィッチを頬張ると、今度はケチャップの代わりに、マヨネーズを口の端につけて笑った。
キャラクターイラストレーション ©しんいし 智歩