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三味線を弾く谷崎潤一郎

三味線を稽古しているうちに、三味線を題材にした小説が出てくるのが理想、だとしているのが谷崎潤一郎だが、芸事、或いは体験の中から藝術を生み出すことが、彼には重要であった。

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だから、自分の性癖を満足させた生活を行いつつ、なおかつそれを藝術へと昇華する、その方法論を確立させようとしていた。

『春琴抄』の特徴はなにかと問われると、大抵は句読点がほぼない息をつかない文章だと答えるだろう。

蛇がのたくったように、長い長い文章が続く。それは非常に読みづらいが、だんだんと吟じるようなそのメロディに、作品へと心が寄せられていく。
見事な語り口で、読みづらさを中毒性へと変えている。巧みな技である。三味線を弾くかのような文章であって、これは慣用句で言うのならば、実際に嘘言を真実めいて述べた作品であるから、まさに三味線を弾いている。

これは、プロト版『春琴抄』の『蘆刈』の発展形で、『蘆刈』はひらがなを多用している。この作品もまただんだんと引き込まれる長い文章だが、ひらがなでの構成が相まって、曖昧な、掴みどころのない、それこそ蘆の奥で見た幻想をそのまま字面で体現している。そもそもが夢幻能の形式に則った『蘆刈』であるから、作品世界の幻想性を見事に文章に封じ込めていて、開くと脳内に広がるその蠱惑的な文字たちが、魔薬の効能を持ってして読者を酔わせてしまう。

『卍』では関西弁を使用し、同性愛に肉感を持たせる。女性同士の言葉のやりとり、という構成は、そこに体温と湿り気、そして危険な破滅の臭いを纏わせる。

『鍵』や『瘋癲老人日記』などではカタカナを使用するなど、後期はわかりやすいほどに、作品ごとに文章方法を変えているが、これは映画における撮影方法、編集方法、カラーコーディネートなどのようなもので、技法の問題であり、谷崎の文体ではない。谷崎が書く上で重要なのは、如何にその題材を最適の方法で調理するか、それにより、文章の綴り方は異なってくる。

物語が重要ではなく、その物語をどう描くか、どう書くか。
『春琴抄』における長い長い文章は、最終的に佐助が目に針を差し盲目になるシーンで例えようのない美しさを獲得する。
このシーンへと至る糸として長い文章は存在し、三味線を弾く谷崎の筆致は一組の男女の恐ろしい嘘言の純愛を真実へと化けさせてしまう。
巧みな導入部から始まり、読者の多くが、『春琴抄』を作りごとではない、本当のことのように思う。モデルを探す。由来を探す。

如何に、本当に見せるか、如何に、一つの作品に真実味をもたせるか。
三味線を始めて、三味線の物語が生まれる。それは、創作者に欠かせないことである。何故ならば、人は藝術や風景から幻想を視て、それを自身の肉体を持ってして顕現させる。

谷崎が優れているのは、その幻視した景色を如何に撮影し、編集するかを心得ていることだ。彼は、まさに名監督である。



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