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憂国のメリー・クリスマス

『戦場のメリークリスマス』は大島渚の最大のヒット作だという。

デビッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけし、トム・コンティ、ジョニー大倉、内田裕也、と、いう、音楽畑の人が多すぎる映画であり、音楽も坂本龍一だ。
そして、濃厚な同性愛映画でもある。

このポスターのレイアウト、格好良すぎる。

リアリズムの戦争映画とは一線を画し、戦闘シーンはなく、男性しか出演していない。女性は一人も出ない。

まぁ、面倒くさいので、粗筋はウィキペディアか何かを読んで欲しいのだが、今作は、基本的には1942年のジャワ島、日本軍俘虜収容所が舞台で、俘虜となったイギリス人のボウイを巡るお話で、このボウイ、なんたってデビッド・ボウイ、なので、色気がありすぎるため、これまた色気には定評のあるここの所長のヨノイこと坂本龍一、いや違った、逆だ、坂本龍一ことヨノイ大尉は気になってしょうがない。
ヨノイ大尉は化粧をしている。まぁ、メイク、なのだが、そのせいで、いや、こんな乙女な大尉はいねーだろ、っ的に、まぁ、これはお芝居的であり、ファンタジー戦争映画なので、この、箱庭的な俘虜収容所、それは、閉ざされた森であり、抽象と空想、そして、感傷が蔓延る夢幻の世界になっているのである。
そこに、もう、監督からメイクさせられた坂本龍一は、ファンタジー映画だと割り切って音楽をつける。そして演技は下手くそである。これは、『ラスト・エンペラー』の時もそうだったが、演技が下手くそである。然し、その佇まい、顔立ち、これは一級、美しい。だから、愛しくなるのである。
で、そんな乙女のヨノイと、ヨノイなどに興味のないボウイ、この二人の間に、たけし演じる原軍曹と、コンティ、が入る、のだが、トム・コンティ、めちゃくちゃ日本語ゼリフが下手であり、聞き取れない。それを受けるたけしやヨノイ、普通に会話しているが、いや、お前らだって今の聞き取れねーだろ、聞き返せよってなもんで、まぁ、母国語以外を流暢に話す役者は、凄まじいということだ。トム・コンティは頑張っている。

ボウイは、イギリスでの青少年時代の弟との間におきた出来事の罪悪感とトラウマで、もう、それが人生の瑕疵、それだけに異様に固執している。ボウイはブラコンであり、ヨノイのことはどうでもいいのだが、ヨノイはもう、恋する乙女のような顔立ちで、キスされて、気絶しちゃうのだが、なんだそれって感じで笑ってしまうのだが、然し、同時に切ないシーンでもある。
一切、具体的な性描写など(キスを除けば)は出ない、出ないが、それが重要であり、この、奥ゆかしさこそが、同性愛映画、いや、汎ゆる恋愛映画に重要なものであり、それが、今作を、童話的な高みへと押し上げている。

少女漫画の1シーンのようだ。

で、切腹シーンも多く、ジョニー大倉は切腹する。切腹、と、いえば、三島由紀夫、であり、三島由紀夫の『憂国』、これは、まぁ、傑作である。
私は、三島由紀夫はそんなに好きではないのだが、『憂国』は好きだ。だって短編だからね。三島さんはいつも濃厚に過ぎる文章を書くので、読むのがしんどいんだよね、もう、ガトーショコラの上にたっぷり生クリームを乗せてココアをどうぞ、って差し出されて、食べようとすると、横で真顔の三島さんがガン見してくる感じ。

で、『憂国』はね、これも濃厚なんだけど、張り詰めた濃厚さでね、いいんですよ、で、30ページかそこらですからね、読みやすいですね、うん。
二・二六事件で、陸軍の青年将校たちのクーデター、これに誘われなかった主人公が、彼らを討てと言われて悶々とするんですね、まぁ、彼はこの少し前に、大変お美しい女性と結婚したばかりで、彼女は軍人の嫁であることを理解して、いつだってお供しますわ、的な覚悟の決まった人でね、二人は明けても暮れてもセックスばかりしています。勿論、仕事も、生活も真面目で、美男美女のカップルなので、それを見た周囲の人達から、死相が出ていると言われるほど、それほどの薄命、薄幸感が出ている、そんなお二人。
で、クーデターに誘われなかった主人公が、友人たちを討て、的な命令を出されて、いや、できん、俺にはできんぞ!と、新婚の俺達を慮ってくれた仲間を打てるかい、俺だってお前たちと……的に、もう、死ぬことを覚悟して、夫婦ともに心中、自決をするお話、なんですが、もう死ぬことが決まれば、二人は最後にセックスして、身支度を整えて、死に化粧をして、夕餉を作って、と、そんな所作、それがまぁ、皇国主義的ではありますが、美しいのですね、丁寧に丁寧に描いている、自ら死を決めた人間、その人間たちの所作、心の機微を描いている、で、後半はもう、切腹シーンですよ。いきなりグロくホカホカ内蔵になりますし、このシーンはね、谷崎潤一郎の『春琴抄』のね、佐助が自らの眼を針で突いて盲になるシーン、あそこみたいなリアリティがあってですね、あれも谷崎は、医者に聞いてますからね、どんな風になるねん、と、まぁ、そこは想像力、作家には想像力と取材力が問われますが、取材して、で、それが正しければいいわけではないんですね、読者が実感できないと、意味ないですからね、実感として読者に与えないといけないわけで、なので、想像力、これが重要で、宮崎駿だって、嘘のシーンを、こんなふうにはならんやろ、的な演出をしますが、納得させますから、その想像力、読者が、ああ、こんな風になるんだ、と納得する、そんなシーンを書ける腕力ってものを、文豪は持ってるんですなぁ。

『春琴抄』は、あの眼を針で突くシーン、あそこがね、まさに、あそこからの春琴の顔を見るまでのシーンが凄まじい筆致で書かれていまして、谷崎の文体、あの、長い長いうねうねとした文章、そこに、今作で一番の肝としていたとされる、『春琴抄後語』でも触れていた、「本当らしく」書く、即ち、春琴と佐助が実在の人物であるかのように書く、冒頭に出てくる、『鵙屋春琴伝』の仕掛けからの、見事な世界の作り込み、そこから句読点を省きに省いた文体で音曲のように聴き語るように物語を紡いで、そうして読者は、もう、あの佐助のように、本当に針で眼を突くという異常心理を受け入れて、その結果のまなこの反応、そうして来迎佛の如し春琴の顔を、佐助の心情になって見る、という、文章と視覚イメージの見事な重なりを体感する、誠に稀有な読書体験をして、放心状態で物語を淡々と読み終えるわけでございますね。

で、話が逸れましたが、今作は切腹、でありますから、これはもう、ガチで切腹をした三島由紀夫、1970年でございます、今から55年前。三島由紀夫は45歳、『憂国』の切腹シーンはまさにシュミレーション、将来の自分が行う痛みのシュミレーション、でありましょうか、そういえば、三池崇史の映画、『切腹』のリメイクの木刀で切腹のシーンは未だ嘗て見たことがないほどに痛そうだったなぁ……。

で、『憂国』の切腹では、介錯がございませんから、『戦場のメリークリスマス』では、介錯を3回くらい失敗するシーンがありますが、やはり、介錯人は達人でないと務まらない、ということでございましょうか、然し、この
『憂国』切腹は、本当に痛そうでして、前半の美、美が極まっていく過程からの、肉体のホカホカ感、傷や痛み、血、その生感、これはもう対称的ですが、それすらも次第に、だんだんと、美しくなっていく、その感覚、そうして、その死を見届ける妻が、自分が死ぬ間際に、ようやく自分も夫の痛みを共有できると幸福を感じるあの描写、などなど、まぁ、覚悟が決まりすぎた心中小説、これを、三島さん、ご自分で演じていますからね。而も監督もされてますからね、ここまでいけば、最早あっぱれ、ですね。

映画版の『憂国』は28分。尺が短い映画は好きなんですね。まぁ、そもそも原作も短いですからね。
これを、最近の映画だと長編にして、他の作品の要素も混ぜて、オリジナルストーリーも追加する、と、いう恐ろしいことをするわけですね、まぁ、商売なんでね。
まぁATG映画、なので、予算も少ないのだ。ATGは予算1000万円くらいだからね、この『憂国』は制作費120万円、今の価値なら3〜4倍で500万円前後だろうか。
背景に『至誠』、つまりは、この上ないほどに誠実、と揮毫された書がバーンと掲げられた簡素な部屋、その隣の化粧部屋、そこだけが舞台の、削ぎ落としに削ぎ落としたシンプルライフ、つまりは、丁寧な生活、そのような場所、そのセットだけでほぼ全編語られる。

引き算の美学、見立て、これらは、テーマを純化し、研ぎ澄ませていく。二人だけの世界、で、あり、音楽が流れているだけで、今作は台詞もない。
まぁ、三島由紀夫は、演技は下手くそなので、然し味はある、味はある、けれども、もう、無声の方がいいに決まっている。鍛え抜いた身体で、切腹を演じる。このシーンはグロく、ホカホカの内臓が出てくる。大量の血に、ホカホカ内臓、小説版同様、刃がちゃんと切れるか足にそっと立てて血が出るシーンもちゃんとある。
然し、ぶっちゃけ、こんなに悲痛かつ苦痛な結果のシーンを演じておいて、それを実行するなんてやはり異常な感情だと思うが、死、を持っての訴え、とは、他の何者も凌駕する、至誠が伴っているとは思う。

『憂国』にせよ、『戦場のメリークリスマス』にせよ、どちらも、抽象化された、閉ざされた空間における物語で、どちらも、切腹が出てくる。

テーマはそれぞれに異なれども、どこか似通う、この、皇国主義的な、美と愚かのアンビバレントそのものを描いたような、この二本。
リアリズムの思想の先には、純化された物語が顔を出すようだ。





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