聖 寂 ①
東雲の化粧にて少年新雪のように紅く、君に御名前をあげよう。
水音に耳が敏く起きた。起き上がり布団から出ると、白檀の香りが漂う。パパと、知らず呟いていた。然し、その匂いにつられて襖を開けると、闇の中に橙色が灯っていた。いくつもの蝋燭が揺れて、その燭の集いのちょうど中空に等間隔で明滅する灯り一つ、蛍火のように生きている。それは煙草のようで、嗅ぎなれない匂いがしたけれども、指先には覚えがある。爪先が円かである。蛍火が明るくなるたびに、その煙草の清潔に白いのが目に入った。金色の線が二本引かれて、菊の紋が刻まれている。灯りの明滅のごとに、その手先の向こう側に見えるのは弥勒菩薩半跏思惟像の微笑みだった。煙草を挟むのもその指先であるかのように錯覚が萌す。燭台には錆が浮いていた。揺れに目を奪われていると、耳底を水音が流れて、そのまま灰色の壁に目を向けると、さらさらと水が伝っていく。どこか遠くに、サイレンが鳴る。
目を開けると、そのまま起き上がり、枕元のライトを点けると、窓を開けた。硝子を透かして赤赤と見えていたのは、遠く風景に溶け込んだ火事だった。サイレンは、今は聞こえていない。夜に立ち上る火炎を見ているうちに、噎せた。
火事は、すぐに離れて、どこか遠くにて発光する星々の明かり。電車は停まることはない。隣では、連れ合いが寝息を立てていた。寝ていても、どこか山猫のような娘だった。鋭い野生の月のように、爪先が喉元にちりりと当たる。彼女の指先は円かではない。
今どの辺りだろうか、時計を見るともう深更で、然し、一度目を覚ましてしまったからには、もう眠れない。起き上がり、文庫を手にとった。『聖耳』。連れ合いを残して、二階の和室に上った。車内に畳があるのを見ていたせいで、白檀の匂いを聯想したのか。それとも、普段からつけていたペンハリガンの香水からだろうか。窓を広げると、山間部で、雪が舞うようだ。暫く景色を眺めて、あれはなんの木だろうと、思案する。それらの木の数を数え飽きると、文庫に目を落とした。病院小説で、気が滅入った。まぁ、電車もある種、病院のようなものだろうか。寝台列車ならばそれも尚更。『魔の山』も、『風立ちぬ』も、狭い空間に閉込められて、延々と繰言を続けるだけではあるが、閉所にはその魔力がある。魔物がいる。閉所にいると、自ずから内面へと落ち込んでいく。どちらの小説にも、根底にはダンテの『神曲』がある。いや、それは堀辰雄ではない、宮崎駿の芸術的なアニメーション映画か。連れ合いが寝返りを打った。ポツポツと、民家の明かりがぱちぱちと爆ぜていった。見えもしない車輪の火花。
読んでいても、目が滑った。活字が脳に滲みいらない。目頭を揉んでいるうちに、香が匂った。ああ、眠れない。眠ることができない。波音が聞こえた。まだ、日本海に出ていない筈だから、これも空耳の類いだろう。それとも、遥か遠くの漣が夜の空気を伝わって、ここまで流れてきているのだろうか。然し、寝台列車であるから、当然駆動音の祭りの最中であるから、これもまた空想だろう。
立ち上がり、車両を探検する。この高級列車に乗りたいと言い出したのは連れ合いだった。高額の上、倍率が高いから、当選するだけでも大したものだった。西日本のものと、東日本のもの、九州のものとがあったが、東日本のものである。雪国を見たかったのは連れ合いの方ではなかった。彼女は九州を周りたいとボヤいていた。客室はすべてがスイートで、給料の三ヶ月分が飛んだ。然し、好奇心が勝った。車両はホテルのようで、そこここに、調度品や民芸品が置かれている。暫くそれを眺めた後、部屋に戻った。まだ連れ合いはいなかった。パソコンを取り出して、執筆中の原稿に向かった。定期的な揺れが、今度は眠りへと誘って、舟を漕ぎそうになると、視線に小箱が入った。銀製のボンボニエールだった。お迎えのお菓子が入っておりますと客室乗務員が語っていた。聯想の続き。手に取り開けると、中には星屑のお菓子が極彩色だった。それを一口摘んで口に含むと、割れた味がした。泣いていた。取り返しのつかないことをしてしまったのだと、ごめんなさいごめんなさいと、泣いていた。皇室縁のボンボニエールだった。伊万里焼のボンボニエールで、犬張子を模した高価なものだった。オークションで競り落としたものだったが、給料の一月分。本当は、銀製のものが欲しかった。平成天皇の産まれを祝う慶びの函で、一世紀近く過去のものである。それは、手に入れることは叶わなかったけれども(一層のこと、博物館にでも押し入って、全てを放擲してでも手に入れるべしかもと思う夜も毎度のことではあるがあるのだが、それも一時の気の迷いで、暫くすると思いも出さなくなるのが不思議だ)、買って暫くしてから、息子が机から落として割ったのだった。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいと、泣いていた。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、と、鏡台の下で泣いていた。漆塗りの木製の鏡台である。夕日が差していて、窓から鏡台の下の潜り込んだその小さな手の甲にも紅は差していた。暫くして、泣き疲れて、いつの間にか眠りに落ちていて、はっと目を覚まし、それから起き上がり、のそっと立ち上がり、鏡台の下から這い出てきた。鏡にうつる、感情が描いた紅で化粧した少年の美しい睫毛。それが、彼の美しい持ち物のひとつ。またひとつはまだやわらかい声。またひとつは浄福な肌。またひとつは何を捕えているのか聖なる耳。その記憶の場に音は、ニュースを読み上げるキャスターの声が聞こえるだけで、ピアノの音が重なって、パパと呟く。耳に、使い古した耳にそれが重たく残る。