マイナー聖地
聖地巡礼の旅、というものがある。
私は結構、聖地巡礼の旅が好きである。ミーハーなのだ。
まぁ、映画とかの聖地には行ったことがない。
一番行きたい聖地はもちろんエルサレムであり、エルサレム近くのゲッセマネの園である。ここでイエズス・キリストが逮捕されたのだという。
オリーブの木の園だ。それからイエズス・キリストのお墓である。
然し、お墓は常に長蛇の列であり、信徒たちが撫でまくり舐めまくり触りまくりだという……。ウルトラにカオスな場所である。
で、私が行ったことのある文学的聖地は基本的にはマイナーであり、人がいない。無論、地元の方や観光客はいるので、まぁ、私のように文学的要素を土地に求めて向かう人間が少ないだけである。
まずは京都の神護寺である。
神護寺は紅葉の神護寺と呼ばれるほど、秋には大層美しい紅葉が観られるのだという。だから、秋は混雑するのだ。いや、京都の秋はどこでも混雑する。
私は初夏に訪ったので、その紅葉の景色は写真でしか観たことがない。高雄にあるため、非常にアクセスが悪く、しかも山登りがついてくる。バス停で降りてから、山を登らなくてはならない。石段を上っていくと段々と山門が見えてくる。立派な構えで、大層美しい。
ここは、谷崎潤一郎の『春琴抄』が書かれた場所であり、舞台ではないが、まぁ、谷崎はこの山に滞在して、『春琴抄』を書いたそうである。ここは奥さんの松子婦人の紹介だそうで、谷崎は書簡で「ここはええ場所ですなー。」的なことを書いて松子に送っていた。
『春琴抄』といえば、舞台は薬種商の街である大阪の道修町である。
ここには、少彦名神社があり、お薬の神様が祀られている。商売の神様でもあるのだという。要は、『春琴抄』の春琴は船場の御嬢様であり、谷崎の恋い焦がれた松子婦人の街だから、そこからの連想なのだろうが、この辺りには『春琴抄』石碑もあって、然し、それ以外には『春琴抄』を思わせるものはなにもない、完全なるオフィス街である。
石碑は原稿の1枚目が印字されているが、谷崎の自筆原稿複製本で『春琴抄』や『蘆刈』がある。
この自筆原稿複製本は極めて美しい装丁である。そして、自筆の複製であるから、無論、推敲のあとが克明に書かれている。
これはまぁ、2万とか3万くらいで中古で買えるので、タイミングがあえば入手は比較的容易だろう。部数は限定500部だ。今もネットに15,000円くらいで出ていた。
それから、先程も書いた、私が谷崎の№1小説だと思っている傑作『蘆刈』において、その『蘆刈』の舞台となった水無瀬神宮を訪ったこともあるが、暑い夏の日で、記憶は朦朧としている。
『蘆刈』という作品そのままの朦朧さ曖昧さで、私は電車から降りて、最寄り駅から水無瀬神宮に向かった。
知らない街、というものはいいものだ。全てが新鮮に映るし、知らない街を歩く1時間は、何もない1日に相当する充実度だ。
HPを見てみると、何やら季節のライトアップなどに力を入れている。私が行ったときは、うだるような暑さの中、境内の近くで薄着で団扇を仰いでいたババ様がいたが、このHPからは完全にその面影を感じられない。然し、このHPはなかなかいいデザインである。
それから、滋賀県の三井寺。三井寺はどメジャーであるが、今作は川端康成の最後の長編(中絶)『たんぽぽ』に登場する。
三井寺は鬼のように広く、私は遠くから聞こえてくる晩鐘の音を聞き、晩鐘を突きたい衝動に駆られて、寺内を彷徨く。そして見つけた晩鐘を突くと、何かこう、日本人のDNAが刺激されるというか、日本人は鐘の音に心が癒やされる。無論、私にも百八の煩悩があるが、ついた瞬間、なぜか一突きで全ての煩悩が消えたようなくらいに、耳障りの良い響き。
川端康成と伊藤初代との間の非常事件の舞台にもなった岐阜県の『西方寺』も訪ったことがある。
『西方寺』は、川端康成の初恋、というか、まぁ、本当に初恋なのかどうなのか定かではないが、初期の聖少女であり、川端のマリアともいえる伊藤初代が住み込みでいた寺であり、ここで障子の貼り替え作業などをしていて、川端に手を見られて恥ずかしい……的な感じ(詳細忘れた)の話を、川端が小説に書いていた。いわば、二人がかつて本当にいた場所であり、ここは外せないマストの場所だ。
然し、現在は完全に建て替えられているようで、最早一見さんお断りの風情である。
私がそこについた時、ちょうどお寺の関係者らしき人がいて、私は檀家でもなんでもない完全な部外者のため、非常に居心地が悪かったのを覚えている。
まぁ、ここまで書いておいて、大体の人には興味もないと思うのだが、
やはり、実際に行ってみるのとみないとではえらい違いである。
聖地、文学的聖地、というのは本当にたくさんあり、『金閣寺』に行くのもいいが、京都に行くのならば、同じ金閣寺仲間である水上勉の『五番町夕霧楼』あたりの五番町遊郭の辺りをフラフラし、往時を偲ぶほうが、なんとなーく、よりリアルな聖地体験ができるものである。