『幼魔術師』 創作小説
魔術師は阿片を売り、少年少女は春を売る。とても美しい円環だ。
彼はそう言うと、燐寸を擦って煙草に火を点けた。ただグロテスクなだけだ、何が美しいものかねと、僕の表情から言外の心情を嗅ぎ取ったか、彼はただただ、はははと笑うと、近頃街を騒がしているのだよ、阿片なんて旧世紀の遺産かと思ったがね、けれども、巷で噂の美少年や美少女は、どこで覚えてくるのやら、いや、覚える場所は識れたものだが、その匂いに敗けて股ぐらを開くわけだよ、いや、何ね、初めは、可愛らしいそれこそ初心な子供らも、薬っていうものは恐ろしいものだよ、そのせいで、自らの美しさや未来と引き換えに、病気になっておっ死んでしまうのだからね。彼は捲し立てるように言うと、煙草の烟を部屋に満たすように吐き出し続ける。烟なんて君のコレクションに悪いだろうにと、僕がそう言うと、彼はかぶりを振って、如何にも、毒を喰らうのは僕も同じなわけだ、その少年少女たちとまるで同じ、長年の毒が肺を犯し続けている。立ち上がるとそのまま洋箪笥のキャビネット開き、そこに納められた杉の木で出来た標本箱取り出して、密猟で狩り尽くしたとさんざ自慢したそれらの得物を得意気に見せてくる。酒はやらないが、煙草と昆虫と性交に彩られた彼の人生において、標本を他人に見せる時間が至上であるから、僕は彼の上顧客になったわけだが、然し、今日は初めて見る標本箱、とりどりの極彩色の蝶々は鳴りを潜めて、そこに串刺しにされているのは黒蝶、うばたまのその翅の文様が髑髏に見えるとなんとはなしに伝えると彼は深々頷いて、これは世にも珍しい黒死蝶、この翅に描かれた髑髏の模様は後天的に顕れるもので、初めは美しい、宇宙のように黒いただの黒揚羽思わせるが、それが屍体に取り付き血を啜る、いやいや人間のものではない、人間もあるかもしれない、なにせこの蝶々は墓場によく現れるのだし、けれども、動物の死骸からの血が主な栄養素だと言うと、蝶々が生物から養分を吸い取るなんて聞いたこともない僕は与太話に巻き込まれたのかと思いながらも、彼の話が確かであるのならば、この黒蝶、獣の屍肉に止まり、その死んだ血液を吸うことで、次第にこうして髑髏の文様が姿を顕すのだという、それがくっきりと見えるようになったのならば、その蝶はたくさんの毒を孕んで、それは蠱毒さながらの薬として珍重されたという。人を殺すための毒薬かと問えば彼はかぶりを振って、いやいや、人の死というものはどうやら甘美な匂いを放っているようで、これまた阿片のように人を狂わす快楽の妙薬、その鱗粉から精製された薬を吸えば肉欲の虜、それを性器に塗りたくればもう現世に戻れることはない、いやいや、死ぬ、と、いうわけではない、腹上死などは、まぁ、その限りではないけれども、然し、けれども、心はもう天国に行ってそのまま帰ることはない、そう話す彼を見ているうちに、一度だけ味わった、性器に覚醒剤を打って咬合した巴里の夜のことを思い出すが、それも若気の至り、あの恐るべき戦争において、恐るべき爆撃の地獄で鼓膜を劈かれたこの身にすれば、空襲の恐怖から一時逃げるためには、恐るべき外法に頼る他なかった。もう結構だ、僕はそう言って、それを片付けるように言った。彼の語る黒死蝶の話が、先程の阿片売り捌く魔術師に重なり、いよいよ空想募ってくる。するうち、それならこれはどうだいとキャビネット開いてもう一つ、今度は、左右の翅の色合い異なるー紫と黄色、黄色と白、明らかに隔てのある畸形の蝶々が数頭並べられた標本箱差し出して、これもまた珍しいだろう、その声に、悪夢でも見せようとしているのかと、そう穿ったが、彼が燐寸を擦ると、合わせて遠く湾から夜の警笛が聞こえてくる。いつの間にか窓外はイルミネーションに彩られて、赤い火が四方灯り始めていて、僕は揺らめく瓦斯灯からその蝶々たちに視線を移した。雌雄モザイクと言う、彼はそう言って、これが、蝶々の両性具有なのだと、そう言ってみせる。雌雄モザイクは時折起こる自然の悪戯、別段、この蝶々がそのためか生きていくうえで不利益を被るわけではない、いや、子孫を残せぬことがそれに当たるかと言い、ほとんど崩れ落ちかけている煙草を咥えたまま、じっとコレクションたちの翅を見つめる。雌雄モザイクは昆虫には珍しいことではない、昆虫だけではない、カモノハシだって、鳥と獣との間の子で、そのまた牡牝一つの不可思議な生き物なんだからと彼はそう呟いて、人間にもこれに当たるものはいると、さんざ畸形の生き物を自慢している彼の話が本題にようやっと来たなと、そう思えて、僕は、彼が、この奇妙な茶会に招いてくれたのは、やはりそういった自分のものを誇りたいという、子供じみた驕慢から来ていると合点がいった。女を抱くときはいつも三人まとめて抱くのだと、彼はそう言って、それはある種、彼もまた戦禍の犠牲者であることからの放蕩かと思えたけれども、彼の蒐集と採集癖はどうやら余人の理解を得るのは困難なほど珍奇なものに偏っていた。彼がこうして自慢の御宝についてそれとなく口を滑らせる時、暫くはその話に付き合う必要がある。僕は薄暮の中、黒く染まる庭を見詰めながら、まだ時間はある、とだけ答える、彼はそれを合図に立ち上がり、キャビネットの引き出し開けると、そこから一葉の写真を取り出して、それを僕に渡した。てっきり何か奇怪な生き物でも見せられるのかと思ったから拍子抜けしたけれども、そこにはモノクロームの中にぴたり並んで佇む二人の少年少女がこちらを見詰めている、僕は息を呑んだ、それほどに二人共美しかったからだが、然し、すぐとそれが、二人腰のあたりで繋がっていることに気付き、シャム双生児の写真かと合点いき、確かに牡牝繋がってはいるが、これは兄妹か姉弟だろうに、先程の蝶々とは異なるだろうと、写真を彼に戻したが、彼は何度か頷いて見せて、両性具有であるのならば、確かに、一つの体に男の印と女の徴が混じり合う必要あるだろうが、然し、けれども、この二人はそれぞれのしるしを求め合ってみせる、さながらプラトンの『饗宴』思わせる睦み合いだ、そう、寒い寒い雪の日に彼らは産まれた、彼ら産まれたのは品川にあった元華族の屋敷、そこで奉公する女中が、間借りしていた書生と契交わして出来た子らだ、産まれて驚いたのは屋敷の主人の元公爵、彼は、やんごとなき一族の種が因でこの子らが産まれたことを酷く恐れた、それだけの放蕩浸っていたわけだが、無論、真相は闇の中、本当の親御はその書生か、それとも公爵だろうか、将又、そこで勤める誰かの子らか、それは定かではなかったけれども、然し、けれども、その二人、どちらも稀に見る美しい顔立ち、これは高貴な血筋を引いた者たちかもしれぬと、公爵は彼らを引き取って、自分の親戚の子として育てることにしたという。肉体が繋がっているとはいえ、彼らはほぼ二人だった。腰の辺りで結合が見られていたけれども、然し、けれども、診察した医者の話に依るところ、臓器を共有していない、二人の人間がただただ繋がっているだけだ、そう言った。で、あるからして、無論、意識を共有しているわけではない、脳みそがそれぞれにあり、目鼻口耳がそれぞれにあり、ただ、二人が向かい合うと鏡のようで、これは見ている者を夢幻の世界に誘う不思議があった、それがすくすく育ち、男と女のそれぞれの特徴がいよいよはっきりと見て取れるようになる頃には、美少年と美少女が繋がりながら歩くそのさま、それは小さな恋人たち、或いは芝居小屋見世物小屋から抜け出たような、幻想の住人のようで、幼い頃には早々に彼らの肉体を切り離すべし、そうしなければ、たちまち悪い噂が広まって、公爵、その因の責任は自身にあると吹聴されそうでやはり世間体を慮ると堪らず、まだ子供の体力ではどうなるかわからない、それに、焦って手術を行う必要はないと、そう医者に説得されて、気付けばもう十五の男女の盛り、着流しを着た二人は、似たような美貌の顔を二つ転がして声を上げれば二重奏、四つの眼に射抜かれて、それはもう、魔術のようでーそう、人々に言われるようになった。あれほどの美貌があるのであれば、それは恥じることはあるまいと、公爵の心変わりもあって、二人はこのまま繋がったまま生きていくのかと思え、それは当の本人たちにとっても願ったりのようであり、公爵はあくまでも後見人として、本当の父かもしれない書生は、彼らとはひとつ屋根の下で暮らすこと叶わず、彼ら成長していくうちに一層美しくなるという美貌を伝聞で耳にするに過ぎなかった。少女は髪を延ばし、少年は頭を丸めた。それが一層の対比、互いのうばたまの黒髪は匂うようだった。そのように見目麗しく育った二人を一目見たいと、方方から客人が屋敷にやってきて、別段籠の中の鳥ではない、けれども、公爵もその気に、その御蔭か、彼らの部屋は花籠のように花々に溢れて、その花びらは彼らの象徴のようであって、何れ次第に没落していく家系なれども、金には糸目はつけずに、特に蘭、それも洋蘭、カトレアの花びらが部屋中に散って、発情を催させる匂い放つ。ある種、それは獣小屋ではないかと、そのように言う者もあった。ある晩、わざわざ関西は神戸、船で横浜まで来て、そこから馬車でやって来たという客人一人あって、フードを被り、謁見を頼まれた公爵、客間に通された男、上衣を脱ぐと真黒な頭がつるりと光り、どこからか白檀の香りがするその男に、仏門の徒かと尋ねるが、然し、けれども、彼は、自分をしがない商人だという。首には不思議な小箱を細い金属の紐からぶら下げて、その風体の人品骨柄、悪党とまでは言えないけれども、得体の識れない空気は纏っている。だんだんと、戦禍が果てなく広がるにあたって、ある種の特需、特に、外国人に受けが良いのだと、以前神戸港で出会ったドイツ将校に、少年娼婦、それも双子を売り捌くにあたって、彼ら特有の優生思想の萌芽か、隷属する少年たちに軍服を着せて遊ぶのに大枚を叩いて、それが噂になり、金になり、神戸北野の異人街に、外国人将校、或いは外国の軍人、若しくは、秘め事漏らさぬ口の固い帝国軍人に向けて、秘密倶楽部を開くと、客は増え続けていて、いずれは警察のメスが入るのだろうが、まだその時ではない、ならば今のうちに荒稼ぎをしようと、様々な年格好の少年を囲っている。少女はと尋ねる公爵に、軍人は男の子が好きだ、それはこの国の昔からの習いだろうと、男はにやついてそう言った。ただの女衒ではないのだ、そう、彼は言って、少年たちは、私を魔術師と、そう呼んでいる、存外、彼はその二つ名を気に入っていると見える。魔術師は眼を瞬いて、公爵に少年少女を見せてほしいと、花籠の場所を尋ねるが、けれども、公爵は少し気に入らない。シャム双生児、それも、美少女と美少年の連なりであるのならば、私も一度この眼で見てみたい、そう言う魔術師の眼は期待に震えている。公爵は、そこまで言うのであればと、魔術師を部屋まで案内して、そこではすやすやと眠る二人、どちらも安心し切っている、魔術師間髪入れずに、綺麗なものだ、とただそれだけ言うと、幾らならば彼らを手放しますと公爵に尋ねるも、金には困っていない、そのようなことができるはずもない、と、そう強く言い切ると、彼らの出生の秘密について、魔術師は口を開く、然し、けれども、そのような脅しには乗らないと、公爵はまたも断固として撥ねつける、シャム双生児の娼婦など退廃の極みであると、そう突っ撥ねてみせるも、魔術師から提示された大金に、揺れる心は確かにあった。然し、けれども、もうお引き取りくださいと、そう言って、魔術師を部屋から追い出す。夜半、草木も眠る丑三つ時、公爵家の屋敷の厨から火が上がる。火の手が勢いを増していくにつれて、もうもうと烟が広がり、飛び起きた公爵の頭の中、火の手のことでいっぱいだった。火が収まり明け方、陽の光とともに、何か動物の声が聞こえる。蠢くように地べたを張って来る声に釣られて、公爵ゆっくりとその獣の声に導かれ、そのままそれは花籠に繋がり、襖戸を開けると血塗れのカトレアの花びら部屋中に散らばり、腹を押さえて呻く美少女、血染めの手のひらは先程の火を公爵に連想させた、するうち、彼女がもう唯の人になっていることにようよう気付き、そこから息子が奪われたことに思い至る。月のもの思わせる血が廊下に点々、これは神戸の娼館まで繋がる道筋かと公爵今にも気を失いそうに蹌踉めく、美少女は立ち上がり、床汚す血に触れながら、それは自らが流したものであると同時に、他者の血でもあるのだと、そう言うように、その朱い唇に血で化粧してみせる。公爵は慄くように少女を布団で包むと、そのまま抱擁し、少年がいなくなったという現実が急に頭をもたげて、その影が姿を現して、眼の前で絶命前の獣の泣くような声あげる少女の、もはやその身体両性具有ではないことに、巨大な動揺を覚えた。その流れる血はみるうち彼女を覆う布団を赤く染め上げていき、それは初潮ではあるまいか、或いは姦通かと、そのような幻聴が公爵の耳に谺する。女中が彼女を浴室まで連れていき湯で汚れ落としてやっているその最中、公爵は部屋の椅子に腰掛けて物思いに耽る、男にせよ、女にせよ、結合の時、媾合の時、その血で相手を染めるのであるが、然し、けれども、この二人は、離合の時にこそ、血潮を流すのである。意識が二つあれども心は一つか、先程の少女の眼、心此処にあらずの虚無の眼、それは公爵とても同じだけれども、冷静に頭から血が降りていくにつれて、さて果たして、かの魔術師神戸山の手に娼館を持つのであるから、少年はそこで働かせるか、或いは、自らのコレクションの一つとして愛玩するかのどちらかであろう。取り返しにいくとて、今は戦時下、斯様に物騒なことは出来る筈なく、悩む公爵の前に、身体を清めてきた美少女、その白装束、剃り上げられた髪の毛は尼僧を思わせ、公爵声を上げることなく驚き、立ち上がると美少女の帯に手をやりするするとそれを脱がし、眼の前に現われたその乳房の桜を検め、腹部に巻かれた包帯から滲む血に顔を歪め、彼女が公爵を見つめると、御兄様を探しに参ります、とだけか細い声で言って見せる、どうしてこのように頭を剃ったのだと尋ねると、彼女はかぶりを振って、なるほど男に化けて彼奴の娼館に行こうと言うのか、娼婦ではなく、男娼に成り済まして、そう尋ねると静かに頷いて、魔術師が二人の寝室に現われた時、それぞれの器量を確かめるために顔を検めたのだという、そうして、御前は男を咥えこんだことはあるのか、御前は一物で女を泣かせたことはあるのか、下卑た質問する魔術師、どうやら何か薬が悪さでもしているのか、双眸充血し、呂律は怪しい。魔術師は、さも外界のことを識っていて、無知な二人を試すようなことを言うが、それが癪に障った兄妹、魔術師の眼の前で唇奪い合い、番ってみせるその痴態、魔術師目も眩むように食い入り怒り、慄き、猛る、二人の眼、四つの眼が魔術師居抜き、六つの眼が幽かなる光の中で蠢き、僅かに焦げるような匂いと火が爆ぜる音に、魔術師は強かに美少年を殴り、二人の結合の邪魔をすると、小箱から取り出した黒い玉を兄の口に含ませ、飲み込ませる、急に吐き気が妹に伝播してこれは薬に酔うたのか、媚薬のせいか、目眩を覚えていると、途端に腹に激痛が走り、それは見るも美しいアラビアン・ナイトの盗賊が持つよう三日月型に反った短刀、兄妹の残された結合部から血が迸る。貴様は男娼にしてやろうと、魔術師手を動かしながら兄に囁く、蓋が開いた小箱からは黒い鱗粉が舞う、魔術師手の先の黒蝶の鱗粉をつけ、快楽の玉座に座る黒死蝶の鱗粉から出来た媚薬だと、生臭い息を吐き、妹の耳には、美しい汽笛が聞こえて、それが先程から自分の中にも伝染した薬のせいか、脳中から分泌された麻薬なのか、判別のしようもなく、ただただ意識が途切れていく。最後に見えたのは兄を抱えてそのまま部屋を出ていく魔術師のその後ろ姿、必ず兄を取り返すと、そう静かに呟く彼女に、公爵は執念めいたものを感じながらも、昔聞いた、アンドロギュヌスの話、男と女は、元来一つの球体で、半分に分かたれた、互いが互いを求めて、完全な球体に戻るために相求め交わるのだと、希臘哲学者の話、それを思い出しながらも、産まれた時から球体だったこの現代のヘルマフロディトスに、あるべき片割れを喪ったその姿に、一抹の憐れを抱く。余り大仰に動いたのならば、彼奴に気取られる怖れがあるからと、少女は丸めた頭にベレー帽、水兵服を召して、半ズボンからすらり伸びた足は男の子よりも美しい。神戸は港の街、海の街であるからと、そう言い残して、少女は花籠を飛び出し、そのまま行方はようと識れずだけれども、然し、公爵は寂しさよりも安心が勝る、当面の生活費に心ばかりと渡した札束に罪悪感を押し付けて、内心の安堵を気取られぬように、けれども、少女の美しい眼は公爵のそんな心を揣摩してみせる冷たい瞳、黒よりも幽かに碧い、碧いのならば、それは異人の血だろうか、そうであるのならば、尚の事、自分との血の繋がりなどは決してない、思えば自分よりも、いくらも高貴な目鼻立ち、血筋よりも何よりも、どこか異なる神々の国の子供たち、そんな神話を夢見ては、自分の心を誤魔化して、それは建前に過ぎず、本当には両性具有ではなくなった彼女や彼に、興味がなくなったからかもしれない。神戸に降り立つ少女は、瓦斯燈の下を歩きながら、淫売家業の娘たちを、猫の目で見つめるけれども、彼女たちが異国の男性たちに傅く度に、これが女の性なのであろうかと自らを突きつけられるよう。長い長い間、男の半身と暮らすあまりに、己も男だと信じていたが、然し、やはりこの髪もこの口もこの鼻もこの耳もこの眼もこの胸もこの腕もこの佛のいない喉ですら、兄とは全く異なっている。けれども、鼻が効くのはどうしてか、麝香の匂いに導かれ、すんすんと犬のように、懐かしいその香を追ううちに、だんだんだんだん、坂道を登っていく。汽笛が聞こえる。夜の汽笛は幻聴ではない、湾にはいくつもの軍艦が浮かぶ、その黒黒とした男根めいた破壊の神に思わず敬礼をしてしまうが、はっと思い至る、兄の匂いだ、あれは、男の匂いだ、そう呟きながら坂を登っていくと、眞白な水仙が夜風に揺らめいている。手を伸ばすと、それは娼館、いや、男娼の館。門番が、御前は初物か、童貞か、そう尋ねるから、少女は頷いて、門番は指笛を拭きつつ、手招きをする。少女の帽子を取ると、顎に手を添えて、女みたいだ、そう言うと、少女の眼を覗き込む。ここで雇ってくれますか?少女の言葉に、主人次第だと答えると、門番はじっと彼女を見詰めて、物欲しそうだ、と、欲情を隠そうともしない、少女は微笑んで、私が女だったら、この男は嬉しいのだろうか、それとも、この男も男が好きなのだろうか、そう思うと、少し、この門番を誂ってやろうかと、そのような誘惑が鎌首をもたげて、門番のズボンに手を添える。門番満更でもない様子で、少女を見つめる。少女もまた、満更でもない風を装って、自らのものへ、彼の手を導く、するうち、彼女は、私が求めているのは兄ではなく、男なのか、それとも、兄でしか赦されないのか、満たされないのか、彼女には試すように思えた。門番すぐに果てて、ぐったりとしている、それを尻目に、門番のズボンから掏摸よろしく鍵束を盗み出し、入口から堂々と入る少女、やはり、この男では満たされる筈もない、匂いがだんだんと強くなる、欲求がだんだんと大きくなる、兄の香りがするのだ、もう一度、同胞である兄の肉体と自らを咬合する夢、結合の夢想、それは、兄も同様のはずだ、兄も、内なる声に呼ばれて、呼びかいの声に私を思っているはずだ。様々な声が、建物中、屋敷の中を渦巻いている、ここも花籠のようだが、然し、けれども、それは、生産性のない、ただの快楽の國だ。誰もいない部屋に、黒い蝶が舞っていて、そこは屋敷内の庭園だった、そこだけ温室で気温が高く、少女汗をかきながら、掌止まる黒揚羽、いや、髑髏の文様乗せた蝶、飛び交いみれば所々土が盛り上がり腐臭がする。蝶々音もなく飛んで、それにつられて少女も差し足忍び足。温室から抜け出て廊下をゆくと、木製の扉が一つ、中央に鍵穴がある。少女は眼をそこにそっと近づけて中を覗く。縛られて、こちらを見ている兄がいる。鎖で手首は血塗れで、それは固まり、血の鎖めいた。そして、魔術師が側で葉巻を吹かす。酒を呷る。いくつかの鍵があった。それを差し込む。鈍い音がして、扉がゆっくりと開き、魔術師は振り向き、驚いたように、少女を見詰めた。これはこれはお姫様、魔術師の言葉を少女は無視して、兄様、とだけ呟いて、彼の下に寄り添った。初夜権、というものがある、そう魔術師は言うと、男の初夜を奪うのは、男の仕事だ、古来からの、日本の習いだ、そう続けて、それの意味するところは、兄の足を滴る血で想像がつく、これはあの夜に兄妹が見せた痴態に対するささやかな復讐だったのだろうけれども、少女はやさしく兄の頬を撫でて彼の腹に手を触れた。尼僧のヘアースタイルの二人が並ぶと、やはり鏡写しで生写しだ。残念だが、お前たちは独立してしまった、ほら、貴様の兄はこの魔薬にぞっこん惚れ込んでいるよ、お前たち二人で春を売って、私から魔薬を買わないか、阿片よりも効くこの媚薬、そんな魔術師の口上など意に介さず、少女は、そっと然し勢いよく彼の腰を三日月短刀を抜いてみせ、首筋向けて振ると思わぬ量の血が弧を描き、二人の頬を染めた。魔術師はその両手で首を押さえて出血を止めようとするも、なみなみと血が溢れ、床までを紅く染めていく、魔術師歯を食いしばり、その眼からも血の涙を流し、紅く曇りゆく網膜に映じたのは口吻を交わす兄妹、然し、けれども、それもいつしか二つの影が一つに重なり、雌雄同体の美人がこちらを見詰めている。魔術師手を延ばし、けれども遠く彼らに触れることは出来ない、薄れゆく意識の中で、彼らの手が差し伸べられて、然し、それは、自らが首からぶら下げる魔薬の小箱で、それを手に取り少年少女は微笑んだ。二人魔術師の亡骸を燃やすように門番に命じて、彼には媚薬を与える。不義理な男はそれだけで喜び、彼らに傅くと、その手に口吻て、然し、薬のせいか、彼の眼にも、瓜二つのその顔は、雌雄同体の人に見える。もう公爵家に戻るつもりは二人になく、魔術師の代わりに春を売り捌き、阿片の如し媚薬を売り捌く、何時しか二人は幼魔術師と呼ばれるようになった、ある夜には尼僧のようで、またある夜は娼婦のようで、二人一役、それとも一人で二役なのか、娼館に通う者たち誰もが魔薬の魔術、いや幼魔術師のせいで曖昧な世界を見る、ここに浸ると、男も女も、関係がないのかもしれへんと、ヘルマフロディトスの存在が、まことしやかに語られ始めたその頃に、戦禍激しく山の手も例外ではなく、連合軍の奇襲の大爆撃大空爆、シャム双生児の兄妹の娼館も焼け落ちてしまった、警報がなる中魔薬とまぐあいで意識混濁の二人逃げ延びること叶わず、焼け跡には、人骨一つ、奇妙な形で、男と女が混じり合うただ一人分の人骨だった。そこまで話すと、彼はもう一本の煙草に火を点けて、僕は暗闇の中のそれを見詰めた。つまりは、君はその骨を持っているのか、僕の問いに彼は立ち上がると、キャビネットの下段、観音開きの扉を開けて、禁色の麻布に包まれた何か取り出すと、布をするりと取ってそれを見せた、闇の中に、髑髏が浮かび上がり、洋燈の火が風で揺らめくと、美しい幼魔術師の生首が、そこにふっと浮かび上がり、僕を見据えた。